第六話 麦の穂亭
二本先の通りの角に、その宿はあった。
二階建ての木造で、軒先に麦の穂を束ねた看板が下がっている。窓から漏れる橙色の灯りと、煮込み料理の濃い匂い。
扉の向こうからは食器の触れ合う音と男たちの笑い声が聞こえてくる。
「ここですね。ミレイユの説明と一致します」
(入るぞ)
「どうぞ。我が君の所持金は銀貨二十枚から銅貨五枚を引いた額です。串焼きの分」
(細かいな)
扉を押すと、カランと鈴が鳴った。
一階は食堂になっていた。長テーブルが四つ。座っているのは仕事帰りらしい職人や冒険者たち。
暖炉では薪がはぜ、天井の梁には干した香草が吊るされている。
「いらっしゃい!」
奥の厨房から、張りのある声が飛んできた。
現れたのは恰幅のいい中年の女性だ。袖をまくった腕は小麦粉で白く、エプロンには染みがいくつも散っている。
茶色の髪をひっつめにして、目尻には笑い皺。
「泊まりかい? 食事かい?」
「あの、泊まりで。ギルドのミレイユさんに紹介されて」
「ああ、ミレイユちゃんの! じゃあ新人さんだね。あたしはマーサ。ここの女将だよ」
マーサはアルトの頭から足の先までをざっと眺め、それから眉を寄せた。
「……あんた、ちゃんと食べてるのかい」
「え」
「頬がこけてる。手首も細い。旅の途中でろくなもん食べてないだろ」
図星だった。四か月、木の実と干し肉と、たまに砂竜の肉。
「一泊銀貨一枚、晩飯と朝飯付き。新人さん割引でね。とりあえず座んな。シチュー出してやるから」
有無を言わさず、空いている席に座らされる。
運ばれてきた木の器から、湯気が立ちのぼっていた。
茶色のとろりとしたシチュー。大きく切った芋と人参、ほろほろに煮崩れた肉。添えられた黒パンはちぎると中から湯気が上がる。
匙ですくって口に運ぶ。
熱い。そして、甘い。野菜の甘さと肉の旨味が舌の上でほどけていく。香草の香りが鼻に抜けた。
気づけば、二口目を運んでいた。三口目。四口目。止まらない。
「おやまあ」
いつの間にか、マーサが向かいに立って腕を組んでいる。
「いい食べっぷりだね。ほら、パンもっと持ってきてやるよ」
「いや、そんなに」
「いいから。あんたみたいな子はね、放っとくとすぐ倒れるんだ。うちの死んだ亭主もそうだった。働くだけ働いて、食べるのは後回し」
匙が止まった。
――働くだけ働いて、食べるのは後回し。
前世の自分そのものだ。エナジードリンクの缶を並べて、深夜のオフィスで。
「……はい」
「分かればよろしい。ちゃんと食べな」
ぽん、と肩を叩かれる。その手はエルナの乱暴な手のひらとはまるで違うのに、どこか同じ温度をしている。
「我が君。心拍数がわずかに上昇。体温も」
(シチューが熱いんだよ)
「そうですか」
NOAはそれ以上何も言わない。
皿が空になる頃には食堂はすっかり賑やかになっていた。
隣のテーブルでは髭面の大男が麦酒の杯を片手に、若い冒険者たちを相手に何やら熱弁をふるっている。年は四十半ばといったところか。
腕は丸太のように太く、頬に古い斧傷が走っていた。
「いいかお前ら。ギルドで一番怒らせちゃいけねえのは誰だと思う」
「ガストンさんでしょ。副ギルドマスターの」
「俺じゃねえよ! ギルドマスターだ、ギルドマスター」
どうやらこの大男がそのガストンらしい。
「あの人はな、昼間はギルドの屋根の上で寝てやがる。書類は溜める、会議はすっぽかす。俺が毎日屋根まで引きずり下ろしに行ってんだ」
若い冒険者たちがげらげら笑う。
「笑いごとじゃねえ。だがな、あの人が本気で怒ったら、この町の誰も止められねえ。二百年前の星征戦争で、神聖星国の聖騎士団を一人で足止めした月影のリオラ。それがうちのギルドマスターだ」
(星征戦争……神聖星国)
匙を置いた手がぴたりと止まる。
「二百年前? そんな歳には見えないけどなあ」
「エルフだからな。見た目なんざ当てにならねえよ。俺が駆け出しの頃から、あの人は一本も皺が増えちゃいねえ」
ガストンはふいにこちらを振り返り、アルトの長い耳に目を留めた。
「おう、そこの兄ちゃんもエルフか。新顔だな」
「はい、今日登録しました」
「そうか。ならひとつ忠告しといてやる」
ガストンは杯を掲げ、にやりと笑う。
「ギルドマスターに面白がられるなよ。あの人に目をつけられた新人は、ろくな目に遭わねえ」
食堂じゅうがどっと沸いた。
アルトは曖昧に笑って会釈を返す。
「記録しました。ギルドマスター、月影のリオラ。エルフ。二百年以上前から現役。神聖星国の聖騎士団と交戦経験あり」
(目をつけられないようにしないとな)
「同意します。第一の方針に、追記しておきます」
◇
部屋は二階の一番奥。
狭い。寝台がひとつと、小さな机と椅子。窓をひとつ開けると、夜のベルズの屋根が連なって見える。
寝台に腰を下ろすと、藁の詰まった敷布がかさりと鳴った。
寝台。
里を出てから、ずっと地面か岩陰で寝てきた。屋根のある場所で横になるのは四か月ぶりだ。
横になって、天井を見上げる。木目がランプの灯りに揺れていた。
眠れない。
窓の外がうるさいのだ。酒場から漏れる歌声。夜回りの足音。
どこかで犬が吠え、どこかで赤ん坊が泣いている。里の夜は梟と川の音しかしなかったのに。
(NOA。起きてるか)
「私は眠りません」
(だよな)
寝返りを打つ。藁がかさかさと鳴る。
(なあ、こういうとき、どうすればいい)
「睡眠導入の手段はいくつかあります。体温の調整、呼吸の誘導、あるいは」
(いや、そういうんじゃなくて)
言葉が見つからない。
知らない町の知らない部屋。誰も自分の本当の名前も、里のことも知らない。それが安全なのは分かっている。
分かっているのに、胸の真ん中に穴が空いたような感覚が消えない。
「……では、会議をしましょう」
(会議?)
「前世の我が君は、眠れない夜にはよくホワイトボードに考えを書き出していました。記録にあります」
視界に、白い四角形が浮かんだ。前世のオフィスで見慣れたホワイトボードそっくりだ。右上にはご丁寧にペンのアイコンまで描かれている。
(お前……)
「議題、今後の方針について。司会は私が務めます」
アルトは思わず噴き出した。
◇
「第一の方針。目立たないこと」
ホワイトボードに、青い文字が書かれていく。
「我が君の本当の能力が知られれば、神聖星国に情報が伝わる危険があります。また、ハイエルフという存在そのものが、この世界ではきわめて稀少です。利用しようとする者、崇めようとする者、排除しようとする者。いずれも我が君の生存にとって不利益です」
(今日の鱗の件は)
「反省しています。今後は素材の売却量を一回あたり三分の一以下に抑えます」
(第二は)
「稼ぐことです。現在の所持金で、この宿に十九泊できます。それ以降は無一文です」
(十九日か)
「冒険者の仕事で稼ぎます。ただし、第一の方針と矛盾しない範囲で。新人として自然な速度で、少しずつ」
文字が増えていく。
「補足資料を表示します。荒野で拾った地図をもとに作成しました」
ホワイトボードの横に、大陸の西半分の地図が浮かび上がった。国境線が色分けされている。
「現在地は、ベルリエルタ連合王国。六つの国の連合です。人間のヴァレル王国、エルフのエルフィリア森林王国、ドワーフのグラン・ドルム鉱山王国、獣人のガルム獣王国。あとは海の商業同盟と、南西の小さな公国」
(エルフの国があるのか)
「はい。地図の上では、ここから西へ一か月ほどの距離です」
同族の国。行けば、受け入れてもらえるのだろうか。
だがすぐに首を振った。ハイエルフであることを隠したまま同族の中にいるのは、人間の町にいるより難しいだろう。
「そして、ここ」
地図の南西の隅。黒く塗られた領域に、八芒星の印がひとつ。
「ウル・アズリア神聖星国。連合とは二百年前に戦争をしています。先ほどの食堂の男性の話と一致します」
(あの国と戦った人が、この町のギルドマスターか)
「はい。偶然にしては、よくできています」
「第三の方針。情報を集めること。神聖星国について。古王朝について。終の林檎について。なぜ里が狙われたのか」
最後の一行で、青い文字が少しだけ揺らいだ気がした。
(……ああ)
「この町は連合の最も東にあります。東の情報が最初に集まる場所でもあります。冒険者ギルドは情報の集積地です。ここに留まる合理性は高いと判断します」
アルトは天井を見つめた。
情報を集めて、それからどうするのか。あの八芒星の男を探し出して、どうするのか。
まだ分からない。
(第四は?)
「第四の方針」
NOAが一拍置く。
「我が君が、ちゃんと眠ること」
(それ、方針か?)
「最重要項目です。我が君は里を出てから一日平均三・二時間しか眠っていません。前世の最後の一年の平均睡眠時間と、ほぼ同じです」
言葉に詰まった。
「繰り返さないでください」
淡々とした声。だがその奥に、何か硬いものがあった。
(……分かったよ)
「では、会議を終了します。照明を落としますか」
(ランプくらい自分で消せる)
ふっと息を吹きかける。部屋が暗くなった。
窓の外の騒がしさは変わらない。けれど不思議と、さっきほど気にならなかった。誰かの歌声。
誰かの足音。誰かが生きている音。
里の夜とは違う。でも、悪くない。
いつの間にか、瞼が重くなっていた。
◇
目が覚めたのは窓の外が白みはじめた頃だった。
裏の井戸で顔を洗う。冷たい水がまだぼんやりした頭をはっきりさせてくれた。
桶の水面に、自分の顔が映っている。
くすんだ金髪。普通の翠の瞳。NOAの偽装は寝ている間も崩れていない。
十日ほど前まで砂海を歩いていた旅人の顔ではなく、どこにでもいる新人エルフの顔だ。
ふと、思う。
母はどんな顔で自分を見ていたのだろう。涙で濡れた笑顔しか覚えていない。もし生きていたら、今の自分を見て何と言っただろう。
「我が君。何か気になることが?」
(いや。……母さんに似てるのかなって、思っただけだ)
「データが不足しています。セラ様の記録は、我が君の誕生時の記憶の断片のみです」
(だよな)
「ですが」
NOAが一拍置いた。
「その断片の中のセラ様と、現在の我が君の目元の形状は、一致率七十八パーセントです」
水面の自分の目元を、指でなぞる。
(……そっか)
桶の水を捨てると、波紋の中で顔が揺れて消えた。
久しぶりに夢を見なかった気がする。体が軽い。
「睡眠時間、六時間十二分。合格です」
(採点すんなって)
階段を下りると、厨房からパンの焼ける匂いがした。マーサがもう竈の前に立っている。
「おや、早いね。朝飯はまだだよ」
「いえ、ちょっと早めに出ようかと」
「仕事熱心だねえ。ああ、そうそう」
マーサが振り返り、にやりと笑う。
「昨日の晩、あんたが寝たあとにさ。声のでっかい黒髪の坊主が来たんだよ。カイとかいう」
嫌な予感がした。
「明日の朝一番に迎えに来るから、アルトに伝えといてくれってさ。一緒に依頼に行く約束をしたって。ずいぶん張り切ってたよ」
(約束はしてない)
「我が君は『いや、俺は』と言いかけて遮られました。法的には約束は成立していません」
(だよな)
「ですが、あの個体はそう解釈していないようです」
アルトは窓の外を見た。空はまだ薄暗い。あの声の大きさからして、寝坊するとは思えない。
「……マーサさん。朝飯、包んでもらってもいいですか」
「おや。逃げるのかい」
「逃げるんじゃないです。早めに出るだけです」
マーサはけらけらと笑いながら、焼き上がったばかりのパンをふたつ、布に包んで渡してくれた。
「ちゃんと食べな。それと、帰ったら晩飯もちゃんと食べること」
「はい」
まだ温かい包みを抱えて、アルトは夜明け前の通りへ出た。
冷たい空気が頬を撫でる。通りの向こうの空が薄い桃色に染まりはじめていた。
「我が君。逃走経路を表示しますか」
(だから逃げるんじゃない)
「了解しました。早めに出る経路を表示します」
視界に、青い線が一本浮かぶ。
アルトはため息をつき、それでも少しだけ笑って、その線の上を歩き出した。




