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第十一話 月影の問い

 路地の入口に立つ女性は月明かりを背にしていた。


 白金の髪を緩く編んで肩に流し、ギルドの制服の上着を羽織っただけの軽装で、腰には細身の剣を一本だけ下げている。武器らしい武器はそれくらいなのに、立っているだけで路地の空気が一段冷えたように感じられた。


 アルトは壁に背を預けたまま、ゆっくりと立ち上がった。


「……どちら様ですか」

「あら、知らないの? 冒険者ギルドに登録しておいて、ギルドマスターの顔も知らないなんて」


 女性はくすりと笑い、軽い足取りで路地の中へ入ってくる。靴音はほとんどしなかった。


「リオラよ。ベルズ支部のギルドマスター。よろしくね、新人さん」

(ギルドマスター……月影のリオラ)

「麦の穂亭で副ギルドマスターが話していた人物です。二百年以上前から現役。神聖星国の聖騎士団と交戦経験あり」


 NOAの報告を聞きながら、アルトは頭を下げた。


「アルトです。この間登録したばかりの」

「知ってるわ。砂竜の鱗を拾ってきた子でしょ。それと、麦の穂亭の黒いお茶。ガストンが毎朝あれ飲んでから出勤するようになって、おかげで私の昼寝の時間に起こしに来るのが早くなったのよ」

「それは……すみません」

「謝らなくていいわ。別に怒ってないもの」


 リオラはアルトの目の前で立ち止まり、少しだけ首を傾げた。灰青の瞳が真正面からこちらを覗きこんでくる。


 近い。


 その距離で見ると、思っていたよりずっと若く見えた。人間でいえば二十代の後半くらいだろうか。けれど目の奥には川底の石のように磨かれた静けさがある。


 三百年という時間を、アルトは初めて実感した気がした。


「それで、坊や」


 ふいに、声の温度が変わった。


「どこの里の出?」


 心臓が跳ねる。


「我が君、心拍数が上昇しています。表情を固定してください」

(分かってる)

「北の、小さな村です。エルフが何家族かで暮らしてるだけの」

「北ねえ」


 リオラは顎に指を当て、楽しそうに目を細めた。


「北の森のエルフはね、みんな訛りがきついのよ。語尾が少し上がるの。あなたにはそれがないわね」

「……村を出てからずいぶん経つので」

「そう。それから、北のエルフは髪を短く切る習慣があるわ。冬が長いから、濡れた髪が凍らないように。あなたは長いわね」

「うちの村は、切らない派だったので」

「切らない派」


 リオラが小さく噴き出した。


「ごめんなさい。切らない派、ね。そう、そういう村もあるのかもしれないわね」

「我が君。嘘の精度が著しく低下しています」

(うるさい、今考えてる)

「提案します。これ以上の回答は避け、話題を変えてください」

(どうやって)


 黙りこんだアルトを見て、リオラは笑みを深くした。けれどそれ以上は追及してこない。代わりに、路地の外の大通りへ視線を向けた。


 南の方角、銀の秤亭がある方へ。


「さっき、銀の秤亭にいたでしょう」


 息が止まった。


「見てたんですか」

「たまたま通りかかったのよ。あの宿のお菓子がおいしくてね」


 どこまで本当なのか分からない。たぶん、ほとんど嘘なのだろう。


「あの商人のこと、気になる?」

「……東の情報を買い集めてるって、ミレイユさんから聞いたので。どんな人なのかなと思って」

「そう。それで、どう思った?」

「普通の商人に見えました」

「ふうん」


 リオラは壁にもたれかかり、腕を組んだ。


「私はね、昔あの国と戦ったことがあるの。二百年前の話だけど。あの国の人間は、笑いながら人を値踏みするのよ。どれくらい役に立つか、どれくらい邪魔か、どれくらいで殺せるか。商人も騎士も神官も、みんな同じ目をしてた」


 淡々とした口調だった。昔話をするように、軽く。それなのに、その声の底にあるものがひやりと肌に触れた。


「あの商人の目も同じだったわ。だから坊や」


 灰青の瞳がもう一度アルトをまっすぐに見た。


「あの手の連中には、近づかないこと。あなたが何者でもね」


 最後のひと言だけ、ほんの少し声が低くなった。


(……何者でも、って)

「この個体は、我が君が何かを隠していることを確信しています。ただし、何を隠しているかまでは把握していないと推定します」

(それ、一番まずい状態じゃないか)

「はい。最も厄介な状態です」



   ◇



「さて、と」


 リオラが壁から背中を離し、伸びをした。猫のようにしなやかな動きだった。


「夜回りの途中なの。ガストンに見つかったら、また屋根から引きずり下ろされちゃう。あの人、私が仕事をさぼってると思ってるのよ。半分は合ってるけど」

「半分は、さぼってるんですね」

「もう半分は、この町を見て回ってるの。屋根の上からだとよく見えるのよ。誰がどこで何をしてるか」


 さらりと言って、リオラは路地の出口へ歩き出した。数歩進んだところで振り返る。


「そうそう。あなたの黒いお茶、今度ギルドの屋根まで一杯持ってきてくれない? ガストンが自慢ばっかりするから、私も飲んでみたいのよ」

「……砂糖、入れますか」

「入れないわ。苦いのは好きなの」

「あの、一つ聞いてもいいですか」


 気づいた時には口が勝手に動いていた。


「なあに?」

「ギルドマスターは、なんでこの町にいるんですか。月影のリオラって、副ギルドマスターの話だと、王都でも名前の知れた人なんですよね」


 リオラは少しだけ目を丸くした。それから、ふっと笑う。


「質問に質問で返すのはずるいけど、まあいいわ。理由は簡単よ。この町が一番、屋根の上からの眺めがいいから」

「……それだけですか」

「それだけよ。王都はね、屋根が高すぎて空が狭いの。エルフィリアは木が高すぎて、そもそも屋根がない。ここは東に荒野があって、西に麦畑があって、空がどこまでも広いでしょう」


 リオラは路地の上の細い夜空を見上げた。星がいくつか、建物の隙間から覗いている。


「三百年も生きてるとね、自分がどこにいたいのか、だんだん分からなくなるのよ。だから、空が広いところにいることにしたの」


 冗談めかした口調だった。けれど、その横顔は少しも笑っていない。


 エルフィリア、とリオラは言った。エルフの国の名前。地図で見た、西の森の国。


(この人は、エルフの国から来たのか)

「推定が補強されました。この個体はエルフィリア出身の可能性が高いです。ただし、故郷に対して何らかの屈折した感情を持っていると推定します」

(屈折って)

「故郷の名前を口にした瞬間、魔力の流れがわずかに乱れました」


 リオラはすぐにいつもの顔に戻り、軽く肩をすくめた。


「さて、質問には答えたわよ。次は坊やの番ね。どこの里の出か、いつか本当のことを教えてくれる?」

「……いつか、なら」

「いつか、ね。エルフのいつかは長いわよ」

「知ってます」

「そう。じゃあ、気長に待つわ」


 ひらひらと手を振って、リオラは大通りの人混みに紛れていった。靴音はやはり、最後まで聞こえない。


 路地に一人残され、アルトは長く息を吐いた。


 膝の力が抜けそうになるのを、壁に手をついてこらえる。商人の前にいた時よりも、よほど消耗していた。


「我が君。お疲れさまでした」

(……あの人、何なんだ)

「解析結果を報告します。リオラ。エルフ。年齢は外見から推定できません。魔力量は約一万二千。ギルドに登録した我が君の数値の、約四十倍です。本来の我が君と比べれば、四分の一ほどになります」

(つまり、本当の俺よりは少ない)

「はい。ですが、戦闘技術と経験の差を考慮すると、正面から戦った場合の勝率は算出できません」

(戦う気はない)

「承知しています。それから、もう一点」


 NOAの声がほんのわずかに硬くなった。


「この個体の脅威度の評価が完了しました」

(どうだった)

「脅威度、最高です」

(最高……? 敵じゃないだろ、たぶん)

「敵対の可能性は低いと判断しています。評価の根拠は別にあります」

(なんだよ)


 NOAは一拍置いた。


「この個体と会話している間、我が君の心拍数は、神聖星国の商人と対峙していた時を上回っていました」


 顔が熱くなった。


(それは、正体がバレそうで焦ってたからだろ)

「その要因も含まれます。しかし心拍の変動パターンが、焦燥の場合と一致しません」

(何と一致するんだよ)

「判定不能です。前世の我が君の記録に、該当するデータが存在しません」

(……前世の俺、どれだけ寂しい人生だったんだ)

「記録を参照しますか」

(しなくていい)



   ◇



 大通りに出ると、夜の市が開いていた。


 昼間の露店とは違い、屋台の軒先に吊るされたランプが、通りを橙色の光の川に変えている。焼いた栗の甘い匂い。


 香辛料を利かせた肉の串。蜂蜜を塗った揚げ菓子。酔った冒険者たちの歌声と、客を呼びこむ屋台の主人たちの声が混ざり合っていた。


 その喧騒の中を歩いていると、さっきまでの張り詰めた気持ちが少しずつほどけていく。


「我が君。心拍数が平常値に戻りつつあります」

(なあ、NOA。あの人のこと、どう思う)

「脅威度、最高です」

(それはもう聞いた。そうじゃなくて)

「……評価を保留します。現時点では、敵か味方かを判断する材料が不足しています」


 NOAにしては歯切れの悪い答えだった。


(俺は、悪い人じゃないと思う)

「根拠をお聞かせください」

(ない。勘だ)

「エルフの勘、ですか」

(そう。便利だろ、エルフ)

「その言い訳は、本日三回目です」


 焼き栗の屋台の前で足を止め、小さな紙袋をひとつ買った。銅貨四枚。カイへの土産のつもりだった。


 麦の穂亭に戻ると、食堂の片隅でカイがテーブルに突っ伏して寝ていた。


 目の前には冷めきったシチューの皿が二つ並んでいる。一つは手つかずのまま、木の匙が添えてあった。


「その坊主、あんたが帰るまで待つって聞かなくてね」


 厨房から出てきたマーサが呆れたように腰に手を当てた。


「いくら言っても帰らないんだよ。妹さんが家で待ってるだろうにさ」


 アルトはカイの向かいに座った。冷めたシチューを一口すする。それでもうまかった。


 カイが寝ぼけた顔を上げる。


「……あ、アルト。おかえり。遅かったな」

「ちょっとな。待ってなくてよかったのに」

「だってお前、飯食わずにどっか行っちまうからさ。マーサさんが、あの子はほっとくと食べないよって言うし」

「余計なこと言わないでください」

「言われたくなきゃ、ちゃんと食べな」


 マーサの声が厨房の奥から飛んでくる。カイがにやにやと笑った。


 アルトは黙って懐から紙袋を出し、カイの前に置いた。


「なんだこれ」

「焼き栗。夜市で買った。待たせた詫びだ」


 カイの目がまんまるに見開かれた。


「お前が、俺に? 土産?」

「いらないなら返せ」

「いるいるいる!」


 紙袋を抱えこみ、カイは栗をひとつ口に放りこんだ。熱っ、と叫んで涙目になりながら、それでも嬉しそうに噛みしめている。


「半分、ミナに持って帰っていいか?」

「全部持って帰れ」

「マジかよ! アルト、お前いい奴だな!」

「我が君。銅貨四枚で、この個体の好感度が大幅に上昇しました。費用対効果が極めて高いです」

(そういう計算で買ったわけじゃない)

「承知しています。記録しておきます」


 アルトは黙ってシチューを食べ続けた。冷たいのに、喉を通るたびに胸の奥が温かくなっていく。


「なあ、アルト。明日なんだけどさ」


 カイが身を乗り出した。眠気が一気に吹き飛んだ顔をしている。


「ゴブリンの偵察依頼が出てたんだ。町の西の丘で目撃情報があって、巣があるかどうか確かめてくるだけ。戦わなくていいし、報酬は銀貨一枚! Fランクで受けられる依頼の中じゃ破格だぜ」

「偵察だけなら」

「決まりな!」

「我が君。今回は先に了承しています。成功率の記録を更新します」

(更新しなくていい)


 窓の外ではギルドの屋根の上に、ぼんやりと人影が見えた気がした。


 月はもう、ずいぶん高く昇っていた。

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