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退屈だ。
この世界は、あまりにも予定調和に過ぎる。
すべてが手に入り、すべてが予想の範囲内。そんな色のない世界で、俺は常に「何か」を求めていた。俺の魂を揺さぶり、この冷めきった血を沸き立たせてくれるような、強烈な毒を。
その夜、俺は気まぐれに、帝都の端にある「断罪の崖」へと足を運んでいた。
そこは、王族に不都合な存在や、大罪を犯した貴族が密かに処刑される場所だ。新月の夜、激しい雨が降りしきる中、俺は外套も差さずに崖下に立っていた。
「閣下、このような薄汚れた場所に長居されるのは……」
背後で控える騎士たちが困惑した声を出すが、俺は片手を挙げて黙らせた。
その時だった。
崖の上から、どさりと「肉の塊」が落ちてきたのは。
ぐちゃり、という嫌な音がして、泥と水飛沫が舞う。普通の人間なら即死だろう。だが、俺の鋭敏な感覚は、その肉の塊がまだ微かに拍動を刻んでいるのを捉えた。
「ほう……?」
俺はゆっくりと歩み寄る。
そこに転がっていたのは、一人の女だった。
かつてアルジェント侯爵家の至宝と呼ばれ、その高潔さゆえに「氷の薔薇」と謳われた令嬢、リヴィア・アルジェントだ。
だが、今の彼女にその面影はない。
美しい銀髪は泥と血にまみれ、豪奢なドレスは無惨に引き裂かれている。喉には魔力を封じる呪印が刻まれ、その肌は激しい拷問の跡で埋め尽くされていた。
彼女を陥れたのは、現王太子のバルザム・ベリアル。
女癖が悪く、無能な癖にプライドだけは高いあの男が、リヴィアという「正論しか言わない邪魔な婚約者」を排除し、彼女の義妹である愛妾を据えるために仕組んだ茶番。それが今夜の「断罪」の正体だ。
死ぬだろう、と俺は思った。
この傷、この絶望。人間なら、ここで静かに息を引き取るのが救いだ。
だが。
「……はあ、はあ。……まだ、だ。まだ、死ねない」
泥の中から、細い手が伸びた。
爪は剥がれ、指先はあらぬ方向に曲がっている。それでも、彼女はその指を泥に突き立て、這った。
一歩、また一歩。
ズル、ズルと重苦しい音を立てて、彼女は自分を突き落とした崖を見上げ、怨嗟の声を漏らした。
月明かりすらない新月の夜。処刑場へ続く崖下の泥濘の中で、一人の女が蠢いていた。
恐らくリヴィア・アルジェント。
かつて『王国の至宝』とまで称えられた、高潔なる侯爵令嬢。
今やその姿に、かつての面影はない。美しい銀髪は泥を被り、豪奢だったドレスはボロ布となって、抉られた傷口を無慈悲に露出させていた。
「……殺す。……絶対に、許さない」
彼女を陥れたのは、誰でもない。実の義妹と、愛を誓ったはずの第一王子だ。
無実の罪を着せられ、喉を潰され、公的な記録から抹消された上で、この崖から突き落とされた。
だが、神は彼女を見捨てなかったのか。あるいは、悪魔が彼女の執念を気に入ったのか。
彼女の心臓は、いまだ脈打っている。
退屈という名の病に冒され、世のすべてを冷めた目で見つめてきた俺にとって、目の前の光景はあまりにも鮮烈だった。
その瞬間、俺の胸の中にあった「退屈」という名の氷塊が、パキリと音を立てて割れた。
背筋を駆け上がる、未知の熱狂。
見ろ、あの目を。
絶望に染まったはずの瞳の奥で、どす黒く、しかし気高く燃え上がる復讐の炎を。
「……素晴らしい」
泥を啜り、折れた指で地面を這い、怨嗟の声を漏らす女。
普通なら憐れみを覚えるか、あるいはその醜さに顔を背ける場面だろう。
だが、俺には、彼女がどんな宝石よりも美しく見えた。
彼女がこちらに気づいた。
光を失ったはずの瞳。その奥底で燃え盛る、地獄の業火のような復讐心。
彼女は、俺が誰であるかも理解していないだろう。ただ、目の前に立ち塞がる「邪魔な影」として、その折れかけた指を俺の靴に伸ばした。
気がつけば、俺は膝をついていた。
一着で平民が一生遊んで暮らせるほどの高価な軍服が、彼女と同じ泥に汚れ、血を吸い込んでいく。だが、そんなことはどうでもよかった。
俺は彼女の、泥まみれの顎をそっと指先で持ち上げた。
「リヴィア・アルジェント。君は、今、何を望む?」
彼女の焦点が、ゆっくりと俺に合う。
俺が誰かなど、今の彼女には関係ないのだろう。目の前に現れたのが神か悪魔かさえ、彼女にはどうでもいいことなのだ。
「……復讐」
掠れた、呪いのような声。
だが、その声は俺の鼓膜を最高のリズムで震わせた。
無垢な女性の愛の言葉よりも、聖女の祈りよりも、この泥まみれの復讐者の誓いの方が、どれほど甘美で美しいことか。
「俺は退屈しているんだ、リヴィア。君が、あの腐りきった王都をどう食い荒らし、ゴミ共をどうやって『復讐』してやるのか、特等席で見せてもらいたい」
彼女の瞳に、わずかな光が宿る。
それは希望ではない。目的を果たすための、狡猾で鋭利な刃の輝きだ。
「……取引、成立、ね……」
「ああ、成立だ」
俺は彼女を横抱きに抱え上げた。
驚くほどに軽く、そして驚くほどに熱い。彼女の復讐心が、その体を燃やし続けているのだ。
「閣下! それはその、反逆者として処刑された女です! ヴァレンシュタイン家が関われば、陛下との関係に障ります!」
騎士たちが慌てて詰め寄る。
俺は、冷徹な視線だけで彼らを射抜いた。
「黙れ。俺が拾ったんだ。文句があるなら、バルザムの馬鹿を連れてこい。俺がこの場で、あいつの首をリヴィアへの『快気祝い』として差し出してやってもいいんだぞ?」
俺の放った殺気に、騎士たちは石像のように硬直した。
俺は満足して、腕の中の「可愛い復讐者」を見つめる。
「…………なんで、笑ってるのかしら……?」
彼女が微かに毒づいた。
そうか、俺は今、笑っているのか。
鏡を見ずともわかる。今の俺は、獲物を見つけた猛獣のような、酷く下劣で幸せな顔をしているはずだ。
「ああ、笑わずにはいられないさ。これほどまでに美しい魂に出会えたんだ。リヴィア、俺は君を愛でることに決めた。さあ、帰ろう。今日から君は、俺の『愛しい婚約者候補』だ。復讐に、存分に打ち込むがいい。その合間で構わないから、俺にも少しだけ愛でる時間をくれるなら、全力で君の刃となってやろう」
彼女は、一瞬だけ呆気に取られたような顔をした。
だがすぐに、その唇が歪な笑みを形作る。
「……変態、ね……」
「最高の褒め言葉だ」
俺の言葉が届いたのか、彼女は一度だけ力強く俺の胸ぐらを掴み、そのまま意識を失った。
その小さな手の感触が、俺の心臓を激しく打ち鳴らす。
俺は彼女を抱えて歩き出した。
背後で雨足が強くなる。
この雨が、彼女が流したはずの涙をすべて洗い流してくれるだろう。
明日から始まるのは、血塗られた復讐劇。そして、俺による至上の溺愛生活だ。
「まずはそのボロボロの体を癒してあげよう。話はそれからだ。……ああ、リヴィア。君のその憎悪に満ちた顔、本当に可愛いよ。さて、まずは掃除からだな。……おい、お前たち。今夜、リヴィア・アルジェントは死んだ。ここにいるのは、俺が異国から連れ帰った『秘蔵の婚約者』だ。いいな?」
有無を言わせぬ圧をかけ、俺は雨の中を歩き出した。
王宮へ。俺の城へ。
これから始まるのは、帝国史上最も華やかで、最も凄惨な復讐劇。
そして、俺による、世界一甘やかで、世界一独善的な溺愛生活だ。
「待っていろよ、バルザム。お前が捨てたこの『薔薇』が、どれほどの毒を持って、お前の喉元を食い破るか……楽しみにしておくがいい」
俺の腕の中で眠るリヴィアの頬を、俺は汚れるのも構わず何度も撫でた。
泥だらけの彼女が、今の俺には、世界のどんな宝石よりも愛おしくて堪らなかった。




