第七話 月光草
夜明け前のギルドは昨日とは別の場所のように静かだった。
酒場の長テーブルには椅子が上げられ、床には夜のうちにこぼれた麦酒の匂いがかすかに残っている。カウンターの奥でランプがひとつだけ灯り、ミレイユがあくびを噛み殺しながら帳簿をめくっていた。
「あれ、アルトさん? 早いですね!」
「おはようございます。依頼を受けたくて」
「新人さんでこの時間に来る人、初めて見ました。えらい!」
褒められる理由がカイから逃げるためだとは、さすがに言えない。
ミレイユが壁の掲示板を指さした。羊皮紙が何十枚も鋲で留められ、ランクごとに区切られている。
「Fランクの依頼はこの一番左の列です。薬草採取、町の雑用、荷運び、それから角兎の駆除。最初は薬草採取がおすすめですよ。危険が少ないので」
視線を走らせる。
【依頼】月光草の採取 十束
【場所】東の森の外縁部
【報酬】銅貨八十枚
【備考】根を傷つけないこと。根が傷んだものは買い取り不可
「月光草って、どんな草ですか」
「えっと、葉っぱの裏が銀色に光る草です。夜になると少し光るから月光草。傷薬の材料になるんですよ。東の森の入口あたりなら、探せば見つかります。十束集めるのに、新人さんだとまる一日くらいかかるかな」
「我が君の故郷の森にも、同種の植物がありました。リーネ様が薬に使っていたものと、構造がほぼ一致します」
リーネ婆さん。薬草に詳しかった、あの人。
(これにする)
「これ、お願いします」
「はい! 月光草の採取、受注しました。お気をつけて!」
◇
東門を出ると、トマスが門の脇で湯気の立つ茶をすすっていた。
「おう、坊主。もう仕事か」
「薬草採取です」
「感心だねえ。森の入口までなら魔物もほとんど出ねえが、奥には入るなよ。最近、東の森がちと騒がしいって話だ」
「騒がしい?」
「さあな。猟師連中が、獣の数が減ったって言ってるだけさ。まあ気をつけな」
ひらひらと手を振るトマスに頭を下げて、荒野の端に沿って北東へ歩く。
半刻ほどで、緑が見えてきた。
東の森。荒野の際から唐突に始まる、深い緑の帯。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
湿った土の匂い。苔の匂い。朝露を含んだ葉がひんやりと頬に触れる。
頭上で小鳥が鳴き交わし、木漏れ日が地面にまだら模様を描いている。
足が止まった。
似ている。シルヴェールの森と、あまりにも。
木の種類は少し違う。それでも、この匂いと音と、肌に触れる空気の重さ。五十二年間、毎日吸いこんできたものと同じだった。
「我が君」
(……大丈夫だ)
手近な木の幹に、そっと手のひらを当ててみる。樹皮のざらつきと、その下を流れる水の気配。
「視界を切り替えますか」
(頼む)
世界が変わる。
木の幹に、青白い文字列が流れていた。根から水を吸い上げる式。葉で光を受け止める式。
何百年もかけて少しずつ書き足されてきた、成長の記録。焚き火の燃えかすとは比べものにならないほど複雑で、静かで、生きている。
(……きれいだな)
「同意します。生命の理は、私が見てきたどの式よりも洗練されています」
しばらくのあいだ、アルトはそうして木の文字列を眺めていた。
◇
「では、採取を開始します。月光草の位置を表示します」
視界に、青い点がぽつぽつと浮かんだ。
ひとつ。ふたつ。十。二十。
五十。百。
(……多くないか)
「半径三百歩以内の月光草の全個体です。三百十二株あります」
足元から森の奥まで、青い点が星空のように散らばっている。
「根の状態も解析済みです。最も効率的な採取順を表示します」
点と点が青い線で繋がり、一筆書きの経路ができあがった。
(さすがだな)
経路に沿って歩き、しゃがみ、月光草の根元を探る。NOAが示す土の柔らかい場所に指を差し入れ、根を包むように持ち上げる。
リーネ婆さんに子供の頃に教わったやり方だ。土ごと掘って、根の先を切らないように。
するりと抜けた。白く細い根が一本も切れずに、銀色の葉の下で揺れている。
「完璧です」
次。その次。指が勝手に動く。体が覚えていたらしい。
気づけば、太陽が真上に来ていた。
背負い袋がずっしりと重い。
(何束になった)
「九十二束です」
手が止まった。
(……依頼は十束だぞ)
「はい。九倍以上です」
アルトは背負い袋を下ろし、中を覗きこんだ。銀色の葉がぎっしりと詰まっている。新人がまる一日かけて十束の仕事を、半日で九十二束。
(これ、持って帰ったらどうなる)
「昨日の鱗と同様の事態が予想されます。第一の方針に反します」
(だよな)
ため息をつく。
どうするか考えて、アルトは顔を上げた。
森が静かに息をしている。木漏れ日の中で、残った月光草が銀色の葉を揺らしていた。
――森から貰うときは必要な分だけ。残りは森に返すんだよ。
リーネ婆さんの声だった。しわがれていて、少し甘い匂いのする声。
(……返すか)
「売却すれば、かなりの収入になりますが」
(いいんだ。森から貰いすぎた)
抜いた場所に一株ずつ戻していく。土を掘り、根を広げ、上から優しく土をかける。NOAの理の目で見ると、戻した株の根が少しずつ土の文字列と繋がり直していくのが分かった。
「根の定着を確認しています。九割以上が問題なく根づく見込みです」
(残りの一割は)
「根の再接続を補助しましょうか」
(頼めるか)
「可能です。……我が君は、時々、合理的ではない選択をなさいますね」
(嫌か)
「いいえ。記録しておきます」
結局、手元には二十束を残した。依頼の倍。新人にしては多すぎるが運が良かったで通せる範囲だと、NOAと二人で決めた。
◇
帰ろうとしたときだ。
「警告。左手前方、四十歩。獣が一体、接近中」
茂みががさりと揺れた。
現れたのは灰色の毛並みの狼だった。普通の狼より一回り大きい。額に、小さな黒い結晶のようなものが埋まっている。
「森狼の魔物化個体です。単独行動。空腹状態と推定します」
狼は低く唸り、牙を剥いた。涎が地面に落ちる。
周りに人の気配はない。
(見られてないな)
「半径五百歩以内に人間はいません」
(なら、少しだけ)
右手を軽く持ち上げる。狼が地を蹴った。
NOAが組んだ式が走る。狼の足元の土がほんのわずかに柔らかくなった。踏みこんだ前脚がずぶりと沈み、勢いのまま狼は前のめりに転がる。
そこへ、細く絞った風の刃がひとつ。
狼は二度と起き上がらなかった。
「『沈む土』と『細い風』の組み合わせ。関数として保存しますか」
(名前は『落とし穴』で)
「三十点」
(前より下がってるじゃないか)
「工夫が見られません」
狼の亡骸に近づき、額の結晶を確かめる。
「魔石です。魔物の体内で魔力が凝固したもの。ギルドで買い取ってもらえる可能性があります」
(これは持って帰らない。新人が一人で森狼を倒したら、また目立つ)
「賢明です」
狼を埋めようと地面を見回して、アルトは眉をひそめた。
足跡だ。
狼の足跡ではない。もっと小さな、鹿や猪や兎の足跡。それがおびただしい数、森の奥から西へ、荒野の方角へ向かって続いている。
まるで、何かから逃げるように。
(トマスさんが言ってたな。獣の数が減ってるって)
「足跡の向きは、すべて東から西です。森の奥で何かが起きている可能性があります」
足跡を遡るように、少しだけ森の奥へ進んでみた。
百歩ほど行ったところで、木々が途切れる。
小さな空き地だった。草が円形に焼け焦げている。その中央の土に、何かが刻まれていた。
幾何学的な線。八つの角を持つ図形の一部分。
「視界を切り替えます」
理の層で見た瞬間、背筋が冷たくなった。
焦げた土に、まだかすかに式が残っている。青白い文字列とは違う。乾いた、硬い、星の光のような白い文字。
あの朝、里の結界を割った神官の詠唱。あれと同じ匂いがした。
「……一致率、六十一パーセント。断定はできません。ですが、襲撃者たちの術式に類似しています」
(ここに、あいつらの仲間が来たってことか)
「痕跡の経過時間は、推定で十日から二十日。現在、周辺に人の気配はありません」
アルトはしばらく、その焼け焦げた円を見下ろしていた。
風が吹く。焦げた草の匂いがあの朝の匂いと重なる。
「我が君。日が傾きはじめています。戻りましょう」
(……ああ)
足で土をかけ、刻まれた線を消した。なぜそうしたのか、自分でもよく分からない。
帰り道、森の出口で振り返る。
里に帰ったような気がしたのはほんの少し前のことだった。今はもう、そうは思えない。
◇
東門をくぐると、トマスがまだ門の脇に立っていた。
「おう坊主、無事だったか。ずいぶん真剣な顔してるな」
言うべきか、迷った。
あの焼け跡のことを話せば、誰かが調べに行くかもしれない。それが神聖星国の者たちを刺激することになるかもしれない。
けれど黙っていれば、何も知らない猟師がまたあの森に入る。
「トマスさん。森の奥のほうに、草が丸く焼けた跡がありました。獣の足跡も、全部西に向かって逃げてて」
トマスの顔から笑みが消えた。
「……丸く、か」
「はい。誰かが焚き火をした跡、ってふうでもなかったです」
「そうか。ありがとよ、坊主。ギルドの連中に伝えとく」
トマスは髭を撫で、東の森の方角をじっと見つめる。
「四十年も門番やってるとな、こういう話が増える年ってのがあるんだよ。大抵、ろくなことにならねえ」
「判断は妥当でした。秘匿するより、町の警戒を高めるほうが我が君の安全に寄与します」
(そういう計算で言ったわけじゃない)
「承知しています。記録しておきます」
夕方のギルドは朝とは打って変わって賑わっていた。カウンターに並ぶ冒険者たちの列に加わり、順番が来たところで背負い袋を開ける。
「えっと、二十束あります」
「二十!?」
ミレイユの声が裏返った。数人の冒険者が振り返る。
「新人さんで二十束って……あ、ちょっと待ってください」
ミレイユが月光草を一束手に取り、根元をじっと見つめる。それから二束目、三束目。顔つきが少しずつ変わっていく。
「……根が、一本も切れてない」
「はい。そう書いてあったので」
「いや、そうなんですけど。普通はどうしても何本か切れちゃうんですよ。熟練の薬師さんでも全部はなかなか……」
(NOA)
「想定より注目されています。根の状態まで評価されるとは予測していませんでした」
(お前、見積もりミス二回目だぞ)
「申し訳ありません。この町の評価基準を学習中です」
ミレイユは全部の束を確かめ終えると、ぱっと顔を上げた。
「すごいです、アルトさん! 全部特級品です! 報酬、上乗せしますね!」
「え、いや」
「特級品の規定ですから! 銅貨八十枚の依頼が十束分。それと超過の十束は買い取りで、特級の値段だから……」
ミレイユが指を折って数える。結局、渡されたのは銀貨三枚と銅貨四十枚だった。宿代三泊分以上。
「地道に、自然な速度で、少しずつ。そう言ってませんでしたっけ」
(言ったのはお前だ)
「訂正します。私はそう言いました」
ギルドの扉がばあんと勢いよく開いたのはそのときだった。
「アルトぉぉぉ!」
入口に立っていたのは肩で息をする黒髪の少年。額に汗を浮かべ、目を吊り上げている。
「お前、置いてったな! 朝一番に迎えに行ったら、女将さんが『とっくに出てったよ』って! 俺、門の前で昼まで待ってたんだぞ!」
酒場の冒険者たちが一斉にこちらを見た。
ミレイユが口元を押さえて肩を震わせている。
「接触まで、残り三歩。回避経路は存在しません」
(……知ってる)
カイはずかずかと近づいてきて、アルトの両肩をがしりと掴んだ。
「明日は! 絶対! 一緒に行くからな!」
近い。声が大きい。そして、なぜか少しも怒っているように見えない目をしていた。




