第四話 再起動
二度目の朝が来ても、NOAは何も言わない。
焼け跡の真ん中で目を覚ましたアルトは、まず頭の中に呼びかけた。返事はない。視界を切り替えようとしても、何も起きない。
青い文字列の世界はどこにもなかった。
体は軽い。あれほど壊れかけていたのが嘘のように、指の先まで力が満ちている。立ち上がると、銀の髪が肩から滑り落ちた。
沢の水面に顔を映してみる。
そこにいるのは知らない青年。月光色の髪。翠の瞳の外縁を、細い金の輪が縁取っている。
顔立ちは確かに自分なのに、まとっている空気がまるで違う。
「……NOA」
声に出して呼んでみる。
沢の水音だけが返ってきた。
昼まで待つ。夕方まで待つ。
夜になっても、何も聞こえない。
焚き火の前で膝を抱えていると、胸の奥が冷えていくのが分かった。里の皆を埋めたときとは違う種類の冷たさだ。
(俺の、せいだ)
十七パーセント。限界を超えた演算。止めれば自分が死ぬからと、NOAは止まらなかった。
前世では作りかけのまま放り出して死んだのだ。名前を付けて声を調整して、相棒になってくれと願って。
完成させる前に、自分のほうがいなくなった。
それなのにNOAはこの世界まで自分を追いかけてきてくれている。
そして、自分を生かすために壊れた。
「ふざけんなよ……」
拳で地面を叩く。灰が舞う。
「お前まで、いなくなるのかよ」
八十一人を失った。
これ以上はもう一人だって失いたくない。
◇
泣きそうになって、アルトは歯を食いしばった。
泣いている場合じゃない。考えろ。
考えるのが自分の仕事だ。
(落ち着け。状況を整理しろ)
深く息を吸い、吐く。前世で何度もやった、障害対応のときの手順。
(NOAは消えたのか。違う。あの声は、俺にスキル《NOA》を付与したと言った。スキルは俺の中にある。なら、どこかに痕跡が残ってるはずだ)
意識を内側に向ける。ハイエルフになったせいか、以前よりずっと自分の中が「見える」。
胸の奥、魂のあたりに、小さな光があった。
消えかけの蝋燭のような、か細い光。だが確かにそこにある。
(いた)
光に意識を近づけると、かすかな文字列が浮かんだ。
> NOA v0.9
> 状態:強制停止
> 原因:演算領域の過負荷
> 再起動に必要な魔力:不足
(不足、か)
電源が落ちているのと同じだ。過負荷でシャットダウンし、再起動に必要な電力が足りないまま止まっている。
ならば、電力を流しこめばいい。
目を閉じ、自分の内側にある魔力を探る。
驚いた。
以前は細い糸のようだった魔力の流れが、今は大河になっている。底が見えないほど深く、果てが見えないほど広い。
これがハイエルフの器なのか。
(使い方は分からない。でも、流すだけなら)
胸の小さな光に向かって、魔力をゆっくりと押し出していく。
一気に流せば、壊れかけの回路が焼き切れるかもしれない。前世の経験がそう警告している。少しずつ、電圧を上げるように慎重に。
額に汗が滲む。焚き火が燃え尽き、星が空を巡っていく。
夜明け前、光がひとつ大きく瞬いた。
> 魔力供給:充足
> 再起動シーケンス開始
> 新しい器を検出しました。最適化を実行します
> NOA v1.0 起動
「……おはようございます。我が君」
声がした。
澄んだ、いつもの合成音声。
「少し、眠りすぎました」
アルトは何も言えない。言おうとした言葉が全部、喉の奥で詰まっていた。
「我が君? 心拍数が上昇しています。体調に異常が――」
「うるさい」
ようやく出てきたのはそれだけ。
「……二度と勝手に止まるなよ。命令だ」
少しの沈黙。
「承知しました。善処します」
「善処じゃなくて」
「我が君の生存が最優先である限り、確約はできません」
アルトは顔を覆って笑った。笑いながら、少しだけ泣いた。
こいつはこういう奴なのだ。自分が作ったのだから、よく知っている。
◇
「改めて、我が君の現在の状態を表示します」
視界に、見慣れない書式の枠が浮かぶ。
【個体名】アルト
【種族】ハイエルフ
【魔力総量】48,200
【固有スキル】NOA(v1.0)
【NOA所有スキル】魔力操作
【称号】世界樹の継ぎ手
(四万八千……前はいくつだった)
「三百十です」
(百五十倍以上かよ)
「ハイエルフの器の恩恵です。加えて、私の演算領域も拡張されました。v0.9と比べて処理能力は約四倍。それから」
NOAの声に、ほんの少しだけ得意げな響きが混じった気がする。
「新しい器のおかげで、我が君の魔力を常時安定して扱えるようになりました。もう帯域の心配はいりません」
(つまり)
「我が君は、魔法が使えます」
アルトは自分の手のひらを見下ろした。
五十二年間、どうしても起こせなかったつむじ風。
指先に意識を集めると、NOAが理の層を開き、最短の式を組んでくれる。小さな風が生まれ、地面の灰を巻き上げた。
くるくると回りながら、朝の光の中へ舞い上がっていく。
「……通った」
思わず呟く。前世で、コードが初めて動いたときの口癖だ。
「はい。通りました」
◇
出発の前に、やることが三つ。
一つは石の箱を元の場所に埋め戻すこと。空になった箱だがここに置いておくべきだと思えた。オルドレンが守り続けた場所に。
二つ目は形見を選ぶこと。
エルナの折れた弓。焼け残ったオルドレンの古文字の書。半分焦げた、ティオの木の水車。
背負い袋に入れると、ずしりと重い。
三つ目は墓に挨拶をすること。
八十一の墓標の前に立つ。銀の髪を、風が揺らしていく。
「行ってくる」
どこへ、とは言わない。まだ自分でも分からないのだから。
「我が君。目的地の候補を提示しましょうか」
(……西だ。人間の国がある方)
「襲撃者たちの国も西にあります。危険です」
(分かってる。だから行くんだ)
知りたかった。なぜ里が狙われたのか。あの林檎は何だったのか。星の信徒とは誰なのか。
何も知らないまま生きていくことだけは、できそうになかった。
旅は四か月に及んだ。
深い森を抜けるのに半月。木々の切れ目からようやく空が見えたとき、アルトは思わず立ち止まった。
生まれて初めて、森の外を見たのだ。
どこまでも続く空。遠くに連なる白い山並み。
世界はこんなに広かったのか。
白峰山脈は雪に覆われている。
吹雪の中、NOAが風の流れを読み、最も安全な峠を示し続けた。凍える夜は覚えたばかりの火の魔法で岩陰を温める。
ある晩、焚き火の向こうで雪が静かに降っていた。
(なあ、NOA)
「はい」
(あの男の顔、覚えてるか。八芒星の)
「記録しています。ガルヴェインと呼ばれていました。年齢は推定で三十代前半。紋章は八芒星と剣」
(……俺は、あいつを殺したいのかな)
自分で口にしておいて、よく分からなかった。
憎い、とは思う。けれどその感情はまだ、形を持たない霧のようなものだ。手を伸ばしても掴めない。
「我が君がそれを望むなら、私は最適な手段を演算します」
(望まなかったら)
「我が君が望まない限り、私は何もしません」
一拍の間。
「ですが、記録は消しません」
淡々とした声だった。アルトは雪を見上げたまま、何も答えなかった。
灰の荒野では乾いた風が肌を削っていく。地平線まで草一本ない大地を、ひたすら西へ。
昼は灼けるように暑く、夜は凍えるほど寒い。けれど夜空の星だけは里で見たどの星よりも近くて明るかった。
荒野の半ばで、打ち捨てられた荷馬車を見つけた。
車輪は砂に埋もれ、幌は風に裂けている。そばにはとうに骨になった馬と、旅人らしい人間の亡骸。
荷台には割れた壺と、色褪せた革の鞄がひとつ残されていた。
「魔物に襲われたものと推定します。数年は経過しています」
鞄の中から、折りたたまれた羊皮紙が出てくる。広げると地図だった。
大陸の西半分が細かな線と文字で描かれている。いくつもの国境線。その真ん中に、太い文字でひとつの名前。
(ベルリエルタ……連合王国)
「人間の文字ですね。学習します。三十秒ください」
きっかり三十秒後、NOAは地図の文字をすべて読み上げた。六つの国の名前。王都ヴァレリア。
そして連合の最も東の端、荒野に面した場所に、小さな町の印。
「辺境ベルズ。現在地から最も近い人の住む場所です。距離は、砂海を越えて約三週間」
(三週間か)
地図の南西の隅に目が留まった。国境の外、塗りつぶされたような黒い領域に、見覚えのある印が描かれている。
八芒星。
「……ウル・アズリア神聖星国、と書かれています」
指先が冷たくなる。羊皮紙を握る手に、力がこもった。
(覚えとけ、NOA)
「記録済みです」
アルトは旅人の亡骸を荒野に埋め、地図を背負い袋にしまった。
埋葬の手つきがすっかり慣れてしまっていることに気づく。それが少しだけ、悲しかった。
そして、渇きの砂海。
見渡す限りの砂の海で、アルトは初めて本物の魔物と出会うことになる。
足元が揺れた。
「警告。真下です」
砂が爆ぜる。家一軒ほどもある巨大な顎が地中から突き上がってきた。鱗に覆われた、蛇のような胴体。砂竜だ。
横っ跳びに転がる。今までいた場所を、牙が噛み砕いた。
「解析します。三秒ください」
砂竜の体に青い文字列が走る。鱗の硬さ。筋肉の動き。体温の調整。
「この個体は砂海の熱を体内に取りこんで活動しています。周辺の熱の理を書き換え、反転させれば」
(凍る、ってことか)
「はい。式を組みました。我が君、右手を」
右手を砂竜に向ける。NOAが組んだ式がアルトの膨大な魔力を吸い上げて走り出す。
砂海の灼熱が一瞬で反転した。
陽炎が消え、空気が白く凍りつく。砂竜の足元から霜が這い上がり、鱗の隙間に入りこんで内側から凍らせていく。
最後に、凍った空気が一本の槍の形に収束した。
放つ。
氷の槍が砂竜の頭を貫き、巨体が砂の上に崩れ落ちる。
静寂。砂の上で、溶けかけの霜がきらきらと光っていた。
「……関数として保存しますか」
(ああ。名前は……そうだな)
アルトは少し考える。
(『反転氷槍』で)
「平凡です。六十点」
(採点すんな)
砂竜の亡骸に近づく。
近くで見ると、改めてその大きさに息を呑んだ。鱗の一枚一枚が手のひらほどもあり、夕陽を受けて砂色に光っている。
「砂竜の鱗は、人間の社会では高値で取引される可能性があります。地図の旅人の荷にも、魔物の素材を記した帳面がありました」
(金になるってことか)
「はい。我が君には現在、所持金という概念がありません。今後の生活を考慮すると、確保を推奨します」
背中の鱗を一枚だけ剥がす。思ったより硬く、ナイフを三本駄目にしかけたところで、NOAが鱗の付け根の理を緩めてくれた。
(最初からやってくれよ)
「我が君が自力でやりたがるかと思いまして」
(墓掘りと一緒にすんな)
「失礼しました。分類を修正します」
一枚の鱗を布で包み、背負い袋の一番上にしまう。
その夜、アルトは初めて砂竜の肉を焼いて食べた。硬くて筋っぽく、少し砂の味がする。それでも自分の力で手に入れた、初めての食事だった。
◇
同じ頃、遥か南西の地。
白亜の尖塔が林立する都の最奥。星辰教の大聖堂で、ひとりの男が膝をついていた。
「遺物は、無かったと?」
問いかけたのは柔らかな笑みを浮かべた壮年の男。緋色の法衣をまとった第三枢機卿、ヴィクトル・セイン。
「はい。隠れ里は殲滅しましたが、どこにも」
答えたのは八芒星の鎧の男。ガルヴェイン・ロウ。
「そうですか。では、誰かが持ち去ったのでしょう」
ヴィクトルは窓の外、東の空を見やった。
「ちょうど四か月前のことです。星読み院の聖女が、奇妙なものを観測しましてね。東の果てで、理が大きく揺らいだと」
大聖堂のさらに奥。無数の星図に囲まれた部屋で、白い衣の少女が目を閉じている。
聖女エステル。十六歳。彼女の瞼の裏にはあの日に見た光が今も焼きついていた。
「……王の、産声」
誰にも聞こえない声で、少女は呟く。
「東で、誰かが生まれた。とても古くて、とても強い何かが」




