第十五話 ミナ
ゴブリンの巣の一件から三日後、アルトはカイに引きずられるようにして、町の南側の下町へ向かっていた。
「約束だろ! ミナに会ってくれるって!」
「約束はしてない」
「した! 角兎の時に!」
「お前が一方的に決めただけだろ」
「決まりなって言ったら、それは約束なんだよ!」
「我が君。この個体の論理は破綻していますが、反論の成功率は依然として零パーセントです」
(知ってる)
結局、アルトはマーサに焼いてもらった甘い堅焼きの菓子を手土産に、カイの後をついて歩いていた。
南の下町は大通りとはまるで空気が違った。
石畳は途中で途切れ、踏み固められた土の道になる。両側には板と土壁でできた低い家々が肩を寄せ合い、軒先には洗濯物がずらりと干されていた。
どこかから石を削る音が響き、乾いた粉塵が風に舞っている。南の古坑で働く鉱夫たちの住む区画だと、カイが教えてくれた。
「親父が生きてた頃から、ずっとここに住んでんだ。ぼろいけど、いい所だぜ」
すれ違う人々が次々とカイに声をかけてくる。
「よう、カイ坊! 今日は仕事休みか!」
「カイちゃん、ミナちゃんの具合はどうだい」
「おばちゃん、ありがとな! 今日は調子いいって!」
カイは一人一人に手を振り返していた。
里を思い出した。八十一人全員の名前を知っていて、すれ違えば必ず誰かが声をかけてくる。あの小さな世界と、どこか似ていた。
カイの家は路地の突き当たりにある小さな平屋だった。
戸口の脇に、小さな鉢植えが三つ並んでいる。どれも手入れが行き届いていて、白や黄色の小さな花が咲いていた。
「ただいまー! ミナ、連れてきたぞ!」
カイが戸を開けるなり叫んだ。
「お兄ちゃん、声が大きい!」
奥から、か細いけれどよく通る声が返ってきた。
家の中は薄暗く、乾いた薬草の匂いがした。土間の向こうに板張りの部屋がひとつ。その奥の窓辺に寝台が置かれ、毛布にくるまった小さな女の子が上半身を起こしていた。
カイと同じ黒髪を肩のあたりで切りそろえ、大きな瞳をしている。年は十一だと聞いていたがもっと幼く見えた。
頬は青白く、毛布の上に出した手首は驚くほど細い。
それでも、その目だけは生き生きと輝いていた。
「わあ……!」
ミナがアルトを見上げて、両手を口に当てた。
「本物のエルフだ……! 耳、ほんとに長い!」
「ミナ、失礼だろ」
「だってお兄ちゃん、エルフなんてお話の中にしかいないと思ってたんだもん!」
アルトは戸口で立ち尽くしていた。どう反応していいのか分からない。
「我が君。挨拶を推奨します」
(分かってる)
「……アルトです。カイの、えっと」
「相棒!」
カイが横から割りこんだ。
「……相棒です」
ミナがぱっと顔を輝かせた。
「お兄ちゃんがいつも話してる、弓が下手なエルフさんだ!」
「カイ」
「い、いや、悪口じゃねえって! すげえ奴だって話してたんだよ! 弓は下手だけど!」
「弓は下手です」
(三人がかりで言うな)
◇
マーサの菓子を広げると、ミナは目を丸くして、ひとつを両手で大事そうに持った。少しずつ、小さな口でかじっていく。
「おいしい……」
「ゆっくり食べろよ。また咳出るぞ」
カイが水差しから器に水を注ぎ、ミナの手元に置いた。その手つきがひどく慣れている。毎日こうしているのだろう。
「お母さんは仕事?」
「うん。洗濯屋さん。夜まで帰ってこないの」
ミナはアルトをじっと見上げた。
「ねえ、アルトさん。エルフの村って、どんな所?」
言葉に詰まった。
「我が君」
(……大丈夫だ)
息を吸う。
「森の奥にある、小さな村だった。大きな木がいっぱいあって、川が流れてて」
「川!」
「川には水車があった。俺が作ったんだ。水の力で回って、麦を挽いたり、畑に水を引いたりする」
「すごい! アルトさんが作ったの?」
「ああ。それから、小さい水車の玩具も作った。村の子供にあげたら、すごく喜んでくれて、どこに行くにも抱えて歩いてた」
ミナが目を輝かせて聞いている。
その顔が少しだけティオに重なった。
「その子、今もその水車持ってるかなあ」
喉の奥が詰まった。
背負い袋の底にある、半分焦げた木の水車。
「……ああ。持ってるよ。きっと、ずっと」
声が少し掠れた。カイがちらりとこちらを見たが何も言わなかった。
その時、ミナが急に咳きこんだ。
小さな背中を丸め、何度も何度も咳をする。顔がみるみる赤くなり、額に汗が滲んでいく。カイが慌てて背中をさすり、枕元の小瓶から青い液体を匙ですくって飲ませた。
しばらくして、ようやく咳が収まる。ミナは毛布にもたれかかり、荒い息をついた。
「ご、ごめんね。お客さん来てるのに」
「謝んなって。……アルト、悪いな。いつもこうなんだ。調子がいい日でも、ちょっとはしゃぐとすぐこうなる」
「その薬が、高いっていう」
「ああ。魔力の回復薬。これがないと熱が下がらなくて、何日も寝こむんだ。一瓶で銀貨三枚。三日で一瓶なくなる」
一か月で銀貨三十枚。Fランク冒険者の稼ぎでは、とても足りない額だった。
(NOA)
「解析を開始しています」
視界が理の層に切り替わる。
ミナの小さな体に、青い文字列が浮かび上がった。
◇
人の体の理は木よりもずっと複雑だった。
心臓の鼓動の式。肺が空気を取りこむ式。血が巡る式。
何百、何千という式が絡み合い、互いに呼び出し合いながら動いている。その間を、魔力の流れが細い川のように縫っていた。
そして、胸の真ん中。
心臓の近くに、魔力が溜まるべき場所がある。泉のような場所だ。そこから全身へ魔力が流れ出し、また戻ってくる。
普通の人間ならそうなっているはずの循環が、ミナの体の中では途切れていた。
「問題の箇所を特定しました」
泉の出口に、小さな赤い印が灯った。
「魔力の流れを制御する弁のような式があります。本来は、魔力が出すぎないよう流量を調整するものです。ですがミナ・ロウエルの場合、この式の条件の判定が逆になっています」
(逆?)
「魔力が溜まると弁を開き、減ると閉じる。本来はその反対です。そのため、体内で生み出された魔力が溜まる端から外へ漏れ出しています。体は常に魔力が枯渇した状態です」
(前世で言えば、条件式の不等号の向きが逆になってるバグか)
「その理解で正確です。生まれつきの、たった一文字の誤りです」
たった一文字。
それだけのことで、この子は生まれてから十一年間、寝台の上で咳をし続けてきた。
(直せるか)
「理論上は可能です。不等号の向きを一つ変えるだけです」
(じゃあ)
「ですが、問題が二つあります」
NOAの声が慎重になる。
「第一に、生きている人間の体の理を直接書き換えるのは危険です。体の式は互いに強く結びついています。一箇所を変えると、周りの式が拒絶反応を起こす可能性があります。我が君の心臓の時と同じです」
再構成した心臓が数週間で崩れかけたこと。思い出して、背筋が冷えた。
「書き換えた式を体に馴染ませるために、時間をかけて少しずつ定着させる必要があります。そのための仲介となる薬が要ります。月光草の根の精髄と、東の森の奥に生える銀苔。それを、正確な比率で調合したもの」
(第二は)
「書き換えた式を、薬の中に保持しておく器が必要です。理を刻みこめる、ごく小さな刻印具。指先ほどの大きさの金属片に、髪の毛より細い線で式を刻む必要があります」
(俺の手じゃ無理か)
「我が君の手先の器用さは、弓の命中率と同程度です」
(だよな)
「それに、そのような精密な刻印具を作れる道具が、この町の普通の店にあるとは思えません」
「アルト?」
カイの声で、我に返った。
気づくと、ミナが寝台の上から不思議そうにこちらを見ていた。
「アルトさん、ずっと黙ってミナのこと見てた」
「あ、いや……ごめん」
「ううん。お医者さんみたいだった」
ミナがくすくすと笑う。咳きこんだばかりで顔色は悪いのに、笑う時だけは頬に少し赤みが差す。
アルトはゆっくりと息を吐いた。
日が傾きかけた頃、戸口ががらりと開く。
入ってきたのは痩せた中年の女性だった。袖をまくった腕は赤く荒れ、前掛けは洗濯の水でびっしょりと濡れている。
カイとミナと同じ黒髪を、手ぬぐいで無造作にまとめていた。
「ただいま。あら」
女性はアルトを見て、目を瞬かせた。
「母ちゃん! 早かったな!」
「今日は洗い物が少なかったのよ。……そちらは?」
「アルトだよ! 前に話した、相棒のエルフ!」
女性の顔に、ぱっと笑みが広がった。疲れの滲んだ目尻に、優しい皺が寄る。
「まあ、あなたが。カイから毎日のように話を聞いてるわ。弓の下手なエルフの……あ、ごめんなさいね」
「いえ、事実なので」
「カイの母のハンナです。この子が、いつもご迷惑をおかけして」
ハンナはそう言って深々と頭を下げた。アルトは慌てて立ち上がった。
「迷惑なんて。カイには、助けてもらってばかりです」
「そう言ってもらえると、母親としては嬉しいわ」
ハンナはミナの寝台に近づき、額に手を当てた。熱を確かめる手つきがカイの水を注ぐ手つきとそっくりだった。
「今日は顔色がいいわね。お客さんが来て、嬉しかったのかしら」
「うん! アルトさんがね、エルフの村のお話してくれたの!」
「よかったわねえ」
ハンナがミナの髪を撫でる。ミナが目を細めて、猫のように頭を擦りつけた。
「アルトさん、よかったら夕飯を食べていって。大したものは出せないけど」
「いえ、今日はもう。宿の女将さんに、晩飯はちゃんと食べろって言われてるので」
「あらまあ。いい宿にいるのね」
ハンナは少しほっとしたように笑った。アルトは狭い台所の棚に並んだ食材が、黒パン一斤と萎びた根菜が少しだけだったことに気づいていた。
「我が君。賢明な判断です」
(……ああ)
戸口を出る時、ハンナがもう一度頭を下げた。
「また来てちょうだいね。ミナが喜ぶから」
帰り道、カイは珍しく黙っていた。
夕暮れの下町を並んで歩く。どこかの家から、夕食の煮炊きの匂いが漂ってくる。
「なあ、アルト」
「なんだ」
「ミナ、楽しそうだった。ありがとな」
「俺は何もしてない」
「話してくれたじゃん。水車の話。あいつ、ずっと外に出られないからさ、外の話を聞くのが一番好きなんだ」
カイは前を向いたまま、ぽつりと続けた。
「医者には、大人になるまで生きられるか分からないって言われてる」
足が止まった。
「だから、俺が稼がないといけないんだ。薬がずっと買えるように。いつか、もっといい医者に診てもらえるように」
カイの声は少しも震えていなかった。もう何度も、自分に言い聞かせてきた言葉なのだろう。
(NOA)
「はい」
(刻印具を作れる職人を探してくれ)
「了解しました。この町の鍛冶師と細工師の情報を集めます」
少しの間を置いて、NOAが付け加えた。
「我が君。第一の方針との矛盾が生じますが」
(分かってる。でも、目立たないように直す方法はあるだろ)
「……演算します」
「アルト? また黙ってどうしたんだよ」
「なあ、カイ。この町で一番腕のいい鍛冶師って、誰だ」
カイがきょとんとした顔で振り返った。
「鍛冶師? そりゃあ、北のグランハンマー工房のバルドのおっさんだろ。腕は町一番だって有名だぜ。ただ……」
「ただ?」
カイは困ったように頭を掻いた。
「すっげえ偏屈で、気に入らない客は全部追い返すんだ。俺も昔、親父の形見の剣を研いでもらおうとしたら、酒瓶投げつけられた」




