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王宮の輝きは、俺にはいつも安っぽく見えた。
金箔を貼られた柱、虚飾に満ちたシャンデリア、そして何より、腹に一物抱えた貴族たちの薄汚い笑い声。ここは欲望と欺瞞が渦巻く掃き溜めだ。虚空でしかない。
だが、今夜だけはその掃き溜めも、最高の劇場になるだろう。
馬車の扉が開くと、夜の冷気が流れ込んできた。
俺は先に降り、隣に座る「最愛の婚約者」へと手を差し出す。
「準備はいいか、リヴィア。……いや、『影の公爵令嬢』」
馬車の暗がりの奥で、銀色の瞳が鋭く光った。
差し出された俺の手を、彼女は躊躇なく掴む。その指先は驚くほど冷たく、そして鋼のように硬い意志を宿していた。
「ええ。この日のために、私は地獄から戻ってきたのだもの。……エスコート、頼むわよ、ゼクス」
彼女が車外へと姿を現した瞬間、周囲の喧騒が嘘のように消え去った。
彼女が纏っているのは、冥府の蝶の翅で織られた漆黒のドレスだ。
光の加減で毒々しい紫や深い銀色に揺らめくその布地は、彼女の透き通るような白い肌を、残酷なまでに引き立てている。
胸元は大胆に開き、背中には俺が自ら魔力を込めて刺繍させた「フェクシリアの鎌」の模様が、鈍い光を放っていた。
そして何より、顔の半分を覆う薄い黒レースのヴェールが、彼女の正体を秘めつつも、その奥にある美貌をより一層煽情的に演出している。
「……おい、あの方はどこのどなただ?」
「ヴァレンシュタイン大公閣下が、女性を連れてくるなんて……」
「なんて美しいんだ。まるで、夜そのものが形を成したような……」
周囲の貴族たちが呆然と立ち尽くす中、俺はリヴィアの腰をぐいと引き寄せ、密着させた。
薄いドレス越しに伝わる、彼女の柔らかな体温。復讐に高揚しているせいか、鼓動がいつもより少し早い。その動悸さえも、俺にとっては愛おしい旋律だった。
「リヴィア。みんなが君に見惚れている。……少し、独占欲が湧いてきた。今すぐ連れ帰って、俺の部屋に閉じ込めてしまいたい」
「……馬鹿なこと言ってないで、前を見て。ほら、獲物がお出ましよ」
ヴェールの奥で、リヴィアが唇を吊り上げた。
その視線の先――大ホールの中心、一段高い壇上に、今夜の主役たちが立っていた。
王太子、バルザム・ベリアル。
そして、その隣で「聖女」のような白いドレスを纏い、殊勝な面持ちで微笑んでいる義妹、セレナ・アルジェント。
バルザムは、かつての婚約者を崖から突き落としたことなど、微塵も覚えていないような晴れやかな顔で酒杯を掲げている。その横でセレナは、姉の持ち物だったはずの「アルジェントの家宝」をこれ見よがしに首に飾っていた。
俺の腕の中で、リヴィアの体温が急激に下がった。
周囲の空気がピリピリと凍りつき、微かな霜が床に降りる。
「……あいつ、お母様のペンダントを……あんな汚い首にかけて……」
「落ち着け、リヴィア。今ここで凍らせては面白くない。最高の絶望を、最高のタイミングで与えるのが『復讐』の鉄則だろう?」
俺は彼女の耳たぶを甘噛みする勢いで近づき、低い声で制した。
彼女は小さく震え、深く息を吐いて殺気を収める。
「……わかってるわ。……行きましょう。地獄の宴の始まりよ」
俺たちは悠然と歩き出した。
人混みが割れる。公国大公という俺の地位と、隣に並ぶ絶世の美女の存在感に、誰もが道を開けざるを得ない。
壇上のバルザムが俺たちの存在に気づき、不敵な笑みを浮かべて声をかけてきた。
「これはこれは、ゼクス大公ではないか。戦場にばかりいる貴公が、このような華やかな夜会に顔を出すとは珍しい。……おや、そちらの女性は?」
バルザムの視線が、リヴィアの身体を舐めるように動く。その下劣な好奇心に、俺はこめかみがピクリと動くのを感じたが、あえて余裕の笑みを返した。
「俺の新しい『婚約者』だ。あまりに美しく、誰にも見せたくなかったのだが……今夜はあまりにめでたい貴殿の国の宴だと聞き、自慢したくなってね」
「ほう、あの冷血公がついに女を……。どれ、顔を見せてはどうだ? ヴェール越しでも、その美しさは十分に伝わってくるが」
「……お初にお目にかかります。バルザム殿下」
リヴィアが、一歩前に出た。
彼女の声は、かつての鈴を転がすような甘いトーンではない。氷の刃を研ぐような、低く、冷たく、そして酷く艶やかな響きだ。
その声を聞いた瞬間、セレナの顔色が劇的に変わった。
彼女は手に持っていた扇を落とし、震える指をリヴィアに向ける。
「……え……? そ、その声……ま、まさか……」
「どうした、セレナ? 具合でも悪いのか?」
バルザムが不思議そうにセレナを振り返るが、彼女は返事もできないほどにガタガタと震え始めた。
当然だ。自分たちが殺したはずの姉。泥にまみれ、崖の下で野垂れ死んだはずの「リヴィア・アルジェント」の声が、公国大公である、俺の隣から聞こえてきたのだから。
「……お久しぶりですわ、セレナ。……そして、お父様も」
リヴィアは、背後にいたアルジェント侯爵にまで視線を送った。
侯爵もまた、幽霊でも見たかのように目を見開き、口をパクパクとさせている。
「な、……リ、……リヴィ……」
「リヴィ? 誰のことだ?」
バルザムが怪訝な声を出す中、リヴィアはゆっくりと、焦らすように手を顔にかけた。
「殿下が、お顔を見せろとおっしゃったので……」
黒いレースが、はらりと落ちる。
剥き出しになったのは、以前の彼女よりもずっと鋭く、そして神々しいまでの美貌。
会場が、水を打ったような静寂に包まれた。
次の瞬間、無知な貴族らから、悲鳴に近い驚愕の声があちこちで上がる。
「リヴィア・アルジェント……!? し、死んだはずでは!?」
「事故で、崖から落ちたと聞いていたけれど……!」
バルザムの顔から、余裕の笑みが消えた。
彼は後退り、信じられないものを見る目で彼女を指差した。
「き、貴様……! なぜ生きている! 処刑……いや、事故で死んだはずだろう!」
「ええ、私は一度死にましたわ、バルザム殿下。……あなたの不貞を指摘し、セレナの嘘を暴こうとしたあの夜に。私は、あなたたちによって奈落へ突き落とされました」
リヴィアの一言が、会場に爆弾を投げ込んだ。
事情知らぬ貴族たちが一斉にざわつき始める。
「処刑!?」
「突き落とした!?」
「事故ではなかったのか!?」
「き、貴様! な、何を……! 出鱈目を言うな! 貴様は王太子暗殺を企てた大罪人だ! 生きていたのなら、今すぐ捕縛して――」
「捕縛? 誰をだ、バルザム」
俺は一歩、リヴィアの前に出た。
ただ立ち、魔圧をわずかに解放するだけで、会場の貴族らの声も解せぬ悲鳴が上がる。
バルザムが「ひっ」と短い悲鳴を上げ、腰を抜かして壇上に座り込んだ。
「彼女は今、ヴァレンシュタイン大公家の庇護下にある。彼女への無礼は、我が公国への宣戦布告と見なすが……異論はあるのか?」
「……ぜ、ゼクス……。貴公、自分が何を言っているのかわかっているのか!? この女は、暗殺未遂の――」
「その証拠とやらは、これのことか?」
俺は懐から、数枚の紙束を取り出した。
それは、彼女を陥れるためにセレナが偽造し、バルザムが承認した文書の「原本」だ。本物の筆跡鑑定書と、それを作成させた際の口封じの証言記録まで添えてある。
「なっ……! なぜそれを!! はっ!?」
「言っただろう。俺は退屈していたんだ。お前のような無能が、小賢しい小細工で俺の気に入った『薔薇』を汚したのが許せなくてな。目と鼻の先に国を構えるの無能に、うんざりしていた」
俺は紙束を空中に放り投げた。
紙は魔法の炎で焼かれることなく、会場じゅうに雪のように舞い落ちる。貴族たちがそれを拾い、読み、驚愕の声を上げる。
「これは……! セレナ様が魔法師を抱き込んだ記録だわ!」
「暗殺の毒も、もともとセレナ様が持っていたもの……?」
「違う! それは偽物よ! 私、そんなの知らない!」
セレナが発狂したように叫ぶが、その顔は恐怖で土気色だ。
リヴィアが、静かに壇上へと歩み寄る。
一歩進むごとに、彼女の足元から黒い氷が広がり、華やかな壇上を冷酷な死の世界へと変えていく。
「セレナ。私の母のペンダント……返してちょうだい。それは、あなたのような薄汚い泥棒に相応しいものではないわ」
「来ないで! 近寄らないで、この化け物!!」
セレナが魔法で対抗しようと手をかざすが、彼女の貧弱な光魔法は、リヴィアの「黒氷」に触れた瞬間に霧散した。
リヴィアはセレナの首筋に冷たい指を添え、無造作にペンダントを引きちぎった。
「ああ、……冷たいわね。……今のあなた達の心と同じくらい」
リヴィアがペンダントを手に戻った。
俺はその彼女を再び抱き寄せ、震える肩をなだめるように抱きしめる。
「よくやった、リヴィア。……だが、まだ序の口だろう?」
「ええ。証拠を突きつけるだけじゃ足りない。……あいつらが、私に味わわせた屈辱を、その何倍にもして返してあげなきゃ」
リヴィアが俺を見上げ、美しく、そして残酷な笑みを浮かべた。
その顔は、復讐の狂気に満ちていて――これまで見たどの瞬間よりも可愛らしかった。
「殿下! どういうことです! 説明してください!」
「リヴィア様をあんな風に扱うなんて、王家の面汚しだ!」
貴族たちの罵声がバルザムたちに浴びせられる。
俺は混乱する会場の真ん中で、バルザムに向けて最後の一撃を放った。
「バルザム。今夜の祝賀夜会は中止だ。代わりに、お前とセレナの『罪状告発夜会』を始めようじゃないか。……もちろん、お前が逃げ出さないように、この会場は公国の兵で完全に封鎖させてもらっているよ」
バルザムが震える手で逃げ口を探すが、ホールの扉はすでに巨大な氷の柱によって固ざされ、兵士達が封鎖していた。
「さて、リヴィア。君のやりたいようにやれ。俺はここで、君の勇姿を特等席で眺めていよう。……合間で甘えたくなったら、いつでも俺の腕の中においで。たっぷり愛でてやるからな」
「……本当に、あなたって人は……。……でも、今は少しだけ、その言葉に甘えてあげてもいいわ」
リヴィアは俺の頬に、ヴェール越しではない、確かな唇の感触を残した。
一瞬の口づけ。
俺の心臓は、これまでで一番激しく脈打った。
「……ははっ。これは、頑張るしかないな」
俺はバルザムに向けて、指を鳴らした。
それは、地獄の開演を告げる合図。
復讐に燃える彼女と、それを全肯定して愛でる俺。
帝国史上、最も美しく凄惨な「復讐」の時間が、本格的に始まった。




