5
封鎖された大ホールの空気は、もはや祝祭のそれではない。
恐怖と困惑、そして貴族らの剥き出しの好奇心が入り混じった、どろりとした沈殿物のような重苦しさが支配している。
逃げ場を失ったバルザムとセレナ。その醜態を、俺はリヴィアを抱き寄せたまま、極上のヴィンテージワインを楽しむような気分で眺めていた。
「……ゼクス。あの男、まだ自分が助かると思っているみたい」
リヴィアが俺の胸元で小さく囁いた。彼女の視線の先では、バルザムが震える膝を必死に叩き、立ち上がろうともがいている。
「無駄な足掻きだな。だが、追い詰められたネズミが最後にどんな顔をして絶望を飲み込むのか……それを見届けるのも、俺たちの特権だ」
俺は彼女の細い肩を引き寄せ、わざとらしくその銀髪に唇を寄せた。
周囲の貴族たちが息を呑む。
大公が、泥を投げつけられたはずの令嬢を、神聖な宝物のように扱っているのだ。この光景自体が、バルザムたちへの何よりの毒になる。
「衛兵! 衛兵は何をしている! この乱入者を……この大罪人を今すぐ捕らえろ!」
バルザムが枯れた声で叫ぶ。だが、他の貴族ら(主人)の顔色を伺うばかりで動く気配すらない。また豪華な扉を固める俺が従える、大公家の騎士たちは、固く扉を封鎖し続け、動かない。
彼らが従うのは、王家の血筋などではない。貴族たちという絶対的な「力」だけだ。王家は貴族から兵を借りているに過ぎない。
「無駄だよ、バルザム。この城の他の衛兵たちは、今頃俺の部下たちとお茶会でもしているだろう。それとも、お前が個人的に雇っていた『掃除屋』たちを待っているのか? ……残念ながら、彼らはすでにこの国の地下墓地で永眠の準備に入っているが」
「……なっ……!? 貴様、そこまで……!」
「言っただろう。俺は退屈していたんだ。お前という『無能な王族』が、この国をどれだけ腐らせているか、その証拠を揃えるのは子供の遊びよりも簡単だった」
俺は空中に指を走らせた。
青白い炎が虚空に踊り、そこから次々と「真実」が投影される。
それは、バルザムが隣国のスパイと密約を交わし、リヴィアの父であるアルジェント侯爵と共に、国境付近の鉱山利権を横流ししていた記録。そして、その資金をセレナとの贅沢な逃避行の準備に使おうとしていた証拠だ。
「こ、これは捏造だ! 誰か、この反逆者を――!」
「捏造かどうかは、今ここに来る御方が判断されるだろう」
タイミングを合わせたかのように、ホールの最奥、皇帝専用の隠し扉が開いた。
現れたのは、黄金の刺繍を施した漆黒の法衣を纏う、初老の男。
帝国の至高、皇帝陛下その人だ。俺とリヴィアも深く頭を下げる。
「……バルザム。ここまで見苦しいとは。予の金を掠め取っていた汚らしい盗っ人は、貴様らだったか」
地を這うような皇帝の声に、会場の全貴族が膝を突いた。
バルザムは力なく床に崩れ落ち、セレナは「ひいっ」と短い悲鳴を上げて顔を覆った。
「こ、皇帝陛下……! ち、違います、これはゼクス大公の謀略で……!」
「謀略か。ならば、ここに記された貴殿の印章も、リヴィアを突き落とした際に使った毒の購入履歴も、すべて幻だと申すか?」
皇帝の手には、俺が事前に送り届けておいた「全記録の写し」が握られていた。
俺は皇帝と視線を交わし、微かに頷く。
王太子の交代。それは皇帝にとっても懸案事項だったはずだ。無能なバルザムを切り捨て、俺の「気まぐれ」を利用して権力構造を再編する。……ギブ・アンド・テイクだ。
「バルザム・ベリアル。本日をもって貴殿の王位継承権を剥奪し、大逆罪の容疑で極刑を言い渡す。また、アルジェント侯爵家は取り潰し。財産はすべて没収し、一族郎党、国外追放とする」
非情な宣告。
セレナが発狂したように叫び声を上げた。
「嫌! そんなの嫌! 私は聖女になるのよ! お姉様よりもずっと、バルザム様に愛されて……!」
「……セレナ」
リヴィアが、一歩前に出た。
彼女の足元から伸びた黒い氷の棘が、セレナのドレスの裾を縫い止める。
「愛されていた? いいえ、あなたはただ、利用されていたのよ。バルザムはあなたを愛していたんじゃない。私の誇りを傷つけるための、使い捨ての道具として選んだだけ」
「うるさい、うるさい! お姉様なんて、死ねばよかったのよ! あの時、崖から落ちて、泥にまみれて、消えてしまえばよかったのに!」
「そうね。私は一度、あの泥の中で死んだわ。……でも、そのおかげで気づけたの。あんな汚い場所で終わるには、私の復讐心はあまりにも高潔すぎるって」
リヴィアがそっと手をかざすと、セレナの首にかかっていたペンダントが粉々に砕け散った。
「それは、私の母の魂。あなたの汚れた肌に触れているのが、耐えられなかったの」
「あ、あ、あああああ……!」
セレナが絶望に顔を歪め、崩れ落ちる。
かつての「帝国の至宝」と、その影に隠れていた「偽物の聖女」
その立場が、今この瞬間、残酷なまでに逆転した。
俺は震えるリヴィアの背中に手を添えた。
彼女の復讐は、これで一つの区切りを迎えた。だが、彼女の心に空いた穴が、これで埋まるわけではない。
だからこそ、俺の出番だ。
「リヴィア。……よく頑張ったな」
俺は彼女を正面から抱きしめた。
大勢の貴族が見ている。皇帝さえの視線も……。
だが、そんなことなど知ったことか。
俺は彼女の冷え切った指先を取り、その甲に深く、熱い接吻を落とした。
「あいつらが奪ったものは、俺がすべて君に返してやろう。地位も、名誉も、財産も……そして、誰もが羨むような、至上の愛もな」
リヴィアが、驚いたように俺を見上げた。
その瞳には、先ほどまでの鋭い殺意ではなく、戸惑いと、ほんの少しの――熱が宿っている。
「……ゼクス。あなた、本当に……空気が読めないわね。こんな時に……」
「空気など、俺が作ればいい。……リヴィア。君の復讐劇は、まだ幕を閉じたわけじゃないだろう? これから、この抜け殻のような男たちが、地の底で這いずり回るのを眺める時間が残っている」
俺はバルザムに向けて、冷笑を浮かべた。
「バルザム。お前の処刑は、リヴィアの気が済むまで少しばかり延期するかもな。毎日、自分が何を失ったのか、どれほど愚かだったのかを反芻しながら、暗い地下牢で過ごすといい。……ああ、食事はリヴィアが食べたあの泥を用意してやろう」
「……ひ、……あ……」
バルザムはもはや言葉を紡ぐこともできず、失禁して白目を剥いた。
醜い。あまりにも醜悪だ。
「おい、衛兵。このゴミ共をさっさと牢へ連れて行け。予の視界が汚れる」
皇帝陛下の命令に、騎士たちが一斉に動き出す。
引きずられていくバルザムとセレナ。その断末魔のような叫び声が、ホールの外へと消えていく。
会場に静寂が戻る。
だが、それは先ほどまでの重苦しいものではなく、新しい時代の幕開けを予感させる、清冽な静寂だった。
「さて、リヴィア。……復讐は無事終わった。少し疲れただろう?」
「ええ……。……なんだか、毒気が抜かれちゃった。あなたのせいですわ」
リヴィアがふう、と深く溜息をつき、俺の胸に完全に身を預けてきた。
その重みが、俺にはたまらなく愛おしい。
「よし。なら、夜会はここまでだ。皇帝陛下、後はよしなに。俺は俺の婚約者を甘やかしてこなければならないので」
俺は皇帝に軽く会釈をし、リヴィアを横抱きに抱え上げた。
「ちょ、ちょっと! ゼクス! 降ろして、みんなが見ているわ!」
「いいじゃないか。俺が君をどれほど愛でているか、大陸中に知らしめる絶好の機会だ。……それに、君のその赤くなった顔。……復讐に狂っている時よりも、ずっと、ずっと美しく、可愛いぞ」
「……っ、バカ! 変態!」
「期待に応えられるよう、君への甘やかしに励むとしよう」
赤面して俺の胸を叩くリヴィア。
彼女の復讐心は、まだ消えていないだろう。
明日になれば、また鋭い目を光らせるに違いない。
だが、それでいい。
復讐に忙しい彼女を、俺が全力で、独善的に、そして病的なまでの情熱で甘やかし続ける。
俺の退屈な世界は、この泥の中から咲いた「氷の薔薇」によって、鮮やかに彩られた。
「さあ、帰ろう。……明日の朝食は、君の好きなクラウドベリーのパンケーキだ。復讐の合間の、甘い休息をたっぷり与えてやるからな」
「……パンケーキ二枚……いえ、三枚なら、許してあげてもいいわ」
「ははっ。安い代償だ」
俺たちは、凍りついたままのホールを堂々と闊歩し、夜の闇へと消えていく。
背後で、かつての敵たちが滅びゆく音が聞こえてくる。
だが、今の俺たちの耳に届くのは、互いの高鳴る鼓動と、少しだけ照れくさそうな、彼女の愛しい吐息だけだった。




