第五話 辺境ベルズ
城壁が見えたのは渇きの砂海を抜けて九日目の夕方。
灰の荒野の地平線に、灰色の石を積み上げた壁が横たわっている。その向こうから、何本もの煙が立ちのぼっていた。
炊事の煙だ。人がいる。たくさんの人が。
アルトは立ち止まり、しばらくその景色を眺めていた。
「辺境の城壁都市と推定します。規模からみて人口は一万から一万五千」
(でかいな)
「シルヴェールの里の約百五十倍です」
比べる対象がそれしかないのだから仕方がない。それでも、胸がちくりと痛む。
「我が君。入る前に偽装を施します」
(偽装?)
「現在の我が君は、ハイエルフとしての特徴を隠していません。銀の髪と金の輪を持つ瞳。そして覇気です」
(覇気ってなんだ)
「ハイエルフの魔力に含まれる、エルフの魂に作用する波長です。古い文献から推定するに、エルフはハイエルフに本能的な敬意を抱きます。不特定多数のエルフに膝をつかれる事態は避けるべきでしょう」
想像して、アルトは顔をしかめた。確かに嫌だ。
「髪の色と瞳の輪は、光の屈折を操作して見え方を変えます。覇気は私が常時抑えこみます。完全ではありませんが」
(頼む。できるだけ地味に)
「承知しました。最大限、地味にします」
視界の端で、銀の髪がくすんだ金色に変わっていく。前の自分に近い色だ。少しだけ懐かしい。
◇
東門は思ったより小さかった。
荷馬車が一台通れるほどの門に、槍を持った門番が二人。そのうちの一人、白髪交じりの髭を蓄えた老人が、近づいてくるアルトを見て目を丸くする。
「……おい、お前。どっちから来た」
「えっと、東から」
「東ぃ?」
素っ頓狂な声。若い方の門番も槍を持ち直した。
「東ってお前、この先は荒野と砂海しかねえぞ。その向こうは山と森だ。森の向こうから人が来たなんて話、俺は四十年門番やってて聞いたことがねえ」
「森の、奥の方に住んでたので」
嘘ではない。
老人はアルトの頭から足の先までじろじろと眺めた。擦り切れた服。ぼろぼろの背負い袋。長い耳。
「エルフか。その恰好で砂海を一人で越えてきたってのか」
「まあ、なんとか」
「なんとかって……」
老人は呆れたように首を振り、それからふっと表情を緩める。
「まあいい。悪人の目じゃねえ。俺はトマスだ。ようこそ、辺境ベルズへ」
門の向こうから、焼いたパンと家畜と人いきれの混じった匂いが流れてくる。
アルトは一歩、足を踏み入れた。
騒がしい。
それが最初の感想だ。
石畳の大通りに露店が並び、商人たちが声を張り上げている。荷車の車輪が石を叩く音。鍛冶場の槌の音。
どこかで子供が笑い、どこかで犬が吠えていた。
人間がいる。耳の短い、背丈もまちまちな人間たちが、肩を寄せ合うようにして行き交っている。獣の耳を持つ者もいた。
背の低い髭面の男はたぶんドワーフだろう。
里には八十一人しかいなかった。全員の名前と顔と、好きな食べ物まで知っていたのだ。
ここでは誰も自分を知らない。
「我が君。心拍数がわずかに上昇しています」
(大丈夫だ。ちょっと、圧倒されてるだけ)
「それから、空腹です」
言われてみれば、腹が鳴っている。
露店の串焼きから香ばしい煙が上がっていた。値札には「銅貨五枚」の文字。
(……NOA)
「はい」
(俺、金って持ってたっけ)
「所持金は零です。シルヴェールの里には貨幣経済がありませんでした」
アルトは天を仰いだ。
◇
「冒険者ギルドで、魔物の素材を売却するのが最も合理的です」
NOAの提案に従い、大通りの突き当たりにある三階建ての石造りの建物にたどり着く。剣と盾を組み合わせた看板が掲げられていた。
扉を開けると、酒と汗と革の匂いが鼻をつく。
広い一階は酒場を兼ねているらしい。長テーブルで、屈強な男女が昼間から杯を傾けている。奥には木のカウンター。
制服姿の娘たちが書類を捌いていた。
入ってきたアルトに、いくつかの視線が向けられる。値踏みするような目。すぐに興味を失って逸らされる目。
カウンターに近づくと、栗色の髪を二つに結った娘がぱっと顔を上げた。
「いらっしゃいませ! 冒険者ギルド・ベルズ支部へようこそ。ご依頼ですか、それとも登録ですか?」
「えっと、素材の買い取りを」
「はい、買い取りですね! 冒険者証をお願いします」
「……持ってないです」
「あ、未登録の方でしたか。それだと買い取り価格が一割引きになっちゃいますけど、大丈夫ですか?」
大丈夫も何も、一文無しだ。アルトは背負い袋から包みを取り出し、カウンターに置いた。
布をほどく。
中から現れたのは陽の光を受けて砂色に輝く、手のひらほどの鱗。砂竜の背中から剥がした一枚だ。
娘の笑顔が固まった。
「……あの、これ」
「砂海で拾いました」
NOAの指示どおりの台詞。倒したとは言わないこと。それが「地味に」するための方針なのだ。
「拾った……?」
娘は鱗を手に取り、裏返し、光にかざす。顔からみるみる血の気が引いていった。
「これ、砂竜の背鱗ですよね? しかもこの大きさ、成体の。え、拾ったって、死骸から?」
「た、たぶん」
「砂竜の死骸なんて、普通は砂に埋もれてすぐ見つからなくなるんですけど……」
周囲の冒険者たちの視線がちらほらとこちらに集まりはじめる。
(NOA、まずい)
「想定より注目度が高いようです。この素材の市場価値を過小に見積もっていました」
(お前の見積もりミスかよ)
「申し訳ありません。次回から修正します」
「おいミレイユ、どうした?」
隣のカウンターから、声の大きな少年が身を乗り出してきた。
短い黒髪に日に焼けた肌。腰に安物の剣を下げ、手には書きかけの登録用紙。年は十七、八といったところか。
「うわっ、なんだそれ! すげえ、でっけえ鱗!」
「ちょっとカイくん、声が大きい!」
「だってすげえじゃん! お前、これどこで手に入れたんだ?」
少年はアルトのほうへぐいと顔を寄せた。距離が近い。人懐っこい犬のような目をしている。
「砂海で、拾った」
「拾ったぁ? 砂海で? お前一人で砂海越えてきたのか? すげえな! 俺カイ! 今日冒険者登録しに来たんだ。お前は?」
「……アルト」
「アルトか! よろしくな!」
勝手に手を握られ、ぶんぶんと振られる。
「警告。この個体は我が君の個人空間に無許可で侵入しています。排除しますか」
(しなくていい)
「承知しました。記録だけしておきます」
(何を記録するんだ)
結局、鱗はギルドが買い取ることになった。正規の査定は後日という条件付きで、ひとまず手付金として銀貨二十枚。
「それと、アルトさん」
受付の娘、ミレイユがにっこりと笑う。
「この機会に冒険者登録、しちゃいません? 登録すれば買い取りの一割引きもなくなりますし、宿の紹介もできますよ」
「でも」
「ちなみに、カイくんも今日登録なんです。同期ですね!」
「おう! 同期だな!」
カイが親指を立てる。
(NOA)
「冒険者という身分は、この町で身元を保証する最も簡便な手段です。情報収集にも有利です。推奨します」
アルトは小さく息をついた。
「……お願いします」
◇
登録の最後はステータスの測定。
カウンターの奥から運ばれてきたのは拳ほどの大きさの透明な水晶だ。台座に古い刻印が彫られている。
「これに手を置いてください。魔力の量と、だいたいの適性が分かるんです」
(NOA、これは)
「鑑定の式が刻まれています。構造は単純です。測定結果を書き換えます。数値は、新人のエルフとしてごく平均的なものに設定します」
(頼む)
手を置く。
水晶の中で淡い光が揺らめいた。普通なら、ここに本当の数値が浮かび上がるのだろう。だが光はNOAの書き換えた式に従い、ごく控えめに瞬いただけ。
水晶の表面に文字が浮かぶ。
【名前】アルト
【種族】エルフ
【魔力】310
【適性】風(低)
「魔力三百十、風適性の低、と。うん、普通ですね!」
ミレイユが明るく太鼓判を押した。
「エルフの方としてはちょっと少なめですけど、新人さんならこんなものです。じゃあFランクからのスタートですね。頑張りましょう!」
「は、はい」
手渡された冒険者証は薄い木の板に名前とFの文字を焼き付けただけの簡素なもの。
それでも、なぜか少しだけ胸が熱くなる。
この世界で初めて、自分の名前が書かれたものだ。
「俺もFだ! 同じだな、アルト!」
カイが自分の冒険者証を掲げて笑う。
「明日から一緒に依頼行こうぜ! 俺さ、早く稼がなきゃいけねえんだ。妹がいてさ、体が弱くて、薬代がかかるんだよ」
一瞬だけ、カイの声が小さくなった。けれどすぐに、またあの大きな笑顔に戻る。
「だから二人でガンガン稼ごうぜ!」
「いや、俺は」
「決まりな!」
「警告。この個体は我が君の予定に無許可で介入しています」
(……もう好きにさせとけ)
「あ、それとアルトさん。宿はもう決まってます?」
ミレイユが身を乗り出してくる。
「いえ、まだ」
「だったら『麦の穂亭』がおすすめです! ここから二本先の通りの角。女将のマーサさんが面倒見よくて、新人の冒険者さんには一泊銀貨一枚にまけてくれるんですよ。シチューが絶品なんです」
「シチュー……」
「あ、顔が変わった。お腹空いてます?」
図星だった。耳の先が熱くなる。
「それと、ギルドの酒場は朝も開いてるので。朝ごはんならここでも食べられますよ。黒パンと、豆のスープと、あとちょっと苦いお茶」
(苦いお茶?)
なぜか、その言葉が引っかかった。
「どんな、お茶ですか」
「え? えっと、南の方から来る黒い豆を炒って煮出したやつです。苦いから、冒険者さんの間でもあんまり人気ないんですけど」
黒い豆を炒って、煮出す。
心臓がどくんと鳴った。
「心拍数が急上昇しています。我が君、何事ですか」
(……NOA。俺は今、この世界に来て一番の希望を見つけたかもしれない)
「理解できません」
(コーヒーだよ。コーヒーがあるかもしれないんだ)
「その飲料は、前世の我が君の死因の一部です」
(うるさい)
ギルドを出ると、空はすっかり茜色に染まっていた。
さっきの露店で串焼きを一本買う。銅貨五枚。手渡された串は熱く、脂がじゅうじゅうと音を立てている。
かじりつくと、肉汁と塩と、炭の香りが口いっぱいに広がった。
里を出てから、ずっと木の実と干し肉ばかりだった。誰かが作った温かい食べ物を口にするのは四か月ぶりだ。
「我が君?」
(なんでもない。……うまいな、これ)
「栄養価は平均的です。脂質がやや多めですが」
(そういうことじゃないんだよ)
茜色の空の下、アルトは串焼きを最後のひとかけらまで噛みしめた。
◇
ギルドの三階。
窓の外に張り出した屋根の上で、ひとりの女が寝転がっていた。
長い白金の髪を緩く編んで肩に流している。ギルドの制服を着崩し、片膝を立て、夕陽に目を細めていた。
耳は長い。エルフだ。
少し前、下の階から受付の娘の明るい声が聞こえていた。
「はい、Fランクからのスタートですね!」
女は気怠げに身を起こし、屋根の縁から大通りを見下ろす。
露店の前に、新人の姿があった。くすんだ金髪をした、ひょろりとしたエルフの青年。串焼きを一本、やけに大事そうに食べている。
ごく普通の新人だ。
どこにでもいる、田舎から出てきたばかりの。
――なのに。
首筋の産毛がぴりりと逆立った。
三百年を生きた勘が警鐘を鳴らしている。
あの青年の周りの魔力の流れが綺麗すぎる。川の水が岩を避けて流れるような自然な揺らぎが、まるでない。
一本の線で引いたように、全部が整然と最短距離で流れているのだ。
それに、何かがある。分厚い布の向こうから漏れてくる陽の光のような、何かが。
胸の奥がざわついて、理由もなく背筋を伸ばしたくなる。
ずっと昔。まだ故郷の森にいた頃、祖母に連れられて見た古い世界樹の前に立ったときと、同じ感覚だった。
「……ふうん」
女は唇の端を持ち上げる。
ベルズ冒険者ギルド、ギルドマスター。元Sランク冒険者、月影のリオラ。
夕陽の中で、灰青の瞳が楽しげに細められた。
「面白いのが来たわね」




