第3巻 第1章 『黒い照会』
私たちは「見ている」と思って生きている。
朝、目を覚まし、
人と話し、仕事をし、
世界を認識している──そう信じている。
だが、本当にそうだろうか。
あなたが見ている世界は、
“あなたが見ているから存在している”のか。
それとも──
“見せられているから、そう見えているだけ”なのか。
もしも、観測という行為そのものが、
誰かに操作されているとしたら。
もしも、あなたの記憶や選択が、
“最初から用意されていたもの”だとしたら。
そのとき、あなたはまだ、
自分を「自分」と呼べるだろうか。
この物語は、世界の崩壊を描いている。
だがそれは、建物や都市の崩壊ではない。
“認識”の崩壊であり、
“存在”の崩壊である。
そして同時に──
それでもなお「観ようとする意志」の物語だ。
どうか最後まで見届けてほしい。
あなた自身が、
「観測者であるとはどういうことか」を問われる、その瞬間まで。
雨が降っていた。
大阪・黒門市場の裏通り。
昼間の喧騒が嘘のように、人影はまばらだった。
ネオンが滲む。
水たまりに映る光が、歪む。
——世界が、少しだけズレている。
「……またか」
浮浪雲は、自販機の前で立ち止まった。
缶チューハイを取り出し、プルタブを開ける。
一口飲む。
「味はある。世界は正常。……ほな、異常なんは人間か」
そう呟いた瞬間だった。
後ろから声がした。
「その認識、半分正解だ」
振り返る。
スーツ姿の男が立っていた。
無機質な顔。年齢不詳。
だが、違和感がある。
——輪郭が、定まっていない。
「国家観測局だ」
男は、あっさり名乗った。
「正式名称は長いが、お前には関係ない」
浮浪雲は笑った。
「関係あるやろ。俺を追ってきとる時点でな」
男は無表情のまま続ける。
「お前は一度、観測から外れた人間だ」
「せやな」
「本来なら“存在しない”」
「せやろな」
「だが、お前は戻ってきた」
ここで、わずかに空気が変わる。
雨音が遠のく。
「なあ」
浮浪雲は、缶を揺らしながら言った。
「質問ええか?」
「許可する」
「なんで俺、覚えとるんや?」
男は一瞬だけ黙った。
その沈黙が——答えだった。
「記録は消せる」
男は言う。
「だが“観測者の残滓”までは消せない」
「……残滓、ねえ」
浮浪雲は空を見上げた。
雨粒が、頬を伝う。
「つまりや」
ゆっくり視線を戻す。
「“誰かが見た俺”は、消えへんってことか」
男の目が、わずかに細くなる。
「理解が早いな」
「現場叩き上げやからな」
その瞬間。
空気が——歪んだ。
通りの向こうを歩いていたはずの人影が、消える。
音もなく。
痕跡もなく。
ただ——いなくなる。
浮浪雲は、ため息をついた。
「また始まったか」
男はその光景を見ても、まったく動じない。
「現在、都市単位で観測削除が行われている」
「誰がやっとる?」
「……我々ではない」
ここで初めて、男の声に“人間らしさ”が混じる。
「制御不能だ」
浮浪雲は、笑った。
心底楽しそうに。
「ええやん」
「何がだ」
「おもろなってきたやんか」
一歩、男に近づく。
「国家が“わからん”言うた瞬間が、一番危ないんやで」
男は沈黙する。
その沈黙を切り裂くように——
遠くでサイレンが鳴った。
だが。
それはすぐに——消えた。
音ごと。
「……始まっとるな」
浮浪雲が呟く。
そして、ゆっくりと笑う。
その目には、確信があった。
「見えるもんが全部や思うなよ」
雨の中。
世界は、静かに崩れ始めていた。




