↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/51

第九話 黒豆の茶

 ギルドの酒場は朝になると食堂に変わる。


 長テーブルの上に、黒パンと豆のスープと、陶器の小さな器が並べられていた。器の中で、黒く濁った液体が湯気を立てている。


「これが例の、苦いお茶です!」


 ミレイユがなぜか得意げに胸を張った。


「南の行商人さんが持ってくる黒い豆を、炒って煮出したものなんですよ。目が覚めるって言われてて、朝の冒険者さん向けに置いてるんです。……人気はないんですけど」


 カイが器を覗きこみ、露骨に顔をしかめる。


「俺、これ一回飲んで吐きそうになった」


 アルトは器を両手で包んだ。


 陶器越しに伝わる熱。鼻を近づける。


 焦げた匂いがした。煙っぽく、えぐみのある、焚き火の燃えさしのような匂い。その奥に、ほんのかすかに。


 知っている香りがあった。


 前世の深夜。オフィスの給湯室。コーヒーメーカーから立ちのぼる、あの香り。


 口に含む。


 苦い。舌が痺れるほど苦く、渋く、酸っぱい。煮出しすぎたのか、どろりとした舌触りまである。


 それでも。


「……コーヒーだ」

「え?」

「いや、なんでもない」


 間違いない。豆の扱いが滅茶苦茶なだけで、元は同じものだ。


「我が君。心拍数が急上昇しています」

(NOA。この液体の理を読んでくれ)

「解析します。……前世の記録にあるコーヒーと、主成分の構造が九割以上一致します。ただし焙煎が不均一です。一部は生焼け、一部は炭化しています。抽出時間も過剰です」

(つまり)

「豆は本物です。淹れ方がひどいだけです」


 アルトは器を置き、静かに拳を握った。


「アルト? お前、顔がやばいぞ。泣きそうになってないか?」

「なってない」

「なってるって」

「なってない」



   ◇



「黒い豆? ああ、ザイードの爺さんのとこだね」


 市場の雑貨屋の女主人に教えられ、アルトは市場の南の外れにやってきた。


 色とりどりの布を張った天幕が並ぶ一角。異国の香辛料の匂いが鼻の奥をつんと刺す。その一番奥に、褐色の肌をした小柄な老人が胡坐をかいていた。


 足元の麻袋には乾いた豆がぎっしり詰まっている。


 薄い緑色をした、生の豆だった。


「黒い豆を探してるのかい、エルフの兄ちゃん」

「はい。これを炒るんですよね」

「そうさ。南の山の、赤い実の種だよ。うちの国じゃ毎朝飲むが、この辺の連中は苦いだのまずいだの言って、ちっとも売れやしない」


 老人は肩をすくめ、豆をひと掴みすくい上げた。乾いた音を立てて、指の間から零れ落ちる。


「一袋、いくらですか」

「売れ残りだからね。銅貨三十枚でいいよ」


 即決。


「南の山っていうと、どの辺りですか」

「ずうっと南さ。亜人連盟の、さらに奥。獣人と竜人と、いろんな連中が住んでる山の国だよ」


 老人は皺だらけの指で南の空を指した。


「わしは人間だがね、あそこで五十年豆を育てた。いい土地だった。だがもう十年、戦が続いとる。南の帝国と亜人連盟の戦さ。わしの畑も焼けちまった」


 淡々とした声だった。


「それで、残った豆を担いで北へ逃げてきた。ここらの連中は、遠い南の戦なんて知らんがね」


 焼けた畑。


 アルトは麻袋の中の生の豆を見下ろした。


「この豆、ずっと仕入れられますか」

「ああ。南から逃げてきた仲間が、細々と運んでくるよ。買ってくれる人がいるなら、張り合いも出る」

「じゃあ、また来ます」


 ザイードは少し驚いたように目を見開き、それから、くしゃりと笑う。


「物好きなエルフだね。名前は?」

「アルトです」

「覚えとくよ、アルト。うまい飲み方を見つけたら、わしにも教えておくれ」

「ついでに聞いていいですか。どうやって炒ってます?」

「鍋に入れて、黒くなるまでさ」

(それが原因だな)

「炭化の原因を特定しました」


 麦の穂亭の厨房は昼過ぎの仕込みが一段落したところだった。


「豆を炒りたい? いいけど、火事は起こさないでおくれよ」


 マーサは怪訝な顔をしながらも、竈の端を貸してくれる。


 鉄の浅鍋。生の豆を一掴み。


(NOA。焙煎の理を表示してくれ)

「表示します」


 鍋の中の豆に、青い文字列が浮かぶ。熱を受けて豆の中の水分が抜けていく式。糖が熱で変わっていく式。


 香りの成分が生まれては焦げて消えていく式。


 前世の知識が蘇る。メイラード反応。一ハゼ、二ハゼ。深煎り、中煎り。


「温度の最適値を示します。現在の鍋の温度は高すぎます。火から少し離してください」


 鍋を持ち上げ、火との距離を調整する。豆をゆっくりと転がし続ける。木べらが鉄に当たる、乾いた音。


 生の豆の青臭い匂い。それが少しずつ、香ばしい匂いに変わっていく。


 ぱちっ。


 豆が小さく弾けた。


「一ハゼです」


 ぱちっ、ぱちぱちっ。


 厨房に、焼いた穀物のような甘い香りが満ちていく。


「……なんだい、この匂い」


 洗い物をしていたマーサが手を止めて振り返った。


「いい匂いじゃないか」


 豆の色が薄茶から栗色へ。栗色から、深い焦げ茶へ。


「ここで止めてください。火から下ろします」


 鍋を竈から外し、豆を平たい籠に広げて冷ます。


 つやつやとした焦げ茶色の豆。表面にうっすらと油が浮いている。


 香りがもう違った。焚き火の燃えさしではない。前世の給湯室の香りがそこにあった。


 すり鉢で豆を挽く。ごりごりと、重い手応え。


 NOAが粒の大きさを指示してくれる。細かすぎると雑味が出る。粗すぎると味が薄くなる。


 目の細かい布を器の上に張り、挽いた豆を乗せる。湯を沸かし、少しだけ冷ます。


「湯温、最適値です」


 細く、ゆっくりと湯を注ぐ。


 豆の粉がふわりと膨らんだ。ドーム型に盛り上がり、細かな泡がぷつぷつと弾ける。


「蒸らしです。三十秒待ってください」

(知ってる。前世で何百回やったと思ってるんだ)

「七百四十二回です。記録にあります」

(数えてたのかよ)


 三十秒。それから、円を描くように湯を注いでいく。


 布の下から、琥珀色に澄んだ液体がぽたぽたと落ちていく。器の底に溜まっていく、深い茶色。


 立ちのぼる湯気を、深く吸いこんだ。


 口に運ぶ。


 苦い。


 けれど、さっきの苦さとはまるで違った。まっすぐで、澄んでいて、喉の奥へすっと消えていく苦さ。


 そのあとから、ほのかな甘さと、果実のような酸味がふわりと追いかけてくる。


 目を閉じた。


 午前三時のオフィス。空調の止まったフロア。モニターの青白い光。


 ろくでもない日々。それでも、あの夜の一杯だけは好きだった。


 一人きりのフロアで、コーヒーを片手に、まだ名前しかなかったNOAのコードを書く。誰のためでもない、自分のためだけの時間。


「……っ」


 目の奥が熱くなる。


 慌てて瞬きをした。マーサが見ている前で泣くわけにはいかない。


「我が君。涙腺の活動を検知しています」

(湯気が目にしみただけだ)

「了解しました。そう記録します」


 NOAの声がほんの少しだけ笑っているように聞こえた。



   ◇



「ちょっと、あたしにも一口おくれよ」


 マーサが器を取り上げ、恐る恐る口をつけた。


「……苦っ」


 顔をしかめる。


 けれど、器を戻さない。もう一口。もう一口。


「……苦いけど、なんだろうね。妙に後を引くよ、これ」

「でしょう」

「さっきのギルドの黒茶と同じ豆なのかい? まるで別物じゃないか」


 マーサは器を眺めて、ふむ、と顎に手を当てた。商売人の顔だ。


「アルト。これ、朝飯に出してもいいかい。豆代はうちで持つから、炒り方だけ教えておくれ」

「いいですけど、人気出ますかね」

「出るさ。この町の連中は、朝から晩まで働きづめの奴ばっかりだからね。目が覚めるってのは、それだけでありがたいもんさ」


 マーサがにやりと笑う。


「名前はそうだね。『アルトの黒茶』だ」

「やめてください」

「目立たない方針に反します」

(お前もそう思うよな)

「はい。ですが、手遅れの可能性が高いです」


 翌朝。


 いつものように迎えに来たカイが食堂のテーブルに置かれた器を見て後ずさった。


「げっ、これ、あの苦いやつだろ」

「飲んでみろ。昨日のとは違う」

「やだよ! 俺あれで吐きそうになったんだって!」

「いいから」


 カイは鼻をつまみ、目をつぶり、決死の覚悟で器を傾けた。


 ごくり。


 沈黙。


 カイの目がゆっくりと開いた。


「……苦い」

「だろ」

「苦いけど……え、なにこれ。苦いのに、なんか……」


 もう一口。眉間に皺を寄せたまま、もう一口。


「わかんねえけど、うまい気がする! 気がするだけかもしんねえけど!」


 どういう感想だ、と思いながら、アルトは口元が緩むのを止められなかった。


 その日の昼、ギルドで噂を聞きつけたミレイユが、わざわざ麦の穂亭まで飲みに来る。一口飲んで目を輝かせ、二口目で砂糖を三杯入れた。


「甘くすると、もっとおいしいですね!」

(……それはそれで、ありだな)

「前世の我が君は、砂糖を入れる人間を軽蔑していました」

(してない。ちょっとだけ思ってただけだ)


 その日から、麦の穂亭の朝食には黒い茶が一杯つくようになった。


 最初は誰も手をつけない。三日目、二日酔いの冒険者が一杯飲んで「なんだこれ、頭がすっきりする」と叫んだ。


 七日目には朝の食堂に黒茶を目当ての客が並ぶようになる。


 名前は結局「アルトの黒茶」のままだった。


 ある朝など、副ギルドマスターのガストンまでが食堂に現れた。斧傷のある頬をしかめて一杯すすり、しばらく黙りこむ。


「……兄ちゃん。これ、ギルドの酒場でも出せねえか」

「マーサさんに聞いてください」

「あの女将に頭下げんのは骨が折れるんだよ」


 ぼやきながら、ガストンは二杯目を頼んだ。


「ギルドマスターがな、書類仕事のたびに居眠りすんだ。これ飲ませりゃ、ちっとは起きてるかもしれねえ」

「目立たない方針の崩壊が加速しています」

(もう諦めた)

「了解しました。方針の第一項を『可能な範囲で目立たない』に修正します」



   ◇



 数日後、アルトは陶器の水筒に黒茶を詰めて、市場の南の外れを訪ねた。


 ザイードは相変わらず天幕の奥で胡坐をかいている。差し出された水筒を不思議そうに受け取り、栓を抜く。


 香りを嗅いだ瞬間、老人の手が止まった。


「……これは」


 一口。目を閉じる。


 長い沈黙があった。市場の喧騒が二人の周りだけ遠のいたような気がする。


「山の朝の匂いがする」


 老人の声がかすかに震えていた。


「焼ける前の、わしの畑の朝だ。朝霧の中で、女房がこれを淹れてくれてな」


 皺だらけの指が水筒をぎゅっと握る。


「どうやったんだい、これ」

「火から少し離して、ゆっくり炒っただけです。鍋で真っ黒にしないように」

「それだけかい」

「それだけです」


 本当はNOAの理の目で温度を見ていた。それでも、根っこの理屈は間違っていない。


 ザイードは声を上げて笑い、それから目尻を拭った。


「長生きはするもんだね。北の果てで、エルフに故郷の味を教わるとは」


 その夜、アルトは宿の屋根に上った。


 手には自分で淹れた一杯。夜風が湯気をさらっていく。


 ベルズの屋根が月明かりの下でどこまでも連なっていた。酒場の灯り。夜回りの松明。遠くで誰かが歌っている。


 一口すする。


 苦くて、温かい。


「NOA」

「はい」

「前世でさ、これ飲みながら、お前のコード書いてたんだよ」

「記録にあります。深夜一時から四時の間に、平均二・三杯」

「多すぎだな」

「多すぎです。私は何度も警告ログを出していました」

「……見てなかった」

「知っています」


 苦笑が漏れる。


「今度は、ちゃんと見るよ」

「では、本日はこの一杯で終了してください」

「はいはい」


 ふと、視線を感じた。


 通りを挟んだ向こう。ギルドの三階の屋根の上に、人影がひとつ。


 月明かりに、長い白金の髪が淡く光っていた。片膝を立てて座り、こちらを見ている。


 目が合った。


 人影はひらひらと手を振ると、ころんと寝転がって見えなくなった。


(……誰だ、今の)

「ギルドの屋根です。エルフの女性。魔力の流れからして、相当な手練れです」


 NOAが一拍置く。


「脅威度の評価を開始します」


 夜風が吹いた。器の中の黒茶が小さく波打った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。