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深い眠りの中にあっても、彼女の眉間には常に険しい皺が寄っていた。
夢の中でさえ、彼女は裏切り者たちの首を絞めているのかもしれない。あるいは、冷たい崖下で泥を啜る屈辱を追体験しているのか。
俺――ゼクス・ヴァレンシュタインは、自邸の最奥にある、普段は誰も入れない主寝室の椅子に深く腰掛け、ベッドに横たわるリヴィアを見守っていた。
彼女が運ばれてきてから三日。公国内、最高の治癒魔導師を三名、文字通り首を掴んで連れてこさせ、光輝魔法を惜しみなく注ぎ込ませた。剥がれた爪は再生し、ズタズタだった肌は真珠のような元の輝きを取り戻している。
だが、俺が一番見たい「輝き」は、まだその瞼の裏に隠されたままだ。
「……ふむ。やはり、この色は少し地味か」
俺は彼女の枕元に置かれた、特注のシルクの寝衣を指先でなぞる。
彼女の銀髪を際立たせるには、深海のようなネイビーか、あるいは復讐を象徴する鮮血のような深紅が相応しいだろう。
俺は手元の羊皮紙に『リヴィア用:最高級のドレスと下着、百着ずつ発注。色は本人に選ばせるが、俺の好みも混ぜる』と書き加えた。
「……う、……ぁ……」
小さな、掠れた声。
その瞬間、俺は椅子から立ち上がり、彼女の顔を覗き込んだ。
睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開く。
そこには、三日前と同じ――いや、休息を得てより一層鋭利さを増した「憎悪」の光があった。
「……ここ、は……」
「俺の城だ。おはよう、リヴィア。地獄の底から、よくぞ戻ってきた」
俺が声をかけると、彼女は反射的に体を起こそうとして、すぐに顔を顰めた。
魔法で傷は塞がっていても、魂に刻まれた痛みまではすぐには消えない。
俺は彼女が倒れ込む前に、その背中に腕を回し、優しく支えた。
「離して、……ゼクス、公爵……。私は……」
「大公だ。それに、今は名で呼ぶことを許そう。……それよりリヴィア、最初にするべきは拒絶じゃないだろう?」
俺はサイドテーブルに用意させていた、特製のスープを手に取った。
公国に僅かしかいない高位錬金術師に、彼女の体力回復のためだけに作らせた至高の一品だ。
「まずはこれを飲め。復讐には体力が必要だろう。胃が空っぽでは、バルザムの首を撥ねる剣も振るえまい?」
「……自分、で……飲む……」
「だめだ。君の指先は、まだ細かな震えが止まっていない。俺が飲ませてやる。さあ、口を開けろ」
彼女は屈辱に震えるような目で俺を睨んだ。
普通なら、その視線だけで心臓が凍りつくような氷の微笑。
だが、今の俺にはそれが最高の褒美だった。
「……変態。……本当に、趣味が……悪い……」
「ああ、自覚はある。だが、その嫌悪に満ちた顔は、三日前よりもずっと可愛いぞ」
俺がスプーンを口元に運ぶと、彼女は観念したように小さく口を開けた。
一口、また一口。彼女が栄養を摂取するたびに、その頬にわずかな朱が差していく。その過程を特等席で眺められるのだ。これ以上の贅沢があるだろうか。
スープを飲み終えた彼女は、ふう、と息を吐き、俺を真っ直ぐに見据えた。
「……なぜ、私にここまで……。利用価値があるとは思えないわ。私はもう、アルジェント侯爵家の娘でも、王太子の婚約者でもない。ただの、死に損ないの死人なのよ」
「価値? そんなもの、俺が決めればいいことだ」
俺は空になった器を置き、彼女の濡れた唇を指先でそっと拭った。
彼女がビクリと肩を揺らす。
「君はバルザムとセレナを殺したいほど憎んでいる。俺は退屈を憎み殺したい。……利害は一致している。それに、俺は君のその『目』に惚れ込んだと言っただろう。君が復讐を遂げるまでの間、俺の退屈は完全に消え去る。そのためなら、王国を半分焼き払って、その灰を君に献上しても構わない」
「狂ってる……」
「最高の褒め言葉だ」
俺は笑みを深め、彼女の銀髪を一房手に取って、その先端に唇を寄せた。
彼女は不快そうに顔を背けたが、逃げようとはしなかった。
逃げられないと悟っているのか、あるいは俺の力を利用すると決めたのか。……どちらにせよ、心地よい。
「さて、リヴィア。君が眠っている三日の間に、世界は少し動いたぞ。知りたいか?」
彼女の目が、一瞬で捕食者のそれに変わった。
「……教えて」
「バルザムは、君の『死』を事故として処理した。そして昨日、君の義妹、セレナ・アルジェントを新たな王太子妃候補として正式に発表したよ。侯爵家も、君がいなかったかのように彼女を祭り上げている。現金なものだな」
リヴィアの周囲の空気が、ピリピリと震え出した。
無意識に放出された魔圧。治癒したばかりだというのに、これほどの魔力を練れるとは。やはり俺の目に狂いはなかった。
「……そう。あいつら、笑っているのね。私が死んだと思って……幸せそうに」
「ああ。来週には、彼らの婚約内定を祝う祝賀夜会が催される。君を突き落とした崖など忘れ、贅を尽くした酒を飲むそうだ」
パキリ、と。
彼女が握りしめていたシーツが、あまりの握力に裂けた。
彼女の瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
それは悲しみの涙ではない。沸騰した憎悪が溢れ出した、熱い雫だ。
「……殺す。……絶対に、生かしてはおかない……。その宴を、あいつらの葬儀に変えてやる……!」
「いい。実にいい表情だ」
俺は彼女を抱き寄せ、その細い肩を抱いた。
リヴィアは俺の胸に顔を埋めたまま、獣のような低い声で泣き、笑った。
「協力してやる、リヴィア。その宴に、俺の『婚約者』として堂々と乗り込もう。死んだはずの君が、公国大公の最愛として現れる。……奴らがどんな顔をするか、想像するだけで楽しくて仕方がない」
俺は彼女の耳元で囁く。同時に指示し終えていた。
配下の密偵たちへ、バルザムの隠し資産、不貞の証拠、そしてアルジェント侯爵家が隠している汚職の記録……それらすべてを「宴の日」までに完璧に揃えるよう命じていた。
俺一人で終わらせてしまってはつまらない。
リヴィアが自分の手で、奴らの喉元に牙を立てる。
俺はそのための舞台装置を、最高に華々しく、残酷に整えてやるだけだ。
「……ゼクス。私を、愛でるのでしょう?」
ふいに、リヴィアが顔を上げた。
濡れた瞳で俺を見つめる彼女。その唇には、俺を誘惑するような、しかしどこか試すような危うい笑みが浮かんでいた。
「復讐に、私の人生のすべてを捧げると決めた。だから、あなたの愛が、私を甘やかすためだけの毒なら……喜んで喰らってあげるわ」
「ははっ、覚悟はできているようだな」
俺は彼女の腰を引き寄せ、鼻先が触れ合うほどの距離で見つめ返した。
「ああ、たっぷり愛でてやる。復讐の合間に、君が息を継ぐ暇もないほどに。甘い菓子も、煌びやかな宝石も、贅を尽くしたドレスも。そして、俺の執着も。……君が『もう勘弁して』と泣き叫ぶまで、徹底的に甘やかしてやろう」
彼女が俺の首に手を回す。
復讐に忙しい彼女は、確かに世界で一番可愛い。
そしてその可愛らしさを、俺以外の誰も知らないという事実に、俺はかつてないほどの充足感を感じていた。
「さあ、まずは宴のための『衣装合わせ』だ。君を、帝国で最も美しく、最も恐ろしい『死神』に仕立て上げてやるよ」
俺は彼女を再びベッドに横たえ、名残惜しそうにその額にキスをした。
リヴィアは少しだけ頬を染め、「……しつこいわね」と呟いて目を逸らした。
その反応さえも、俺にとっては最高のスパイスだった。
窓の外では、嵐が去った後の清々しい青空が広がっていた。
だが、その穏やかさは、これから始まる「復讐」の嵐の前触れに過ぎないことを、俺だけが知っていた。




