第八話 角兎と相棒
翌朝、麦の穂亭の扉を開けると、目の前にカイが立っていた。
まだ空は暗い。夜明けの鐘すら鳴っていない時間だ。
「おはよう、アルト!」
「……いつからいたんだ」
「ついさっき! 嘘、ちょっと前! また置いてかれたら困るからな!」
満面の笑み。吐く息が白い。鼻の頭が赤くなっているところを見ると、ちょっと前どころではないらしい。
「待機時間は推定で一時間以上。この個体の執着度は、我が君の予測を超えています」
(俺は何も予測してない)
厨房の奥から、マーサの笑い声が聞こえた。
「あっはっは! 諦めな、アルト。そういう子は一回懐いたら離れないよ。ほら、二人分包んであげるから」
焼きたてのパンの包みを二つ押しつけられ、気づけば二人並んでギルドへ向かう道を歩いていた。
カイはよく喋る。
どこの露店の串焼きがうまいか。ギルドの誰それがBランクで、どれほど強いか。いつか自分もAランクになって、王都で騎士に取り立てられるのが夢だということ。
アルトが黙っていても、まったく気にしない。相槌を打たなくても、勝手に次の話が始まる。
前世の職場にも、こういう奴がいた。新人で、空気が読めなくて、でも誰からも嫌われない奴。
「それでさ、アルトは何で冒険者になったんだ?」
唐突に聞かれて、言葉に詰まる。
「……行くところが、なかったから」
「そっか! 俺もだ!」
即答だった。重たい答えをしたつもりが拍子抜けするほど軽く返ってくる。
「親父が鉱夫でさ。南の古坑で働いてたんだけど、俺が十の時に落盤で死んじまって。母ちゃんは洗濯屋で働いてるけど、それだけじゃ足りなくて」
声の調子は変わらない。けれど、前を向いたままの横顔が少しだけ硬くなった。
「妹がいるんだ。ミナって言うんだけど、体が弱くてさ。生まれつき魔力がうまく体の中を回らない病気らしくて。薬がないと熱が下がらねえんだ。その薬が、すげえ高くて」
(魔力が回らない)
胸の奥で、何かがちくりと疼いた。
魔力の道が細い。詠唱がうまく通らない。五十二年間、自分も似たようなものだった。
「だから稼がなきゃいけねえんだ。早くランク上げて、もっと割のいい依頼受けて。……あ、悪い。暗い話しちまった!」
カイがぱっとこちらを向いて笑う。
「ま、そういうわけだからよろしくな、相棒!」
ギルドで依頼を受けて出ようとしたとき、酒場のテーブルから声が飛んできた。
「おい、カイ。今日も新人のお守りか」
朝から麦酒を飲んでいる、三人組の冒険者だった。真ん中の男が杯を傾けながらにやにやと笑っている。
「お守りじゃねえ! 相棒だ!」
「相棒ねえ。剣もまともに振れねえガキと、魔力三百のエルフか。いい組み合わせじゃねえか。仲良く角兎に突き殺されちまえ」
仲間の二人がげらげら笑った。
カイの肩がぴくりと揺れる。だが言い返さない。拳を握ったまま、黙って扉のほうへ歩き出す。
「我が君。あの個体の発言を記録しますか」
(……しなくていい)
「既に記録しました」
(聞く意味あったか?)
扉を出ると、カイは何事もなかったように伸びをした。
「気にすんな、アルト。あいつらいつもああなんだ。俺が親父の話すると、鉱夫の息子が冒険者ごっこかって」
「言い返さないのか」
「言い返したら、喧嘩になるだろ。喧嘩したら怪我する。怪我したら依頼に行けない。依頼に行けなきゃ、ミナの薬が買えない」
指を一本ずつ折りながら、カイはあっけらかんと笑う。
「だから、言い返さねえの。いつかAランクになって、あいつらの前で銀貨ばらまいてやるんだ」
その笑顔の奥にあるものを、アルトは知っている気がした。
前世の会社で、理不尽な上司に何も言い返せなかった自分。言い返せば仕事が回らなくなる。仕事が回らなければ、また誰かに迷惑がかかる。
そうやって飲みこみ続けて、最後に心臓が止まった。
「……カイ」
「ん?」
「お前、意外と考えてるんだな」
「意外ってなんだよ!」
(相棒)
その言葉を、前世でNOAに向けて何度も呟いた気がする。
「我が君。私の役割が侵害されています」
(嫉妬か?)
「私には嫉妬という機能は実装されていません」
(じゃあ何だ)
「……記録だけしておきます」
◇
今日の依頼は角兎の駆除だった。
ベルズの北の畑を荒らす魔物で、額に一本の角を持った大きな兎だ。一匹ならFランクの新人でも狩れる。五匹で銅貨百枚。
「角兎ってのはさ、すばしっこいけど臆病なんだ。だから気配消して近づいて、一匹ずつやるのが基本!」
カイが得意げに教えてくれる。どうやら、出発前にギルドで仕入れた知識らしい。
「アルトは弓だよな? あの背中のやつ」
「これは……」
背中に括りつけたエルナの弓。弦は切れ、弓幹は折れたまま。
「これは使えない。形見なんだ」
「そっか。じゃあ弓はギルドで借りたやつか」
ギルドで貸し出してもらった、ただの短弓。そして矢が十本。
畑の端の茂みに身を潜める。収穫の終わった麦畑に、茶色い毛玉がいくつも跳ねていた。額の角が朝日を受けて、白くきらりと光る。
「よし、一匹ずつ……」
カイが囁いた、その瞬間だった。
茂みの向こうで、ひときわ大きな毛玉がぴくりと耳を立てる。こちらを見た。
「……あ」
カイと角兎の目が合う。
次の瞬間、カイは剣を抜いて飛び出していた。
「うおおおお! 今だあああ!」
(気配を消すって言ってたよな!?)
「この個体の言動の一致率は、極めて低いようです」
カイの叫び声に、畑じゅうの角兎が一斉に顔を上げた。
五匹どころではない。
十。十五。二十。
麦の切り株の間から、次々と茶色い頭が現れる。どうやら畑の下に巨大な巣穴があったらしい。
「ちょ、多くね!?」
カイが立ち止まった時にはもう遅かった。角兎の群れが一斉にカイめがけて跳びかかる。
アルトは短弓に矢をつがえた。
弦を引き絞る。狙いをつける。
――肘が下がってる。何回言わせんの。
放った。
矢は角兎の頭上を遥かに越え、遠くの案山子の帽子を射抜いた。
「……」
「……」
「我が君」
(言うな)
「弓は、本当に、下手ですね」
(言うなって言っただろ!)
二本目。地面に刺さる。三本目。カイの足元をかすめる。
「アルトぉ! 俺を狙ってんのか!?」
「違う!」
駄目だ。このままではカイが角兎に埋もれる。
「提案があります。風の理を微調整し、角兎の着地点の足元にだけ小さな旋風を起こします。見た目は、ただの突風です」
(目立たないか)
「突風は自然現象です」
(やれ)
アルトは四本目の矢をつがえ、適当に放った。同時に、指先にほんのわずかな魔力を込める。
畑に風が吹いた。
カイに跳びかかろうとしていた角兎たちの足元で、小さなつむじ風がくるりと巻く。着地しようとした角兎が次々にころんと転がった。
「うおっ!?」
カイが目を丸くする。目の前に、腹を見せて転がる角兎が三匹。
「今だ、カイ!」
「お、おう!」
剣が振り下ろされる。一匹、二匹。
また風が吹く。また角兎が転がる。カイが斬る。
アルトはそのたびに、それらしく矢を放った。一本も当たらなかったが誰も気にしていない。少なくともカイは。
◇
最後の一匹はカイの足元で震えていた。
風に転がされ、腹を見せたまま起き上がれずにいる。まだ小さい。額の角も、親指ほどの長さしかない。
カイの剣が振り上げられたまま止まった。
「……カイ?」
「いや、なんか。こいつ、ちっせえなと思って」
小さな角兎がぴいと鳴く。
しばらくそれを見下ろしてから、カイは剣を下ろした。
「依頼、五匹だもんな。もう十分だろ」
角兎はくるりと起き上がり、一目散に巣穴へ逃げこんでいく。
「甘いって、先輩たちには言われるんだけどさ」
カイはばつが悪そうに頭を掻いた。
「我が君。あの個体は、効率よりも感情を優先する傾向があります」
(ああ。知ってる)
「我が君と同じ傾向です」
(……うるさい)
昼前には畑の上に十二匹の角兎が並んでいた。
残りは巣穴の奥へ逃げこみ、もう顔を出さない。
「はあ……はあ……やった……」
カイが大の字に寝転がる。服は泥まみれで、頬に角でつけられた浅い傷がある。
「すげえ、十二匹だぞ! 依頼の倍以上!」
「お前が飛び出したせいで、死にかけたけどな」
「いやあ、今日は風が強くてよかったな! あの突風なかったら、俺やばかったわ!」
あっはっはと笑うカイ。
(バレてないな)
「バレていません。この個体の観察力は、我が君の弓の命中率と同程度です」
(どっちも低いってことか)
「はい」
アルトは案山子のほうを見た。帽子に、矢が一本刺さったまま揺れている。
マーサが包んでくれたパンを取り出す。カイが体を起こし、二人で畑の縁に並んで座った。
パンはすっかり冷めていた。それでも、噛むと小麦の甘さがじわりと広がる。
「なあ、アルト」
「なんだ」
「お前、弓下手だな」
「……知ってる」
「俺も剣、下手なんだ」
カイは頬の傷を指でこすり、空を見上げた。
「親父に教わる前に、親父死んじまったからさ。全部見よう見まね。ギルドの先輩には、そのうち死ぬぞって言われる」
軽い口調。けれど、パンを握る手に力がこもっていた。
「だからさ、一人でやるより二人のほうがいいって思ったんだ。下手な奴同士でも、二人ならなんとかなるだろ」
風が吹いた。今度は本物の風だ。刈り取られた麦畑の上を、乾いた草の匂いが流れていく。
「……そうかもな」
アルトはそう答えた。
自分でも、少し驚くほど自然に出てきた言葉だった。
「よし、決めた!」
カイが勢いよく立ち上がる。
「今度、ミナに会ってくれよ! あいつ、友達いねえんだ。外にあんまり出られないからさ。エルフの冒険者が来たって言ったら、絶対喜ぶ!」
「いや、俺は」
「決まりな!」
また遮られた。
「この個体との会話において、我が君の『いや、俺は』の成功率は現在零パーセントです」
(知ってるよ)
畑の脇の街道を、三人の冒険者が通りかかったのはそのときだった。朝、ギルドでカイをからかっていた三人組だ。
並んだ角兎の山を見て、足を止める。
「……十二匹? 新人二人でか?」
「巣穴がでかくてさ! 風が強かったから助かったんだ!」
カイが胸を張る。三人組の真ん中の男が何か言いかけて口を閉じた。仲間の二人が気まずそうに目を逸らす。
カイはそれに気づいていない。気づかないまま、満面の笑みで角兎の数を数え直している。
「我が君。あの三名の表情筋の変化を記録しました」
(いらない記録だな、それ)
「我が君の口角も上がっています」
(……それも記録したのか)
「はい」
畑の持ち主は腰の曲がった老夫婦だった。
十二匹の角兎を見せると、二人は目を丸くし、それから何度も頭を下げる。
「ありがたい、ありがたい。今年は兎にやられて、冬越しの麦がほとんど残らんかと思っとった」
「依頼の報酬はギルドから出ますんで!」
「いやいや、それとは別に」
お婆さんが前掛けのポケットから、赤い実をふたつ取り出した。
「うちの裏の木で採れた林檎じゃ。小さいが、甘いよ」
手のひらに乗せられた、小さな赤い林檎。
一瞬、息が止まった。
黒い皮。銀の筋。舌の上で溶ける甘さと、そのあとの灼熱。
違う。これはただの林檎だ。
「どうした、坊や。林檎は嫌いかい」
「……いえ。好きです」
かじる。しゃくりと、瑞々しい音がした。甘酸っぱい果汁が口の中に広がる。
痛みは来ない。
「うめえ! 婆ちゃん、これうめえよ!」
隣でカイが大声を上げる。お婆さんが嬉しそうに目を細めた。
「我が君。心拍数が一時的に上昇しましたが、正常値に戻りました」
(……大丈夫だ。ちょっと、思い出しただけ)
「了解しました」
林檎を芯まで食べきって、アルトは苦笑した。
どこまでも青い空。その下で、背中のエルナの弓が、かすかに軋んだ気がした。




