第十話 星を売る商人
ベルズに来て、二週間が過ぎた。
朝は麦の穂亭で黒茶を淹れ、カイと二人でギルドへ行く。薬草採取に角兎の駆除、荷運びと町の溝さらい。
新人らしい依頼を、新人らしい速度でこなしていく。
溝さらいの日はひどかった。
ベルズの下町を流れる排水の溝に、冬の前の落ち葉と泥が詰まっている。それを木の桶ですくい上げ、荷車に積んで町の外へ運ぶ。報酬は二人で銅貨百二十枚。
「くっせえええ!」
カイが鼻をつまんで叫ぶ。泥の底から、腐った野菜と何かの骨が出てきた。
「我が君。この泥の理を書き換えれば、臭気成分を分解できます」
(目立たないか)
「臭いが消えるのは、自然現象ではありません」
(じゃあ駄目だな)
「はい。我慢してください」
鼻で息をしないように口を開けて、黙々と泥をすくう。
隣でカイが盛大にくしゃみをした。泥が跳ねて、アルトの頬にべったりとつく。
「……カイ」
「わ、悪い! わざとじゃねえ!」
慌てて自分の袖で拭おうとするカイの袖も、泥まみれだった。結果、アルトの顔の泥は二倍に広がる。
「……」
「……」
しばらく見つめ合ったあと、カイが吹き出した。
「ぶっ、あはははは! ひでえ顔!」
「お前のせいだろ!」
言い返しながら、アルトもつられて笑っている。笑うと泥が口に入りそうで、それがまたおかしかった。
「我が君の笑顔を確認。本日三回目です」
(数えるな)
「記録しています」
その日の夕方、麦の穂亭の前で泥だらけの二人を見たマーサは、何も言わずに裏の井戸を指さす。冷たい水を頭からかぶりながら、カイはまだ笑っていた。
「本日の報酬、銅貨六十枚。所持金は銀貨二十一枚と銅貨三十五枚。宿代の残り日数は二十一日です」
(増えてるな)
「はい。方針どおりです。目立たない範囲で、自然に」
カイの剣は相変わらず下手で、アルトの弓は相変わらず当たらない。それでも、二人で組むと依頼はなんとか片づいた。
その陰でNOAの「突風」が吹いていることに、カイは一度も気づかない。
「アルト、今日も風強かったな!」
「ああ。この辺は風が多いんだな」
「だよな!」
こんな会話を、もう五回は繰り返している。
その日、依頼を終えてギルドに戻ると、カウンターのミレイユがいつになく真剣な顔で帳簿を見つめていた。
「お疲れさまです。報告、受け付けますね」
声にいつもの弾みがない。
「何かあったんですか」
「え? あ、いえ、大したことじゃないんですけど」
ミレイユは周りをちらりと見回し、声を潜めた。
「最近、変なお客さんが来るんですよ。南のほうの商人さんなんですけど、東の荒野の情報を買いたいって」
「東の情報?」
「はい。荒野の向こう、山を越えた森のほうに、人が住んでる場所はあるかとか。最近そっちから来た人はいないかとか。お金はたくさん出すって言うんです」
報酬の銅貨を数える指が止まった。
「ギルドは冒険者さんの個人情報は売らないので、お断りしてるんですけどね。酒場で他の冒険者さんに聞いて回ってるみたいで」
ミレイユが首を傾げる。
「荒野の向こうなんて、なんにもないのに。変ですよね」
「……そうですね」
声が平坦すぎた気がする。
「我が君。心拍数が上昇しています。表情筋も硬直しています」
(分かってる)
「その商人さん、どこの人か分かりますか」
「えっと、南のほうって言ってました。たしか、ウル……なんとか」
ミレイユは帳簿の端に書きつけたメモを指でなぞった。
「ウル・アズリアです。神聖星国の」
◇
ギルドを出ても、足は宿に向かわなかった。
「アルト? どこ行くんだよ。飯は?」
「先に帰っててくれ。ちょっと寄るところがある」
「お、おう……?」
カイの声を背中で聞き流し、大通りを南へ歩く。
「我が君。目的を確認させてください」
(その商人を見る。見るだけだ)
「接触は推奨しません。相手は我が君を探している可能性があります」
(探しているのは、東の生き残りだろ。くすんだ金髪の、魔力三百十の新人エルフじゃない)
「偽装は完璧ではありません」
(分かってる。だから、見るだけだ)
NOAは一拍黙り、それから視界に青い地図を浮かべた。
「南門近くの宿『銀の秤亭』。商人の滞在先としてこの町で最も一般的な宿です。酒場で聞き込みをしているなら、ここの一階である確率が高い」
(……止めないんだな)
「止めても、我が君は行きます。ならば最も安全な形で行っていただくほうが合理的です」
銀の秤亭は麦の穂亭より二回りは大きく、身なりのいい客が多かった。
入口近くの席に腰を下ろし、ぬるい麦酒を一杯だけ頼む。
店の奥。暖炉のそばの席に、その男はいた。
四十代ほど。上等な紺の外套に、きちんと整えた口髭。人の良さそうな丸い顔で、向かいに座った冒険者らしい男に麦酒を勧めている。
「いやあ、本当に何もないんですよ。荒野を十日も進めば砂海で、その先は誰も行ったことがない」
「そうですか、そうですか。いや、ありがとうございます。これは、ほんのお礼で」
商人が銀貨を一枚、冒険者の手に握らせた。冒険者は上機嫌で席を立つ。
ありふれた光景だ。
けれど。
「我が君。あの男の胸元を」
外套の襟の隙間から、細い銀の鎖が覗いている。鎖の先は服の中に隠れて見えない。
「視界を切り替えます」
世界が理の層に変わる。
商人の胸元。服の下に隠された小さな首飾りの輪郭が、青白い文字列で浮かび上がった。
八つの頂点を持つ星の形。
八芒星。
喉の奥がひゅっと鳴った。
焼け落ちる梁。白銀の鎧。兜の奥の碧い目。
――遺物はどこだ、老いぼれ。
テーブルの下で、握った拳が震えていた。爪が手のひらに食いこむ。
「我が君。呼吸が乱れています。覇気の抑制が不安定です」
NOAの声が遠い。
あの男はあの日の兵ではない。顔も違う。ただの商人かもしれない。
八芒星はあの国の者なら誰でも身につけているのかもしれない。
分かっている。頭では分かっている。
それなのに、体の奥の深い場所から、熱いものがせり上がってくる。ハイエルフの膨大な魔力が腹の底でうねりはじめていた。
「我が君。このままでは偽装が崩れます」
(……少し、待て)
息を吸う。吐く。
障害対応の手順。落ち着け。状況を整理しろ。
あの男はアルトを探している。東から来た誰かを。だが目の前に座っているエルフがそうだとは、まだ気づいていない。
今ここで何かをすれば、自分から名乗り出るのと同じだ。
拳を、ゆっくりと開いた。
カウンターのほうから、酔った男の大声が聞こえてきた。さっき商人から銀貨を受け取った冒険者だ。
「そういやよお、旦那! 東から来た奴っていやあ、最近ギルドに砂竜の鱗を持ちこんだエルフの新人がいたぜ! 砂海で拾ったとか言ってたが、ありゃ大したもんだ!」
背筋が凍った。
「我が君。動かないでください。表情を固定します」
商人の丸い顔がゆっくりと冒険者のほうを向く。
「ほう。砂竜の鱗を。それは珍しい」
「だろ? ミレイユちゃんが大騒ぎしてたぜ。魔力は三百ぽっちだって話だけどな!」
「三百。そうですか」
商人はにこやかに頷き、それ以上は何も聞かなかった。
けれどその目がほんの一瞬だけ店の中をぐるりと見回したのを、アルトは見逃さない。
そのとき、商人がこちらを見た。
人の良さそうな丸い顔がにこりと笑う。
「おや。エルフのお客さんとは珍しい」
立ち上がり、麦酒の杯を手にこちらへ歩いてくる。
「失礼。私は南方の交易商、ベネディクトと申します。少しお話を聞かせていただけませんか。もちろん、お礼はいたしますよ」
「接触を回避してください。宿を出る経路を表示します」
視界に青い線が浮かぶ。出口まで、十二歩。
だがアルトは座ったまま顔を上げた。
「……俺、新人なんで。大した話はできませんよ」
声は震えていなかった。自分でも意外なほど。
「いえいえ、構いません。どちらのご出身で?」
「北の、小さな村です」
「北? エルフの方が北とは珍しいですね。では、東のほうへ行かれたことは?」
「ないです。荒野って、何もないんでしょう」
「ええ、ええ。そう聞いています」
ベネディクトは目を細めた。笑っている。だがその目の奥が少しも笑っていないことに、アルトは気づいた。
値踏みする目だ。前世で、取引先の役員が同じ目をしていた。
「私どもの国にはね、星読みという方々がいるのですよ。星の動きを読んで、世界で起きることを知る。その方々が、少し前に東の空で、とても珍しいものをご覧になったそうで」
「へえ」
「私はその珍しいものを探している、というわけです。見つけた方には、たいそうなお礼が出るのですよ。それこそ、一生遊んで暮らせるほどの」
ベネディクトは身を乗り出した。麦酒と香油の匂いがする。
「もし何か耳にされたら、ぜひ私に。銀の秤亭におりますので」
テーブルの上に、銀貨が一枚置かれた。
「話を聞いてくださったお礼です」
アルトは銀貨を見下ろした。
八芒星の国の銀貨。
「……どうも」
受け取らなかった。ベネディクトは気にした様子もなく、にこにこと笑ったまま自分の席へ戻っていく。
◇
宿を出ると、空はもう暗くなっていた。
路地に入り、壁に背中を預ける。膝から力が抜けて、ずるずるとしゃがみこんだ。
「よく、耐えました」
(……耐えたのか、あれ)
「覇気の漏出は、最大で三パーセント。あの男は魔力を感知する訓練を受けていません。気づかれていないと判断します」
(そうか)
両手を見る。まだ、かすかに震えていた。
「我が君」
NOAの声が少しだけ低くなった。
「あの男の顔と名前を、記録しました。宿泊先も。滞在予定の日数も、宿の帳簿から推定できます」
路地の奥の暗がりで、NOAの声だけが静かに響く。
「ご命令があれば、最適な手段を演算します」
それが何を意味するのか、聞かなくても分かった。
あの男を消す方法。誰にも気づかれずに。NOAなら、きっとできる。
アルトは目を閉じた。
八十一の墓標。焼け落ちる梁。ティオの途切れた泣き声。
あの男はあの日あそこにいたわけではない。けれど、あの国の人間だ。あの国は自分を探している。
(……何もしない)
絞り出すように告げる。
(今は、何もしない)
「了解しました」
NOAは何も言い返さない。ただ、こう付け加えた。
「記録は、消しません」
路地の石畳に、月の光が細く差しこんでいる。
アルトはその光を見つめながら、オルドレンの言葉を思い出していた。
――お前は考える子だ。考えて、生き延びろ。
生き延びろ。長はそう言った。仇を討て、とは言わなかった。
あの人は何を望んでいたのだろう。自分が八芒星の国の人間を一人残らず消して回ることだろうか。それとも。
(NOA。俺、分からないんだ)
「何がでしょうか」
(あいつらが憎いのは確かだ。でも、さっきの商人を消したところで、里の誰も帰ってこない。それどころか、俺がここにいることがバレる。カイやマーサさんに迷惑がかかる)
「はい。合理的な判断です」
(合理的なだけで、いいのかな)
NOAはしばらく黙っていた。
「私には、判断できません。ですが」
声がほんのわずかに柔らかくなる。
「本日、我が君は四回笑いました。溝さらいで三回、帰り道で一回。里を出てから最多です」
(……それが、何だよ)
「判断材料の一つとして、提示しただけです」
アルトは小さく息を吐いた。泥だらけで笑い転げたカイの顔が浮かぶ。それから、ちゃんと食べな、と肩を叩いたマーサの手。
(ずるいな、お前)
「学習中です」
路地の入口から、靴音が近づいてきた。
軽い足取り。けれど石畳を叩く音がほとんどしない。訓練された歩き方だ。
「接近者一名。エルフです。脅威度の評価を継続中」
顔を上げる。
月明かりの中に、長い白金の髪が揺れていた。緩く編んで肩に流し、ギルドの制服を着崩した女性。灰青の瞳がしゃがみこんだアルトを面白そうに見下ろしている。
屋根の上にいた、あの人影だ。
「こんばんは、坊や」
柔らかい声だった。けれどその瞳だけが少しも揺れずにアルトを射抜いていた。
「ずいぶん怖い顔してるわね」




