第3巻 第2章 『観測されない街』
黒門の奥に、そんな場所があるとは——
普通は誰も気づかない。
いや。
気づけない。
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「ここから先や」
浮浪雲は立ち止まった。
アーケードの明かりが、途中で途切れている。
その先だけ、光の質が違う。
暗いのではない。
——“定まっていない”。
「……行く気か」
背後で、国家観測局の男が低く言う。
「止める気か?」
「無駄だと分かっている」
「ほな黙っとけ」
浮浪雲は、缶の残りを飲み干し、足元に置いた。
一歩、踏み込む。
その瞬間——
音が消えた。
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世界が、薄くなる。
風もない。
匂いもない。
温度すら、曖昧だ。
「……なるほどな」
浮浪雲はゆっくりと周囲を見渡した。
店がある。
看板もある。
だが——
文字が読めない。
いや。
読もうとすると、形が崩れる。
「観測が成立してへん」
独り言のように呟く。
そのとき。
視界の端で、何かが動いた。
人影。
……のようなもの。
輪郭が揺れている。
顔があるはずの場所に、何もない。
「お前もか」
浮浪雲は声をかける。
返事はない。
だが、その“存在”は確かにこちらを向いた。
そして——
一歩、近づく。
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ズレる。
距離感が狂う。
近づいたはずなのに、遠い。
遠いはずなのに、すぐそこにいる。
「……あかん領域やな」
それでも、浮浪雲は笑った。
恐怖はある。
だが、それ以上に——
理解が勝っている。
⸻
「ここ、“誰にも見られてへん街”やろ」
声に出す。
すると。
空気が、わずかに震えた。
まるで——
“正解に反応した”ように。
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その瞬間だった。
頭の奥に、ノイズが走る。
——思い出しかける。
何かを。
幼い頃の記憶。
誰かと笑っていた。
顔が見えない。
名前も出てこない。
だが——
確実に、いた。
「……お前か」
浮浪雲の声が、少しだけ低くなる。
「消されたんは」
胸の奥が、軋む。
感情ではない。
もっと機械的な——
“記録の欠損”の痛み。
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「やっと気づいたか」
背後から声がした。
だが、それは——
さっきの男ではない。
振り返る。
そこにいたのは。
自分だった。
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同じ顔。
同じ目。
だが、違う。
決定的に。
「お前は、ここに残った方や」
“もう一人の浮浪雲”が言う。
「観測から外されたとき、分岐した」
「……分岐やと?」
「お前は戻った。俺は残った」
その言葉は、妙に納得できた。
理解できてしまう。
それが、逆に怖い。
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「ここはな」
もう一人の自分が、静かに言う。
「観測されへんもんが、溜まる場所や」
「消された人間、記憶、存在——全部な」
街を見渡す。
揺らぐ人影。
崩れる建物。
読めない文字。
「だから安定せえへん」
「そらそうやろな」
「でもな」
ここで、そいつは笑った。
自分と同じ笑い方で。
「最近、“誰かが触っとる”」
空気が変わる。
一気に冷たくなる。
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「触っとる?」
「せや」
ゆっくりと、指を上に向ける。
「外からや」
「……外?」
「国家でもない。宗教でもない」
一拍。
そして。
「もっと上や」
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その瞬間。
街が、大きく歪んだ。
建物が波打つ。
人影が崩れる。
空が割れる。
「来るぞ」
もう一人の自分が、低く言う。
「何がや」
答えは——
すぐに来た。
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“視線”だった。
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見られている。
どこからか。
圧倒的な何かに。
観測される。
その瞬間。
世界が——
固定される。
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「……なるほどな」
浮浪雲は、小さく笑った。
汗が一筋、頬を流れる。
「これが、“神”か」
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そして、呟く。
静かに。
だが、はっきりと。
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「見えるもんが全部や思うなよ」
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その言葉に。
“視線”が、わずかに揺れた。




