第十四話 運という言葉
翌朝、リオラは一人で西の丘へ向かった。
ガストンが調査隊を組むと言い張ったのを、昼寝のついでよ、とかわして出てきた。実際には一睡もしていない。
昨夜、ギルドの屋根の上で考えごとをしていたら、いつの間にか空が白んでいたのだ。
窪地の底の崩れた建物は昨日の報告どおりだった。
入口の前に、ゴブリンの死体が三つ。焚き火の跡。地下へ続く穴は途中から土砂で塞がっている。
リオラは膝をつき、まず見張りの死体を検分した。
一体目は背中から斬られている。勢いだけの素人の太刀筋。カイという少年のものだろう。
二体目と三体目は顔に火傷を負ったうえで斬られていた。
「焚き火が、爆ぜた……ね」
灰の山に指を差し入れる。
薪は乾いていた。湿った薪が爆ぜるのはよくある話だが、これは違う。それに火の粉の飛び方が妙だった。
焚き火から放射状に散るのではなく、二体のゴブリンの顔がある方向にだけ、扇のように集中して焦げ跡が残っている。
まるで、誰かが狙って火の粉を飛ばしたかのように。
穴を塞ぐ土砂を、リオラは剣の鞘で軽く叩いた。
魔力を少しだけ流しこむ。土砂の向こうの空洞の形が指先に伝わってくる。三百年かけて身につけた、地味だが役に立つ技術だった。
「崩れ方が、きれいすぎる」
自然な崩落なら、天井の弱い場所から不規則に崩れる。だがこの土砂は通路の一点でだけ、ちょうど人が一人通り抜けたあとを塞ぐように崩れていた。
追ってくる者を、ぴたりと分断する位置で。
リオラは立ち上がり、土砂をどけはじめた。
剣を抜いて、刃に風をまとわせる。軽く振るたびに土が吹き飛ばされ、半刻もしないうちに人が通れるだけの隙間が空いた。
地下の空洞はまだ焦げた匂いが残っていた。
崩落に巻きこまれたゴブリンの死体が何体も埋まっている。生き残りは逃げ去ったのか、動くものの気配はない。
松明の燃えさしを拾って火をつけ直し、奥の儀式の間へ進む。
石の台。血で描いた円。そして台の前の黒く焼け焦げた地面。
シャーマンの骨の頭飾りの欠片が灰の中に転がっていた。
リオラはしゃがみこみ、焦げ跡の形を目でなぞった。
中心が深く、外側に向かって浅くなる。火球が地面に直撃した跡だ。それ自体はおかしくない。
詠唱に失敗した術者が火球を自分の足元に落としてしまうことは、ごく稀にある。
問題は壁のほうだった。
台の反対側、空洞の入口に近い壁に、一本の焦げた筋が走っている。人の胸の高さにあった杖の位置から入口の方角へまっすぐ伸び、それから急に下へ折れ曲がって地面の焦げ跡へと繋がっていた。
火球が通った軌跡だ。
リオラは指で、その曲がり角に触れた。
石の表面に、かすかな魔力の残り香がまだ漂っている。シャーマンの粗い魔力ではない。もっと細くて、澄んでいて、迷いのない魔力。
火球の進む先を、途中で書き換えた跡だった。
しばらく、リオラはその場から動けない。
三百年生きてきた。数えきれないほどの魔法使いを見てきた。宮廷魔導師も、神聖星国の神官も、魔族の術者も。
だが他人が放った魔法の軌道を途中から曲げる者など、一人も知らない。
放たれた魔法は術者の手を離れる。防ぐことはできる。打ち消すこともできる。
だが乗っ取って、行き先を変えるなど。
それは魔法を外側から見ているのではなく、内側の仕組みそのものに手を突っこんでいるということだ。
「……運が良かった、ねえ」
ガストンから聞いた少年たちの言い分を、口の中で転がしてみる。
ふっと笑いが漏れた。
運。便利な言葉だ。二百年前の戦場でも、何度も聞いたものだ。
生き残った者はみな、運が良かったと言った。死んだ者のことは運が悪かったと言った。
リオラはその言葉が昔から嫌いなのだ。
◇
空洞を出る前に、リオラは一度だけ振り返った。
松明の光が届かない暗がりに、二百年前の戦場がぼんやりと重なって見えた。
星征戦争の三年目。ロートリンゲンの国境の森で、リオラは人間の仲間たちと神聖星国の聖騎士団を足止めしていた。
五人のパーティだった。槍使いのハルト。双子の弓兵。
治癒師の少女。そしてリオラ。全員がまだ若く、全員が自分たちは死なないと思っていた。
三日目の夜、聖騎士団の神官が放った光の槍が、リオラの真横をかすめて飛んでいく。後ろにいたハルトの胸を貫いた。
ほんの半歩、立ち位置が違っていれば、貫かれていたのはリオラのほうだった。
ハルトは血を吐きながら笑って、運が悪かったな、と言う。
それが最期の言葉だった。
あの時、リオラは何も言えなかった。運が悪かったのではない。自分が半歩、間違えたのだ。
神官の詠唱の癖を読み切れなかった。それを運という言葉で片づけてしまえば、ハルトの死の意味まで薄れてしまう気がする。
それ以来、リオラは運という言葉が嫌いになった。
二百年経った今も、ハルトの笑った顔だけは忘れていない。
「……ほんと、嫌な言葉」
小さく呟いて、リオラは地上への階段を上っていく。
ベルズに戻ったのは昼過ぎだった。
ギルドの裏口から入ると、待ち構えていたようにガストンが腕を組んで立っていた。
「ギルドマスター。調査の報告書、今日中にお願いしますよ」
「報告書ね。シャーマンが詠唱に失敗して自爆。巣は崩落して壊滅。生き残りは散った。以上」
「……それだけですか」
「それだけよ。運が良かったわね、あの新人たち」
ガストンは眉間に皺を寄せた。長年の付き合いだ。何か隠していることくらい、気づかれているだろう。
だが彼はそれ以上は何も聞かず、大きくため息をついた。
「新人二人にはどうします。ゴブリン三十体の巣の壊滅と、子供一人の救出。Fランクの功績としては異例ですが」
「Eランクへの昇格を検討して。それと、報酬は上乗せ。羊飼いの爺さんが払えない分は、ギルドから出してあげなさい」
「了解しました」
だがガストンは扉の前で立ち止まった。
「ギルドマスター」
「なあに」
「あんたが運って言葉を使う時は、だいたい何か面倒なことを抱えてる時だ。二十年の付き合いで、それくらいは分かります」
リオラは返事をしなかった。ガストンは振り返らずに続けた。
「何かあったら、言ってください。屋根から引きずり下ろすくらいしかできませんがね」
「……ありがと、ガストン」
扉が閉まった。リオラは小さく笑って、窓の外の空を見上げた。
人間の二十年は長い。ガストンが駆け出しの斧使いだった頃を、リオラは昨日のことのように覚えている。
今ではもう、髭に白いものが混じりはじめていた。
見送る日も、いつか来るのだろう。
ガストンが去っていく背中を見送ってから、リオラは階段を上った。
三階を過ぎ、窓から屋根へ出る。いつもの場所に寝転がると、秋の陽射しが顔に降りそそいだ。
報告書を片づけたあと、リオラは珍しく自分からギルドの資料室に下りた。
埃っぽい棚の間を歩き、新人冒険者の登録記録を引き出す。十日ほど前の頁に、几帳面な受付の字でこう書かれていた。
アルト。エルフ。出身、北方の村(本人申告)。
魔力三一〇。適性、風(低)。
リオラは記録の数字を指でなぞった。ギルドの測定水晶はドワーフの職人が刻印した古い品だ。精度は高い。
三百年のあいだ、一度も狂ったことがない。
その水晶が三百十と出したのなら、あの子の魔力は本当に三百十なのだろう。普通に考えれば。
けれど、ゴブリンシャーマンの火球を途中で曲げる者の魔力が、三百十のはずがない。
「水晶のほうが、騙されたのかしらね」
口に出してみて、自分で少し笑った。三百年狂わなかった水晶を騙す。そんなことができる存在を、リオラは古い歌の中でしか知らない。
記録の帳面を閉じ、棚に戻す。
確かめる方法はいくつか思いつく。だがそのどれも、あの子を追いつめることになる。追いつめられた獣がどうなるか、リオラはよく知っていた。
「……急がなくていいわ。エルフのいつかは長いもの」
夕方、屋根の端に人の気配がした。
身を起こすと、くすんだ金髪の青年が、窓枠に手をかけて恐る恐るこちらを覗いていた。両手で陶器の器を抱えている。
湯気が夕暮れの冷たい空気の中で白く立ちのぼっていた。
「あら、坊や。本当に持ってきてくれたの」
「約束、したので」
「律儀ね」
手招きすると、アルトはおっかなびっくり屋根の上に出てきた。高いところは得意ではないらしく、瓦の上で何度も足を滑らせかけている。
器を受け取る。手のひらに、じんわりと熱が伝わってきた。
香りを嗅ぐ。焦がした木の実のような、甘くて深い香り。
一口すする。
苦い。けれど、舌に絡みつくような嫌な苦さではない。喉の奥へすっと消えていって、そのあとにほのかな甘みと、果物のような酸味が残る。
「……おいしいわね、これ」
「そうですか」
アルトの顔がほんの少しだけほころんだ。照れたように目を逸らす。
この子は嘘が下手なのだ、とリオラは思った。嘘をつく時は目が泳ぎ、褒められると隠しきれずに顔に出る。
それなのに、その魔力の流れだけは、三百年見てきた誰よりも整っている。
「ねえ、坊や」
夕陽がベルズの屋根を茜色に染めていた。
「今日、西の丘の巣を見てきたわ」
アルトの肩がぴくりと揺れた。
「……そうですか」
「シャーマンの火球。ずいぶん見事に曲がってたわね」
返事はなかった。
横顔を見る。表情は固まっているのに、耳の先だけが赤くなっていた。
「坊や、運って言葉、好き?」
「え?」
「私はね、嫌いなの。昔から」
黒い茶をもう一口すする。
「運が良かったって言う人はね、たいてい何かを隠してるか、何かから目を逸らしてるのよ。自分が頑張ったことからか、誰かに助けられたことからか。あるいは、自分が何者なのかってことから」
アルトは何も言わなかった。器を持つリオラの手元を、じっと見つめている。
「でもまあ、いいわ」
リオラは器を膝の上に置き、空を見上げた。
「誰にでも、言いたくないことはあるもの。私にもね」
「……ギルドマスターにも、ですか」
「リオラでいいわよ。ギルドマスターって呼ばれると、ガストンに怒られてる気分になるの」
くすりと笑う。
「あの子、ちゃんと家に帰れたって。羊飼いのお爺さんが、朝一番にギルドにお礼を言いに来たわ。カイ君と、エルフのお兄ちゃんにって」
アルトの肩から、少しだけ力が抜けたのが分かった。
「それだけは、運じゃないわね」
器が空になる頃には空はすっかり群青色に変わっていた。
「ごちそうさま。また持ってきてくれる?」
「……気が向いたら」
「気が向くのを待ってるわ」
アルトはぎこちなく頭を下げ、来た時と同じように何度も瓦の上で足を滑らせながら、窓の中へ戻っていった。
リオラは一人、屋根の上に残った。
空になった器を指先でくるくると回す。まだ、ほんのりと温かい。
あの子は何者なのだろう。
火球を曲げた魔力。焚き火の火の粉を狙って飛ばす精度。崩落の位置まで計算し尽くした撤退。
そして、ふとした瞬間に漏れ出てくる、あの陽だまりのような気配。
故郷の森の世界樹の前に立った時と同じ感覚。
エルフなら誰でも知っている。その感覚が何を意味するのか、古い歌の中で繰り返し語られているから。
けれど、まさか、と思う。そんな存在がぼろぼろの背負い袋ひとつで辺境の町に流れ着くはずがない。
「……まさか、ね」
呟いてから、リオラは自分の声が少しだけ震えていることに気づいた。
夜風が吹いた。器の底に残った黒い茶の香りがふわりと鼻をくすぐる。




