第十三話 曲がる火球
土の階段を下りきると、狭い横穴が奥へと伸びていた。
天井は低く、アルトでも少し屈まなければ頭がつかえる。壁の土は湿っていて、ところどころから木の根が垂れ下がっていた。
足元には骨が散らばっている。羊のものらしい太い骨と、もっと小さな、何の動物か分からない骨。
奥から漏れてくる炎の光だけが頼りだった。
「暗視の補助をかけます」
視界がすっと明るくなる。闇の中の輪郭が青白い線で浮かび上がった。
「横穴は三つに分岐しています。右と中央は居住区画。ゴブリンが二十四体、眠っているか休んでいます。左の通路の先が、儀式の間です」
(左だな)
「はい。ただし、左の通路には見張りが二体います」
振り返ると、カイが壁に手をついて、目を凝らしていた。
「くっそ、暗くて何も見えねえ……アルト、お前見えるのか?」
「エルフは夜目が利くんだ」
「便利だなあ、エルフ」
実際のエルフがどれくらい夜目が利くのか、アルトは知らない。里では誰も夜に出歩かなかったからだ。
「我が君。その言い訳は今後も使えます。記録しておきます」
(記録が増えてくな、今日)
「重要な情報ばかりです」
左の通路を進む。
詠唱の声がだんだん大きくなっていく。低く、濁った、喉の奥で唸るような声。言葉の意味は分からないが同じ節を何度も何度も繰り返している。
通路の角の手前で、アルトはカイの肩を掴んで止めた。
「この先に二体いる。角を曲がってすぐだ」
「どうする?」
「俺が合図したら、右の奴を斬れ。左は俺がやる」
「お前、弓は」
「弓は使わない。これがある」
腰の小刀を抜いて見せる。旅の途中で、砂竜の鱗を剥がすのに使った刃こぼれだらけのナイフだった。
「それ、大丈夫かよ……」
「大丈夫じゃなくても、やるしかないだろ」
「NOA」
「見張り二体の位置、表示します。左の個体の足元の土を緩めます。合図の瞬間に」
(三、二、一)
「今だ!」
二人で同時に角を飛び出した。
見張りのゴブリンが振り向く。カイの剣が右の一体の肩口に食いこんだ。左の一体が短剣を振り上げてアルトに飛びかかろうとして、足元の土がずぶりと沈んだ。
体勢を崩したゴブリンの首筋に、アルトはナイフを突き立てた。
生温かいものが手を濡らす。
初めてだった。自分の手で、生き物の命を奪ったのは。
砂竜も、森狼も、NOAの組んだ魔法で倒した。刃物で直接突き刺した感触は魔法とはまるで違っていた。
ナイフ越しに伝わってくる、肉の弾力と、骨に当たる硬さ。
「我が君」
(……大丈夫だ)
「大丈夫ではない数値です。ですが、今は進むべきだと判断します」
(分かってる)
手の震えを無理やり押さえつけて、ナイフを引き抜いた。
◇
通路の先は天井の高い空洞になっていた。
地下に掘られたにしては広い。壁際に何本もの松明が突き立てられ、赤い光が揺れている。地面には獣の血で描いたらしい、歪な円形の模様。
その中央に、粗く削った石の台が据えられていた。
台の上に、女の子が寝かされていた。
縄で縛られ、声も出せずに震えている。頬には涙の跡が乾いて筋になっていた。
そして石の台の前に、一体のゴブリンが立っていた。
他のゴブリンより一回り大きい。骨と羽根で飾り立てた頭飾りをかぶり、手には獣の頭蓋骨を先端に据えた杖を握っている。
濁った黄色い目が松明の光を受けてぬらりと光った。
ゴブリンシャーマン。
その周りを、五体のゴブリンが囲んでいた。手に手に槍を持ち、こちらを向いている。
「げっ、気づかれてる……!」
カイが剣を構え直す。
シャーマンがゆっくりとこちらを振り向いた。黄色い目が細められ、口の端が裂けるように吊り上がる。笑ったのだ。
ぎゃあ、と短く何かを叫ぶ。五体のゴブリンが一斉に槍を構えて突進してきた。
「カイ、下がれ! 壁際に!」
「お、おう!」
二人で壁を背にする。
一体目の槍をカイの剣が弾く。二体目の槍がアルトの脇腹をかすめた。服が裂け、焼けるような痛みが走る。
「被弾。軽傷です」
三体目、四体目。カイが必死に剣を振り回し、アルトは足元の土を緩めては転ばせる。転んだところをカイが斬る。
五体を倒し終えた時には二人とも肩で息をしていた。
その時、シャーマンの詠唱が変わった。
さっきまでの低い唸りではない。甲高く、鋭く、早口の詠唱。杖の頭蓋骨の眼窩に、赤い光が灯った。
「攻撃の詠唱に切り替わりました。火属性。中級に相当する火球です」
頭蓋骨の口が開き、そこから炎が膨れ上がっていく。人の頭ほどの大きさでぎらぎらと燃える火の玉。
空洞の空気が一気に熱くなり、肌がひりつく。
「アルト! あれ、やべえって!」
カイがアルトの前に飛び出した。剣を盾のように構えて、立ちはだかる。
「カイ、何やって」
「お前、弓も剣も下手だろ! 俺が受ける!」
馬鹿か、と叫びたかった。剣で火球が防げるわけがない。
でも、カイは本気だった。震える足で、それでも一歩も退かずに、アルトの前に立っている。
――あの朝、エルナが家の前に立ちふさがっていたように。
「NOA!」
「解析を開始しています。詠唱の構造、把握しました」
視界の中で、シャーマンの杖から伸びる火球の式が、赤い文字列で浮かび上がった。
炎を生み出す式。それを球の形に圧縮する式。そして、目標に向かって射出する式。
「射出の式の中に、目標を指定する変数があります。現在の値は、術者の正面方向。我が君とカイ・ロウエルのいる位置です」
(書き換えられるか)
「可能です。変数の値を一つ変えるだけです」
(どこに向ける)
「術者自身の足元に」
迷わなかった。
(やれ)
「実行します」
アルトは指先を、ほんのわずかに動かした。
シャーマンが杖を振り下ろす。
火球が放たれた。
まっすぐこちらに向かってくる。カイが目をつぶり、剣を握りしめる。
その火球が空中でぐにゃりと曲がった。
まるで見えない糸に引かれたように、急角度で下へ。シャーマンの足元へ。
黄色い目が驚愕に見開かれた。
轟音。
炎が弾け、熱風が空洞を薙ぎ払った。アルトはカイの襟首を掴んで地面に伏せる。頭上を熱い風が吹き抜けていき、髪の先がちりちりと焦げる匂いがした。
炎が収まった時、シャーマンの姿は消えていた。石の台の前の地面が黒く焼け焦げ、骨の頭飾りの欠片だけが転がっている。
◇
「……え?」
カイが顔を上げた。煤だらけの顔で、ぽかんと口を開けている。
「今、火の玉、曲がらなかったか?」
「曲がったな」
「なんで?」
「……詠唱、失敗したんじゃないか。焦ってたんだろ」
「そ、そういうもんなのか?」
「たぶん」
「運が良かった、ということで推奨します」
(言われなくても)
「運が良かったな、カイ」
「お、おう……! すげえ、俺たち、運いいな!」
カイの顔に、じわじわと笑みが広がっていく。
だが喜んでいる暇はなかった。空洞の天井から、ぱらぱらと土が落ちてきている。
「警告。爆発の衝撃で、空洞の天井の構造が不安定になっています。崩落まで推定三分。居住区画のゴブリンたちも覚醒しはじめています」
「カイ、あの子を!」
「おう!」
カイが石の台に駆け寄り、剣で縄を切った。女の子が泣きじゃくりながら、カイの首にしがみつく。
「もう大丈夫だ、大丈夫だからな!」
カイが女の子を背負う。アルトが先に立ち、NOAが示す最短経路を走った。
背後で、ゴブリンたちの怒号が上がる。居住区画から次々と緑の影が湧き出してくる。
「経路上の天井を、意図的に崩します。追手を分断します」
(やれ)
走り抜けた直後、背後で轟音と共に土砂が崩れ落ちた。ゴブリンたちの悲鳴が土の向こうでくぐもって消えていく。
地上に出た時、空はもう夕焼けに染まっていた。
草原を冷たい風が吹き抜ける。三人とも泥と煤まみれで、息が上がって、しばらくは口もきけなかった。
女の子はカイの背中で、いつの間にか泣き疲れて眠っていた。
「……やったな、アルト」
カイがぼろぼろの顔で笑った。
「ああ。やったな」
アルトは自分の手を見下ろした。ゴブリンを刺した時の感触がまだ指先に残っている。
それでも、カイの背中で眠る小さな寝顔を見ていると、不思議と後悔はなかった。
「我が君。本日の判断は、合理的ではありませんでした」
(知ってる)
「ですが、最適でした」
NOAの声はいつもより少しだけ柔らかかった。
丘の稜線を越えたところで、アルトは急に足を止めた。
「アルト?」
カイの声が遠く聞こえる。膝から力が抜け、草の上に手をついた。胃の奥から、熱いものがせり上がってくる。
吐いた。
昼に食べたパンが草の上に散らばる。喉が焼けるように痛い。何度もえずき、最後には胃液しか出てこなくなった。
ナイフを突き立てた時の感触がまだ手のひらに残っていた。肉の弾力。骨に当たる硬さ。
生温かいものが指を濡らしていく感覚。
「我が君。脈拍、呼吸ともに乱れています。急性の精神的負荷による反応です」
(分かってる……分かってるよ)
背中に、何かが触れた。
カイの手だった。リリを背負ったまま片膝をつき、空いた手でアルトの背中をゆっくりとさすっている。
「最初は、みんなそうなるんだって」
カイの声はいつもより静かだった。
「親父が言ってた。坑道で初めて魔物を殺した時、三日飯が食えなかったって。でも、それでいいんだってさ。平気になっちまう奴より、ずっといいって」
アルトは何も言えなかった。ただ、背中をさする手の温かさだけを感じている。
しばらくして、ようやく呼吸が落ち着いた。口元を袖で拭い、顔を上げる。
「……悪い。もう大丈夫だ」
「おう。無理すんなよ、相棒」
カイが笑った。煤だらけの顔の中で、歯だけが白かった。
「我が君。カイ・ロウエルの信頼度の評価を、さらに一段階上げます」
(……ああ。上げとけ)
リリは祖父の腕の中で目を覚ました。
しばらくぼんやりと周りを見回していたが、カイとアルトの顔を見つけると、祖父の腕からするりと抜け出してきた。裸足の片方の足を引きずりながら、とことことアルトの前まで歩いてくる。
「エルフのお兄ちゃん」
「……なんだ」
「これ、あげる」
差し出された小さな手のひらに、草を編んだ輪がのっていた。細い茎を何本も撚り合わせて、ところどころに小さな白い花が編みこまれている。
「さらわれる前にね、羊を探しながら作ってたの。お母さんにあげようと思って」
「それなら、お母さんに」
「お母さんには、また作るの」
リリはアルトの手首に草の輪を通し、満足そうに頷いた。それからカイのほうを向き、もう一つ、ポケットから少し潰れた輪を取り出した。
「お兄ちゃんにも!」
「お、俺にも? やった!」
カイが大げさに喜んで、輪を手首にはめる。リリがくすくすと笑った。
アルトは手首の草の輪を見下ろした。少し萎れかけた白い花が夕陽の中で揺れている。
「我が君。その草の輪は、明日には枯れます」
(分かってる)
「保存処理を施しますか。理を書き換えれば、半年は形を保てます」
(……頼む)
「了解しました。記録しておきます。我が君、本日四回目の笑顔です」
(数えるなって言ってるだろ)
羊飼いの老人は孫を抱きしめて泣き崩れた。何度も何度も頭を下げ、なけなしの銅貨を二人に握らせようとして、カイに断られている。
ギルドに戻って報告すると、ミレイユが真っ青な顔で飛び上がった。
「ゴブリンの巣に、二人で入ったんですか!? しかもシャーマンがいた!?」
「シャーマンは、詠唱に失敗して自爆しました」
「じ、自爆……?」
ミレイユが絶句している横で、受付の奥の階段からとん、と軽い足音がした。
振り返ると、白金の髪の女性が階段の途中で手すりにもたれていた。
「へえ。シャーマンが、自爆ねえ」
リオラは楽しそうに微笑んで、アルトを見下ろした。
「その巣、明日、私が見てくるわ」




