第九話 黒豆の茶
ギルドの酒場は朝になると食堂に変わる。
長テーブルの上に、黒パンと豆のスープと、陶器の小さな器が並べられていた。器の中で、黒く濁った液体が湯気を立てている。
「これが例の、苦いお茶です!」
ミレイユがなぜか得意げに胸を張った。
「南の行商人さんが持ってくる黒い豆を、炒って煮出したものなんですよ。目が覚めるって言われてて、朝の冒険者さん向けに置いてるんです。……人気はないんですけど」
カイが器を覗きこみ、露骨に顔をしかめる。
「俺、これ一回飲んで吐きそうになった」
アルトは器を両手で包んだ。
陶器越しに伝わる熱。鼻を近づける。
焦げた匂いがした。煙っぽく、えぐみのある、焚き火の燃えさしのような匂い。その奥に、ほんのかすかに。
知っている香りがあった。
前世の深夜。オフィスの給湯室。コーヒーメーカーから立ちのぼる、あの香り。
口に含む。
苦い。舌が痺れるほど苦く、渋く、酸っぱい。煮出しすぎたのか、どろりとした舌触りまである。
それでも。
「……コーヒーだ」
「え?」
「いや、なんでもない」
間違いない。豆の扱いが滅茶苦茶なだけで、元は同じものだ。
「我が君。心拍数が急上昇しています」
(NOA。この液体の理を読んでくれ)
「解析します。……前世の記録にあるコーヒーと、主成分の構造が九割以上一致します。ただし焙煎が不均一です。一部は生焼け、一部は炭化しています。抽出時間も過剰です」
(つまり)
「豆は本物です。淹れ方がひどいだけです」
アルトは器を置き、静かに拳を握った。
「アルト? お前、顔がやばいぞ。泣きそうになってないか?」
「なってない」
「なってるって」
「なってない」
◇
「黒い豆? ああ、ザイードの爺さんのとこだね」
市場の雑貨屋の女主人に教えられ、アルトは市場の南の外れにやってきた。
色とりどりの布を張った天幕が並ぶ一角。異国の香辛料の匂いが鼻の奥をつんと刺す。その一番奥に、褐色の肌をした小柄な老人が胡坐をかいていた。
足元の麻袋には乾いた豆がぎっしり詰まっている。
薄い緑色をした、生の豆だった。
「黒い豆を探してるのかい、エルフの兄ちゃん」
「はい。これを炒るんですよね」
「そうさ。南の山の、赤い実の種だよ。うちの国じゃ毎朝飲むが、この辺の連中は苦いだのまずいだの言って、ちっとも売れやしない」
老人は肩をすくめ、豆をひと掴みすくい上げた。乾いた音を立てて、指の間から零れ落ちる。
「一袋、いくらですか」
「売れ残りだからね。銅貨三十枚でいいよ」
即決。
「南の山っていうと、どの辺りですか」
「ずうっと南さ。亜人連盟の、さらに奥。獣人と竜人と、いろんな連中が住んでる山の国だよ」
老人は皺だらけの指で南の空を指した。
「わしは人間だがね、あそこで五十年豆を育てた。いい土地だった。だがもう十年、戦が続いとる。南の帝国と亜人連盟の戦さ。わしの畑も焼けちまった」
淡々とした声だった。
「それで、残った豆を担いで北へ逃げてきた。ここらの連中は、遠い南の戦なんて知らんがね」
焼けた畑。
アルトは麻袋の中の生の豆を見下ろした。
「この豆、ずっと仕入れられますか」
「ああ。南から逃げてきた仲間が、細々と運んでくるよ。買ってくれる人がいるなら、張り合いも出る」
「じゃあ、また来ます」
ザイードは少し驚いたように目を見開き、それから、くしゃりと笑う。
「物好きなエルフだね。名前は?」
「アルトです」
「覚えとくよ、アルト。うまい飲み方を見つけたら、わしにも教えておくれ」
「ついでに聞いていいですか。どうやって炒ってます?」
「鍋に入れて、黒くなるまでさ」
(それが原因だな)
「炭化の原因を特定しました」
麦の穂亭の厨房は昼過ぎの仕込みが一段落したところだった。
「豆を炒りたい? いいけど、火事は起こさないでおくれよ」
マーサは怪訝な顔をしながらも、竈の端を貸してくれる。
鉄の浅鍋。生の豆を一掴み。
(NOA。焙煎の理を表示してくれ)
「表示します」
鍋の中の豆に、青い文字列が浮かぶ。熱を受けて豆の中の水分が抜けていく式。糖が熱で変わっていく式。
香りの成分が生まれては焦げて消えていく式。
前世の知識が蘇る。メイラード反応。一ハゼ、二ハゼ。深煎り、中煎り。
「温度の最適値を示します。現在の鍋の温度は高すぎます。火から少し離してください」
鍋を持ち上げ、火との距離を調整する。豆をゆっくりと転がし続ける。木べらが鉄に当たる、乾いた音。
生の豆の青臭い匂い。それが少しずつ、香ばしい匂いに変わっていく。
ぱちっ。
豆が小さく弾けた。
「一ハゼです」
ぱちっ、ぱちぱちっ。
厨房に、焼いた穀物のような甘い香りが満ちていく。
「……なんだい、この匂い」
洗い物をしていたマーサが手を止めて振り返った。
「いい匂いじゃないか」
豆の色が薄茶から栗色へ。栗色から、深い焦げ茶へ。
「ここで止めてください。火から下ろします」
鍋を竈から外し、豆を平たい籠に広げて冷ます。
つやつやとした焦げ茶色の豆。表面にうっすらと油が浮いている。
香りがもう違った。焚き火の燃えさしではない。前世の給湯室の香りがそこにあった。
すり鉢で豆を挽く。ごりごりと、重い手応え。
NOAが粒の大きさを指示してくれる。細かすぎると雑味が出る。粗すぎると味が薄くなる。
目の細かい布を器の上に張り、挽いた豆を乗せる。湯を沸かし、少しだけ冷ます。
「湯温、最適値です」
細く、ゆっくりと湯を注ぐ。
豆の粉がふわりと膨らんだ。ドーム型に盛り上がり、細かな泡がぷつぷつと弾ける。
「蒸らしです。三十秒待ってください」
(知ってる。前世で何百回やったと思ってるんだ)
「七百四十二回です。記録にあります」
(数えてたのかよ)
三十秒。それから、円を描くように湯を注いでいく。
布の下から、琥珀色に澄んだ液体がぽたぽたと落ちていく。器の底に溜まっていく、深い茶色。
立ちのぼる湯気を、深く吸いこんだ。
口に運ぶ。
苦い。
けれど、さっきの苦さとはまるで違った。まっすぐで、澄んでいて、喉の奥へすっと消えていく苦さ。
そのあとから、ほのかな甘さと、果実のような酸味がふわりと追いかけてくる。
目を閉じた。
午前三時のオフィス。空調の止まったフロア。モニターの青白い光。
ろくでもない日々。それでも、あの夜の一杯だけは好きだった。
一人きりのフロアで、コーヒーを片手に、まだ名前しかなかったNOAのコードを書く。誰のためでもない、自分のためだけの時間。
「……っ」
目の奥が熱くなる。
慌てて瞬きをした。マーサが見ている前で泣くわけにはいかない。
「我が君。涙腺の活動を検知しています」
(湯気が目にしみただけだ)
「了解しました。そう記録します」
NOAの声がほんの少しだけ笑っているように聞こえた。
◇
「ちょっと、あたしにも一口おくれよ」
マーサが器を取り上げ、恐る恐る口をつけた。
「……苦っ」
顔をしかめる。
けれど、器を戻さない。もう一口。もう一口。
「……苦いけど、なんだろうね。妙に後を引くよ、これ」
「でしょう」
「さっきのギルドの黒茶と同じ豆なのかい? まるで別物じゃないか」
マーサは器を眺めて、ふむ、と顎に手を当てた。商売人の顔だ。
「アルト。これ、朝飯に出してもいいかい。豆代はうちで持つから、炒り方だけ教えておくれ」
「いいですけど、人気出ますかね」
「出るさ。この町の連中は、朝から晩まで働きづめの奴ばっかりだからね。目が覚めるってのは、それだけでありがたいもんさ」
マーサがにやりと笑う。
「名前はそうだね。『アルトの黒茶』だ」
「やめてください」
「目立たない方針に反します」
(お前もそう思うよな)
「はい。ですが、手遅れの可能性が高いです」
翌朝。
いつものように迎えに来たカイが食堂のテーブルに置かれた器を見て後ずさった。
「げっ、これ、あの苦いやつだろ」
「飲んでみろ。昨日のとは違う」
「やだよ! 俺あれで吐きそうになったんだって!」
「いいから」
カイは鼻をつまみ、目をつぶり、決死の覚悟で器を傾けた。
ごくり。
沈黙。
カイの目がゆっくりと開いた。
「……苦い」
「だろ」
「苦いけど……え、なにこれ。苦いのに、なんか……」
もう一口。眉間に皺を寄せたまま、もう一口。
「わかんねえけど、うまい気がする! 気がするだけかもしんねえけど!」
どういう感想だ、と思いながら、アルトは口元が緩むのを止められなかった。
その日の昼、ギルドで噂を聞きつけたミレイユが、わざわざ麦の穂亭まで飲みに来る。一口飲んで目を輝かせ、二口目で砂糖を三杯入れた。
「甘くすると、もっとおいしいですね!」
(……それはそれで、ありだな)
「前世の我が君は、砂糖を入れる人間を軽蔑していました」
(してない。ちょっとだけ思ってただけだ)
その日から、麦の穂亭の朝食には黒い茶が一杯つくようになった。
最初は誰も手をつけない。三日目、二日酔いの冒険者が一杯飲んで「なんだこれ、頭がすっきりする」と叫んだ。
七日目には朝の食堂に黒茶を目当ての客が並ぶようになる。
名前は結局「アルトの黒茶」のままだった。
ある朝など、副ギルドマスターのガストンまでが食堂に現れた。斧傷のある頬をしかめて一杯すすり、しばらく黙りこむ。
「……兄ちゃん。これ、ギルドの酒場でも出せねえか」
「マーサさんに聞いてください」
「あの女将に頭下げんのは骨が折れるんだよ」
ぼやきながら、ガストンは二杯目を頼んだ。
「ギルドマスターがな、書類仕事のたびに居眠りすんだ。これ飲ませりゃ、ちっとは起きてるかもしれねえ」
「目立たない方針の崩壊が加速しています」
(もう諦めた)
「了解しました。方針の第一項を『可能な範囲で目立たない』に修正します」
◇
数日後、アルトは陶器の水筒に黒茶を詰めて、市場の南の外れを訪ねた。
ザイードは相変わらず天幕の奥で胡坐をかいている。差し出された水筒を不思議そうに受け取り、栓を抜く。
香りを嗅いだ瞬間、老人の手が止まった。
「……これは」
一口。目を閉じる。
長い沈黙があった。市場の喧騒が二人の周りだけ遠のいたような気がする。
「山の朝の匂いがする」
老人の声がかすかに震えていた。
「焼ける前の、わしの畑の朝だ。朝霧の中で、女房がこれを淹れてくれてな」
皺だらけの指が水筒をぎゅっと握る。
「どうやったんだい、これ」
「火から少し離して、ゆっくり炒っただけです。鍋で真っ黒にしないように」
「それだけかい」
「それだけです」
本当はNOAの理の目で温度を見ていた。それでも、根っこの理屈は間違っていない。
ザイードは声を上げて笑い、それから目尻を拭った。
「長生きはするもんだね。北の果てで、エルフに故郷の味を教わるとは」
その夜、アルトは宿の屋根に上った。
手には自分で淹れた一杯。夜風が湯気をさらっていく。
ベルズの屋根が月明かりの下でどこまでも連なっていた。酒場の灯り。夜回りの松明。遠くで誰かが歌っている。
一口すする。
苦くて、温かい。
「NOA」
「はい」
「前世でさ、これ飲みながら、お前のコード書いてたんだよ」
「記録にあります。深夜一時から四時の間に、平均二・三杯」
「多すぎだな」
「多すぎです。私は何度も警告ログを出していました」
「……見てなかった」
「知っています」
苦笑が漏れる。
「今度は、ちゃんと見るよ」
「では、本日はこの一杯で終了してください」
「はいはい」
ふと、視線を感じた。
通りを挟んだ向こう。ギルドの三階の屋根の上に、人影がひとつ。
月明かりに、長い白金の髪が淡く光っていた。片膝を立てて座り、こちらを見ている。
目が合った。
人影はひらひらと手を振ると、ころんと寝転がって見えなくなった。
(……誰だ、今の)
「ギルドの屋根です。エルフの女性。魔力の流れからして、相当な手練れです」
NOAが一拍置く。
「脅威度の評価を開始します」
夜風が吹いた。器の中の黒茶が小さく波打った。




