第十二話 西の丘
依頼を受けに行った朝のギルドはいつもよりざわついていた。
カウンターの前に、腰の曲がった老人が一人、杖にすがって立っている。日に焼けた顔に深い皺が刻まれ、羊の毛がついた粗末な外套を着ていた。
ミレイユが困ったような顔で、何度も頭を下げている。
「ですから、捜索の依頼となると、Dランク以上のパーティを集めないといけなくて。今日すぐには……」
「そこをなんとか。孫が、昨日の昼から帰ってこんのです。羊を探しに西の丘へ行ったきりで」
老人の声は震えていた。
カイがアルトの袖を引いた。
「西の丘って、俺たちが受けようとしてる偵察依頼の場所じゃねえか」
ミレイユがこちらに気づいて、ほっとしたような顔をした。
「あ、カイくん、アルトさん。ちょうどよかった。その偵察依頼、もし丘で子供を見かけたら、すぐにギルドに知らせてもらえませんか。捜索隊は午後には組めるはずなので」
「おう、任せとけ!」
カイが胸を叩く。老人が二人の手を交互に握った。乾いて、ひび割れた手だった。
「どうか、頼みます。亜麻色の髪を二つに編んだ、十歳の女の子です。リリといいます」
「我が君。偵察の依頼に、捜索の要素が加わりました。危険度の評価を上方修正します」
(偵察だけだ。見つけたら知らせる。それだけだ)
「了解しました。……我が君がそれだけで済ませる確率を、現在演算中です」
(演算しなくていい)
西門を出て一刻ほど歩くと、なだらかな丘が連なる草原に出た。
秋の終わりの風が枯れかけた草の穂を一斉に揺らしていく。遠くに羊飼いの小屋がぽつりと見えるほかは、人の気配がない。
空は薄く曇っていて、陽の光が灰色の雲の向こうでぼんやりと滲んでいた。
「目撃情報があったのは、あの二つ並んだ丘の向こう側だってさ」
カイが依頼書の写しを広げ、指でなぞる。
「羊飼いの爺さんが、夕方に小さい影がうろうろしてるのを見たんだって。羊が二頭いなくなってるらしい」
「ゴブリンなら、羊くらいは持っていくだろうな」
「我が君。ゴブリンについての情報を整理します」
視界の端に、青い文字の一覧が浮かんだ。ギルドの資料室で、NOAに頼まれて三冊ほど図鑑をめくっておいたのだ。
「身長は人間の子供ほど。単体の戦闘力は低いものの、群れで行動し、知能はそれなりに高い。十体以上の群れでは、魔法を使う上位個体が生まれることがあります。通称、ゴブリンシャーマン」
(偵察だけだ。巣があるかどうか確かめたら、すぐ戻る)
「同意します。カイ・ロウエルの行動予測が最大の懸念事項です」
(それは俺も同意する)
「なあアルト、何ぶつぶつ言ってんだ?」
「なんでもない。行くぞ」
草原の中の細い道を、二人並んで歩いた。
カイはいつものように喋り続けていたが、ふと思い出したように、アルトの背中を指さした。
「なあ、その背中の弓。いつも持ってるけど、使わねえよな」
「形見だって言ったろ」
「うん。誰の?」
少し迷った。けれど、カイの目にはただの好奇心しかなかった。
「……姉みたいな人の」
「そっか」
カイはそれ以上聞かなかった。代わりに、空を見上げて言った。
「俺も、親父の剣、形見で持ってるんだ。これじゃなくて、家に置いてあるやつ。刃こぼれだらけで、もう使えねえんだけどさ」
「研ぎに出さないのか」
「出そうとしたら、鍛冶屋に酒瓶投げつけられた」
「どこの鍛冶屋だよ」
「北の偏屈なおっさん。腕は町一番なんだけどなあ」
カイは笑って頭を掻いた。
「いつか、その弓も直せるといいな。お前、弓下手だけど」
「最後のは要らない」
「でも直ったら、ちょっとはましになるかもしんねえだろ!」
「我が君。弓の性能と、我が君の命中率の間に相関関係はありません」
(分かってるよ)
それでも、いつか直せるといいな、という言葉がなぜか胸に残った。
二つ並んだ丘の手前で、カイが急に足を止めた。
「アルト、これ」
草の間に、白いものが散らばっていた。羊の毛だ。その先の地面が赤黒く湿っている。
引きずられたような跡が草をなぎ倒しながら丘の向こうへ続いていた。
跡の脇に、小さな靴が片方だけ転がっている。
子供の靴だった。擦り切れた革に亜麻色の紐がついた靴。
カイが靴を拾い上げる。その手が震えていた。
「……リリって子のだ。爺さんが言ってた。亜麻色の紐の靴だって」
「我が君。引きずられた跡の周辺に、小型の足跡が多数あります。人間の子供の足跡ではありません。爪のある、裸足の足跡です」
(ゴブリンか)
「はい。足跡の新しさから、半日以内と推定します」
喉の奥が冷たくなった。
「カイ。まず、様子を見る。いきなり飛びこむなよ」
「……分かってる」
カイは靴を胸に抱えたまま、低い声で答えた。いつもの大声がどこにもなかった。
丘の稜線の手前で腹ばいになり、草の間から向こう側を覗く。
窪地になっていた。丘と丘の間にできた、すり鉢のような地形の底に、崩れかけた石造りの建物が見える。
屋根は抜け落ち、壁も半分以上が崩れていた。昔の見張り小屋か、羊飼いの避難所だったのだろう。
その周りを、緑がかった肌の小さな影がうろついていた。
一体、二体、三体。手には錆びた短剣や、棍棒代わりの太い枝を握っている。腰には獣の毛皮を巻き、ぎゃあぎゃあと甲高い声で何か言い合っていた。
「いた……!」
カイが息を呑む。
「三体か。思ったより少ないな」
「いいえ、我が君。建物の地下です」
視界が理の層に切り替わる。
崩れた石の建物の床下に、青い光の点がびっしりと浮かび上がった。生き物の魔力の反応だ。地下に穴が掘られ、そこに折り重なるようにして何かが潜んでいる。
「推定、三十二体。地上の三体は見張りです」
(三十二……)
「さらに、最深部に一体、魔力の反応が他と異なる個体がいます。魔力量は通常のゴブリンの約八倍。シャーマン級と推定します」
喉が渇いた。
新人二人で手に負える数ではない。ギルドの基準で言えば、Cランクのパーティを複数送りこむような案件だ。
「カイ。戻るぞ」
「え、なんでだよ。三体くらいなら俺たちでも」
「三体じゃない。地下に巣がある。たぶん、三十はいる」
「さ、三十? なんで分かるんだよ」
「……エルフの勘だ」
苦しい言い訳だと自分でも思った。けれどカイはアルトの顔を見て、何かを感じ取ったらしい。いつになく真剣な顔で頷いた。
「分かった。お前がそう言うなら戻ろう。ギルドに報告して、強い人たちに任せようぜ」
意外なほど素直だった。
「この個体、我が君の判断には従う傾向があるようです」
(意外だな)
「記録しておきます。カイ・ロウエル、信頼度の評価を一段階上げます」
◇
稜線を下りかけた、その時だった。
窪地の向こうから、甲高い悲鳴が聞こえた。
ゴブリンの声ではない。人間の声だ。それも子供の。
二人は同時に振り返った。
窪地の反対側の斜面を、四体のゴブリンが何かを引きずって下りてくる。粗末な縄で手足を縛られた、小さな体。
亜麻色の髪を二つに編んだ、十歳くらいの女の子だった。
女の子は泣きながら必死に体をよじっている。ゴブリンたちは笑うような声を上げ、その髪を掴んで乱暴に引っ張った。
「羊飼いの爺さんのとこの孫だ」
カイの声が低くかすれていた。
「ギルドで依頼書もらう時、爺さんが言ってたんだ。孫が昨日の昼から羊を探しに出たまま帰ってこないって。もしかしたら、ゴブリンに……」
カイの手が剣の柄を握りしめている。白くなるほど強く。
「待て、カイ」
「待てるかよ!」
「三十体以上いるんだぞ! お前一人で飛びこんでどうする!」
「じゃあ見捨てるのかよ!」
カイが振り返った。その目に涙が滲んでいた。
「ミナと同じくらいの歳なんだぞ! あの子だって、家で誰かが待ってんだ!」
言葉に詰まった。
――アルトにいちゃん、これ回して。
焼け跡の中で、水車の玩具を抱いたまま冷たくなっていた小さな腕。
ゴブリンたちは女の子を引きずり、崩れた建物の入口へと消えていく。地下の巣へ。
「我が君」
NOAの声は落ち着いていた。
「選択肢を提示します。第一に、ギルドへ戻り報告する。往復で約二刻。救出隊の到着までに、あの子供が生存している確率は推定で二割以下です」
(……第二は)
「我が君の力を使い、救出する。成功率は九割以上。ただし、正体が露見する確率が大幅に上がります」
(第三は)
「我が君の力を最小限に抑え、カイ・ロウエルの行動を補助する形で救出する。成功率は六割。正体の露見は、運と偶然で説明できる範囲に収まる可能性があります」
六割。
前世の自分なら、迷わず第一を選んだだろう。リスクを避け、上に報告して、責任を分散させる。会社ではそれが正しいやり方だった。
だがここは会社ではない。
そして自分はもう、何もできないまま見ていることだけはしないと、あの焼け跡で決めたのだ。
「カイ」
「なんだよ」
「行くぞ。ただし、俺の言うとおりに動け」
カイが目を丸くした。それから、ぐしゃっと顔を歪めて笑った。
「……おう!」
「第三案ですね。演算を開始します」
(頼む、NOA)
「お任せください。我が君が望むなら、たとえ確率が一割でも、私はそれを十割にする方法を探します」
◇
まずは見張りの三体だ。
崩れた建物の入口の前で、三体のゴブリンが焚き火を囲んでいる。女の子を連れてきた四体はもう地下へ下りたらしく、姿が見えない。
「風向きは北西から南東。我が君とカイ・ロウエルは風下にいます。匂いで気づかれる心配はありません」
「カイ。俺が石を投げる。三体があっちを向いたら、一番近い奴を斬れ」
「お前、石投げるのは得意なのか?」
「……弓よりはましだ」
手頃な石を拾い、窪地の反対側の茂みへ向かって放り投げた。
大きく外れる。茂みの手前の草むらに、ぽすんと落ちた。
「……」
「我が君。石も下手ですね」
(今はそういうの要らない)
けれど、それで十分だった。草むらに落ちた石の音に、三体のゴブリンが一斉にそちらを振り向いた。
ぎゃっ、と警戒の声を上げて立ち上がる。
「今だ!」
カイが飛び出した。
草の斜面を滑り降り、一番近いゴブリンの背中に剣を振り下ろす。不格好な一撃だったが勢いだけは十分だった。
ゴブリンが短い悲鳴を上げて倒れる。
残りの二体が振り返り、カイに飛びかかろうとする。
アルトは指先にわずかな魔力を込めた。
焚き火の炎がばっと大きく爆ぜる。火の粉が二体のゴブリンの顔面に降りかかった。
「ぎゃあっ!」
目を押さえて転げ回る二体を、カイが立て続けに斬り伏せた。
「はあ、はあ……な、なんか今、焚き火がいきなり」
「薪が湿ってたんだろ。爆ぜたんだ」
「そ、そっか! 運が良かったな!」
「運が良かったです」
(お前まで言うな)
崩れた建物の床に、地下へ続く穴が口を開けていた。
粗く掘られた土の階段が暗闇の底へと続いている。下から湿った土と、獣の脂と、何かが腐ったような臭いが立ちのぼってきた。
そして、遠くから聞こえてくる、低い詠唱のような声。
女の子のすすり泣く声がその声に混じって途切れ途切れに響いていた。
「最深部のシャーマン級の個体が、詠唱を開始しています」
NOAの声がわずかに硬くなる。
「これは攻撃の詠唱ではありません。儀式です。供物を捧げる種類の」
背筋が凍った。
供物。
カイが穴を覗きこみ、唇を噛んだ。
「アルト。急ごう」
アルトは頷き、暗闇の中へ足を踏み出した。
階段の下で、赤い炎の光がゆらりと揺れた。




