第十六話 泣いている弓
翌日、アルトは一人で町の職人街を回った。
カイは朝からミナの薬代を稼ぐために荷運びの依頼に出ている。一緒に行くと言い張ったが今日は依頼じゃないからと断った。
どこへ行くのか聞かれて、少し買い物、とだけ答えた。
嘘ではない。
「最初の候補です。大通りの東、細工師ヘルマンの店。指輪や首飾りの細工で評判です」
ガラス窓の向こうに、銀の装身具が並ぶ小綺麗な店だった。扉を開けると、白い髭をきれいに整えた初老の男が、拡大鏡を額に上げてこちらを見た。
「いらっしゃい。何をお探しで」
「刻印具を作ってほしいんです。指先くらいの金属片に、細い線で模様を刻んだもの」
懐から一枚の紙を取り出す。昨夜、NOAが視界に表示した設計図を、宿の机で必死に書き写したものだ。
書き写すだけで夜が明けかけた。
ヘルマンは紙を受け取り、拡大鏡を下ろして覗きこんだ。
しばらく黙って眺めていたがやがて首を横に振った。
「無理だね」
「無理、ですか」
「線が細すぎる。髪の毛の半分もないじゃないか。しかもこの線の数。指先ほどの面積に、ざっと見ただけで三百本はある。こんなもの、人間の手で刻めるわけがない」
紙を返された。
「どこでこんな図面を手に入れたのか知らないが、悪戯なら他所でやってくれ」
二軒目も三軒目も、似たような答えだった。
四軒目の細工師は図面を見るなり笑い出す。五軒目は図面を見もせずに追い返された。どうやら新人冒険者の身なりで高級な細工を頼むこと自体が、門前払いの理由になるらしい。
五軒目を出たところで、南門へ続く通りの向こうから、一台の馬車がゆっくりと近づいてきた。
紺色の幌をかけた、品のいい馬車。御者台の横に座っている男の顔に、見覚えがあった。
丸い顔に、きちんと整えた口髭。
ベネディクトだった。
「我が君。路地へ」
言われる前に、体が動いていた。建物の陰に身を滑りこませ、壁に背中を押しつける。
馬車は目の前を通り過ぎていった。ベネディクトは御者と何か談笑しながら、のんびりと町並みを眺めている。
こちらに気づいた様子はない。
馬車は南門をくぐり、街道の向こうへと消えていった。
「銀の秤亭の帳簿の推定と一致します。本日、町を発つ予定でした」
(……行ったか)
「はい。ただし、彼が集めた情報も一緒に南へ向かいました。その中に、砂竜の鱗を拾ったエルフの新人の話が含まれている可能性は高いです」
壁に預けた背中がじっとりと汗ばんでいた。
(いつか、また来るな)
「その可能性が高いと判断します。記録を更新しておきます」
アルトは大きく息を吐いて、通りに戻った。今はミナの刻印具が先だ。
六軒目は武器屋だった。大通りで一番大きな店で、壁一面に剣や槍が並んでいる。
「刻印? うちは武器屋だよ、兄ちゃん。刻印つきの剣なら売ってるが、オーダーメイドの細工なんかやってねえ」
「刻印つきの剣は、誰が刻印してるんですか」
「そりゃあ……」
店主が言いかけて、顔をしかめた。
「北のバルドの爺さんだよ。うちの店の上物は、だいたいあの爺さんの仕事だ。腕だけは確かだからな。だが、あの爺さんに直接頼むのはやめときな。客を選ぶんだ。気に入らねえと、金を積んでも首を縦に振らねえ」
「カイも言ってました。酒瓶を投げられたって」
「酒瓶で済めばいいほうさ。この前は、王都から来た貴族の使いを金槌で追い回してた」
(金槌)
「我が君。最後の候補を推奨するのは気が進みませんが、他に選択肢はありません」
(行くしかないだろ)
「承知しています。防御の準備をしておきます」
◇
六軒目を出た時には昼をとうに過ぎていた。
大通りの真ん中にある噴水の縁に腰を下ろす。水しぶきが陽の光を受けてきらきらと散り、子供たちがその周りを走り回っていた。
手の中の図面を見下ろす。何度も広げては畳んだせいで、角がすっかり擦り切れていた。
(NOA。他に方法はないのか)
「検討しました。我が君自身が刻む場合、成功率は約〇・二パーセント。我が君の手先の器用さの問題です」
(知ってる)
「私が我が君の指を直接動かすことも考えました。ですが、神経の理に干渉するのは危険が大きすぎます。わずかな誤差で、我が君の指が一生動かなくなる可能性があります」
(それは困るな)
「はい。我が君の指は、黒茶を淹れるのに必要です」
(そっちかよ)
思わず笑ってしまった。けれど笑いはすぐに引っこんだ。
たった一文字。
不等号の向きが逆になっているだけのありふれたバグ。前世なら、見つけた瞬間に直してテストを走らせて、それで終わりだった。
三分もかからない。
それがこの世界では直す手段が見つからない。
「……悔しいな」
声に出していた。噴水の音にかき消されるくらい、小さな声で。
「我が君」
(分かってるんだよ、何が悪いのか。どこを直せばいいのかも。それなのに、手が届かない)
「我が君の感情を理解します。前世で我が君がもっとも嫌っていたのは、原因が分かっているのに直せない状況でした」
(そう。それが一番嫌いだった)
「でしたら、最後の候補を推奨します」
視界の端に、町の地図が浮かんだ。北の外れに、小さな赤い印がひとつ。
「北の鍛冶師、バルド・グランハンマー。この町で唯一、王都の武器屋に刻印つきの剣を卸している職人です。偏屈で、気に入らない客は追い返す。ですが、腕は確かです」
(さっきの店主は、近づくなって言ってたぞ)
「近づくなと言われて引き下がるのは、我が君の性格に合いません」
アルトは顔を上げた。噴水の向こうの空が少しだけ高く見えた。
(……お前、俺のこと分かってきたな)
「前世の我が君の記録と、この半年分の記録がありますので」
グランハンマー工房は町の北の外れにあった。
石造りの頑丈な建物で、屋根から突き出た太い煙突が黒い煙を吐いている。近づくにつれて、金属を叩く甲高い音と、むっとするような熱気が伝わってきた。
そして、酒の匂い。
開け放たれた戸口の奥で、炉の火が赤々と燃えていた。
その前に、ずんぐりとした背中が見えた。
背丈はアルトの胸ほどしかない。だが肩幅はアルトの倍はあり、むき出しの腕は丸太のように太い。赤茶色の髭を三つ編みにして胸まで垂らし、頭には煤けた布を巻いている。
ドワーフだ。
男は真っ赤に焼けた鉄を金床に置き、金槌を振り下ろしていた。一打ごとに火花が飛び散り、鉄が少しずつ形を変えていく。
その動きに無駄がない。前世で見た、熟練の職人の動画のようだった。
アルトは戸口で立ち止まり、しばらくその手元に見入っていた。
「……おい」
金槌が止まった。男が振り返りもせずに言う。
「そこに突っ立ってる奴。客か。冷やかしか」
「客です」
「なら用件を言え。言ったら帰れ」
「刻印具を作ってほしいんです」
「断る」
即答だった。
「まだ図面も見せてないです」
「見なくても分かる。新人の冒険者が持ってくる図面なんざ、どうせどこぞの古本の写しだろ。俺はな、自分で考えねえ奴の注文は受けねえんだ」
男はようやく振り返った。
煤で汚れた顔に、太い眉。その下の目は炉の火を映したような赤みがかった茶色だった。顔に刻まれた皺は深いが目だけがぎらぎらと若い。
足元には空になった酒瓶が三本転がっている。
「分かったら帰れ。仕事の邪魔だ」
「我が君。図面を見せる前に撤退を推奨します。あの個体の右手の位置が、酒瓶を投擲する予備動作に入っています」
(まだ何もしてないぞ)
「この個体の投擲の閾値は、極めて低いようです」
諦めて背を向けようとした時だった。
「……待て」
男の声がさっきとは違う響きを帯びていた。
「その背中のもんは、なんだ」
振り返る。男の目がアルトの背中に括りつけた弓に向けられていた。
エルナの弓。弦は切れ、弓幹は真ん中から折れたまま。
「これは……形見です」
「見せろ」
「え」
「いいから見せろ」
有無を言わさない声だった。アルトは背中から弓を外し、おずおずと差し出す。
男は煤だらけの手を前掛けで拭い、両手でそっと弓を受け取った。
さっきまで金槌を振るっていた荒々しい手つきとは、まるで違った。生まれたばかりの赤子を抱くように、慎重に、静かに。
折れた弓幹を指でなぞる。切れた弦の根元を確かめる。弓を炉の火にかざし、木目をじっと見つめる。
長い沈黙が続いた。炉の火がはぜる音だけが響いている。
「……こいつは、エルフの弓だな」
「はい」
「森の奥の、相当古い木で作ってある。弓幹に、風を読む細工が仕込んである。今どきのエルフの職人じゃ作れねえ。百年、いや、もっと前の技だ」
男は折れた断面を親指で撫でた。
「最後まで、引き絞られてた」
息が止まった。
「弦が切れたのは、限界まで引いた状態で何か強い力を受けたからだ。弓幹が折れたのも同じだ。こいつは最後の最後まで、誰かを守るために引き絞られてた。違うか」
四本目の矢をつがえたところで、神官の詠唱が彼女の弓を砕いた。
あの朝の光景が炉の火の向こうに浮かんで消えた。
「……違いません」
声が掠れた。
男は弓を見下ろしたまま、低く呟いた。
「その弓、泣いてるぞ」
ドワーフの太い指が折れた弓幹を優しく撫でる。
「もう一回引いてくれる奴を待ってる。そういう泣き方だ」
◇
気づくと、アルトは工房の中の丸椅子に座らされていた。
目の前の作業台に、エルナの弓が丁寧に置かれている。男は奥の棚から欠けた陶器の杯を二つ出し、酒瓶から琥珀色の液体を注いだ。
「飲め」
「いや、俺、酒は」
「飲めねえのか」
「……飲んだことないです」
男は鼻を鳴らし、片方の杯を自分で一気に呷った。
「バルド・グランハンマーだ。この工房の主だ」
「アルトです」
「アルトか。で、刻印具だったな。図面を見せろ」
「さっき断るって」
「気が変わった。いいから出せ」
アルトは懐から、皺だらけになった紙を取り出した。
バルドはそれをひったくるように受け取り、作業台の上に広げた。炉の明かりに顔を近づけ、目を細める。
一瞬で、その顔つきが変わった。
眉間の皺が深くなる。太い指が紙の上の細い線を一本ずつなぞっていく。口の中で何かぶつぶつと呟いている。数を数えているようだった。
「……おい、小僧」
「はい」
「これ、どこで手に入れた」
バルドの目が紙から上がった。さっきまでの酔いの色がきれいに消えていた。
「古本の写しなんかじゃねえな。こんな刻印の組み方、どの本にも載ってねえ。ドワーフの刻印術でも、エルフの細工でもねえ。だが、理屈は通ってる。線の一本一本に意味がある。無駄が一本もねえ」
ごくり、と唾を飲む音がした。バルドのものだった。
「お前が考えたのか」
「我が君。回答を慎重に」
(分かってる)
アルトは少しだけ迷ってから口を開いた。
「……半分は、俺が考えました」
嘘ではなかった。NOAが組んだ式を、アルトが紙に落とした。どの線をどう繋ぐか、紙の上でどう配置するか。
その部分は確かに自分で考えたのだ。
バルドは長いあいだアルトの顔を見つめていた。
「我が君。この個体は、我が君の回答の真偽を判定していません」
(どういうことだ)
「真偽よりも、図面そのものに興味を持っています。前世の我が君の上司とは、正反対の反応です」
思わず噴き出しそうになった。前世の上司は誰が書いたかばかり気にして、中身を一度も読まなかった。
炉の火の向こうで、バルドが図面に顔を近づけ、ぶつぶつと線の数を数え直している。子供が新しい玩具を手にした時のような顔だった。
それから、にやりと笑った。髭の奥から、黄ばんだ歯が覗く。
「面白え」




