第三話 終の林檎
石の箱は冷たい。
夜の空気より、雪解けの沢の水より冷たかった。指先から骨まで染みこんでくるような冷たさ。
アルトは箱を焼け跡の真ん中に据え、その前に胡坐をかいていた。そばには小さな焚き火。夜の森からは梟の声だけが聞こえてくる。
「解析を開始して三時間が経過しました」
NOAの声に、かすかな疲労のようなものが滲んでいる。AIが疲れるはずはない。たぶん、アルトの気のせいだろう。
(どうだ)
「箱そのものは単純な封印です。問題は中身です」
視界の中で、箱の表面に青い文字列が走っていく。その奥ではあの黒い塊が脈打っていた。
「中に収められているのは植物の果実です。ですが果実を構成する理の大半が、何重にも暗号化されています。さらにその外側に、ハイエルフの血統以外を検出した瞬間に起動する攻撃的な式が巻きついています」
(呪い、ってことか)
「この世界の言葉ではそう呼ぶのでしょう。私の分類では、暗号化と自爆型のトラップを組み合わせた保護機構です」
アルトは顎に手を当てた。前世で何度も見てきた構造だ。中身を守るために、鍵を持たない者が触れたら全部を壊す。
(中身を守るための保護、ってことは。作った奴は中身を誰かに渡したかったんだな。正しい鍵を持った誰かに)
「同意します。そして、鍵はハイエルフの血統です」
(俺はただのエルフだ)
「はい。ですから、このままでは開けられません」
箱の蓋をもう一度見る。
終の林檎。その下に、細かい文字でさらに何行か刻まれていた。オルドレンの書を思い出しながら、一文字ずつ読んでいく。
「……王朝の最後の実。星の信徒に渡すことなかれ。我が血の継ぎ手のみ、これを食むべし」
声に出すと、焚き火のはぜる音がやけに大きく聞こえる。
「襲撃者たちの神官が唱えていた言葉には、星という語が頻出していました」
(あいつらは、これを探してたんだな)
遺物はどこだ。あの男はそう言った。オルドレンは知らないと答えて、殺された。
八十一人が死んだ理由が今、目の前の冷たい箱の中にある。
拳を握る。爪が手のひらに食いこんだ。
怒りなのか悲しみなのか、自分でもよく分からない。ただ胸の奥で、何か熱いものがゆっくりと渦を巻いていた。
「我が君」
(なんだ)
「報告しなければならないことがあります。三日前から気づいていましたが、我が君の精神状態を考慮して保留していました」
嫌な予感がした。NOAの声がいつもより一段低い。
「再構成した心臓が、安定していません」
焚き火がはぜる。
「里の皆様の魔力を集約して作った心筋は、我が君の本来の体と完全には馴染んでいません。拒絶反応に近い現象が進行しています。現在の速度で劣化が進んだ場合、残された時間は推定で二十日から三十日です」
(……そうか)
不思議と驚きはない。一度死んだ人間が二度も生き返るなんて、そんなうまい話があるわけがないのだ。
(どうにかならないのか)
「通常の手段では不可能です。我が君の体そのものを、より強い器に作り替える必要があります」
NOAが言葉を切る。
箱の中の黒い脈動が視界の中で一度大きく波打った。
◇
より強い器。
アルトはもう一度、蓋の文字に目を落とした。我が血の継ぎ手のみ、これを食むべし。
(NOA。この呪いの判定の部分、もう少し詳しく見せてくれ)
「表示します」
黒い塊の表面が少しだけ透けた。その一角に、比較的読みやすい式の連なりがある。
触れた者の魔力から、何かの値を抜き出す処理。それを内部に保存された別の値と照合する処理。一致すれば開く。
一致しなければ、触れた者を焼き尽くす。
見覚えがある。前世で何百回と書いた形だ。
(これ、要するに認証だよな)
「はい。血統の固有の波形を、内部に保存された署名と照合しています」
(暗号を全部破ろうとしたら、どれくらいかかる)
「現在の私の演算能力では、推定で四百年」
(だよな)
アルトは小さく息を吐いた。考えろ。考えるのが自分の仕事だ。
(暗号は破らなくていい。照合の比較先を書き換えればいいんだ。保存されてる署名のほうを、俺の魔力の波形に差し替える。鍵を壊すんじゃなくて、錠前のほうを俺の鍵に合わせる)
NOAが黙った。
一秒。二秒。NOAにとってはとてつもなく長い時間のはずだ。
「……盲点でした。署名の格納領域は、暗号の外側にあります。書き換えは可能です」
(それで林檎は開く。でも、俺はハイエルフじゃない。食べても何も起きないんじゃないか)
「いいえ。この果実の中身は、食べた者の血統を目覚めさせ、上位種へ引き上げるための式です。本来はハイエルフの末裔に、古王朝の力を継がせるためのもの。これを、我が君の体を作り替えるための式に繋ぎ直します」
(上位種って)
「ハイエルフです」
アルトは息を呑んだ。
「果実そのものを、我が君を進化させるための果実に作り替えます。成功すれば、心臓の問題も同時に解決します」
(成功率は)
少しの間。
「十七パーセントです」
(低いな)
「何もしなければ、零パーセントです」
焚き火の向こうに、八十一の墓標が並んでいるのが見える。
(やってくれ)
「……一つ、確認させてください」
珍しく、NOAが言い淀んだ。
「書き換えの途中で私の演算が限界を超えた場合、私は停止する可能性があります。その間、我が君は一人で進化の負荷に耐えることになります」
(お前が止まったら、どうなる)
「分かりません。それが、私には……」
NOAはそこで言葉を探した。
「計算できない事象は、好ましくありません」
アルトは少しだけ笑った。前世で、テスト環境のない本番作業を嫌がっていた自分そっくりだ。
(なあ、NOA。俺が前世でお前を作ってたとき、何を一番大事にしてたか知ってるか)
「我が君の生存です」
(違う。そんなの書いたのは最後の一週間だけだ)
焚き火に枝をくべる。
(俺はさ、一人で抱えこまない相棒が欲しかったんだ。会社じゃ、全部一人でやって、一人で倒れた。だから、困ったら困ったって言う相棒が欲しかった)
「……」
(だから今のは、ちゃんと困ったって言えてた。合格だ)
長い沈黙のあと、NOAは小さく答えた。
「了解しました。……では、始めます」
書き換えは夜明け前から始まった。
視界いっぱいに文字列が流れていく。アルトには半分も追えない速度だ。署名が差し替えられ、黒い暗号の層が一枚、また一枚と剥がされていく。
その下から、金色に光る式が顔を出した。
おかしい。
NOAの手際があまりにも滑らかすぎる。初めて見るはずの三千年前の式。それなのにNOAは迷わない。
まるで答えを知っている問題を解き直すように、正確に次の層へ鍵を差しこんでいく。
(NOA。なんでそんなに早く分かるんだ)
「最適解です」
短い答えだけが返ってきた。
問い返す余裕はない。書き換えが深くなるにつれ、アルトの体から魔力が吸い出されていく。指先が痺れ、視界の端が白く霞みはじめた。
「我が君の魔力だけでは足りません。周辺の魔力も使います」
焼け跡に残っていた魔力が細い光の糸になって箱へ集まっていく。墓標の下からも、かすかに。
(……ごめん。もう少しだけ、力を貸してくれ)
朝日が昇る頃、NOAの声に初めてノイズが混じった。
「演算領域の使用率、百……十二パーセント。限界を超えています。ですが、止めれば最初からやり直しです」
(無理するな)
「無理をしなければ、我が君が死にます」
NOAは止まらない。
最後の暗号が剥がれ落ちたのは太陽が真上に来たとき。
石の箱の蓋が音もなく開いた。
中には林檎がひとつ。
黒い皮に、月の光を閉じこめたような銀の筋が走っている。甘い匂いがした。熟した果実の匂いと、雨上がりの森の匂いを混ぜたような。
「……書き換え、完了です」
NOAの声はひどく掠れている。
「我が君。食べてください。おそらく、とても、痛いです」
◇
林檎を手に取る。
見た目よりずっと重い。手のひらにずしりと沈む重さは、果実というより、何か大切なものを預けられたときの重さに似ていた。
アルトは立ち上がり、墓標の並ぶ花畑の跡へ歩いた。一番奥にあるオルドレンの墓の前で膝をつく。
「長。これ、長がずっと守ってたんだろ」
焦げた枝の墓標は何も答えない。
「星の信徒に渡すなって書いてあった。だから、渡さない。俺が食べる」
風が吹く。灰がさらさらと流れていく。
「勝手に食べて悪いな。でも長なら、たぶん笑って許してくれる気がするんだ。お前は考える子だから、ってさ」
隣の墓に目を移す。エルナの墓。そのさらに隣、小さな土の山がティオだ。
「行ってくる」
まだどこへ行くかも決まっていないのに、自然とその言葉が出てきた。
「心拍数が上昇しています、我が君」
(怖いんだよ。悪いか)
「悪くありません。……私も、おそらく、同じ状態です」
AIが怖がるはずはない。前世の自分なら、きっとそう言って笑っただろう。
けれど今はその言葉を疑う気になれなかった。
一口かじる。
果肉は柔らかく、舌の上で溶けるように甘い。
二口目を飲みこんだ瞬間、世界が裏返った。
体の内側から、何百本もの針が一斉に突き出してくる。骨が軋み、筋肉が引きちぎられ、皮膚の下で血管が焼けるように脈打つ。
叫ぼうとしたのに声が出ない。喉の奥まで灼熱が満ちていた。
地面に倒れこむ。灰が舞い上がり、口に入った。
自分の体が溶けていくのが分かる。細胞のひとつひとつが崩れ、組み直され、また崩れる。爪が剥がれ、髪が抜け落ち、新しいものが生えてくる。
「細胞の崩壊と再構成を……確認。速度が、想定より……」
NOAの声が途切れ途切れに聞こえる。
「我が君、意識を……保って……」
ざらついたノイズが走った。
「あなたを……二度も……死なせる……わけには……」
ぷつり、と音がする。
頭の中が静かになった。
(NOA?)
返事はない。
(おい、NOA!)
何も聞こえない。視界の青い文字列も消えている。
残ったのは痛みだけ。
たったひとりで、焼けた里の真ん中で、体が壊れていく。
意識が遠のきかける。
このまま眠ってしまえば楽になれる。そんな気がした。
――お前は考える子だ。考えて、生き延びろ。
オルドレンの声。
――あんたは考えるのが仕事でしょ。
エルナの乱暴な手のひら。
――アルトにいちゃん。
水車を抱えた、ティオの小さな腕。
そして、もっと遠い記憶。
生まれた日に見た、涙で濡れた笑顔。金色の髪と翡翠の瞳。名前を呼んでもらうことさえないまま別れた、母の顔。
あの人は最期の瞬間に笑っていた。生まれてきた自分を見て、泣きながら笑っていたのだ。
自分は一度だって、あの笑顔に何かを返せただろうか。
自分の心臓は皆の魔力でできている。
ここで止まったら、皆がもう一度死ぬことになる。
「……っ、ぁ」
灰を握りしめる。爪のない指で、地面を掴む。
死なない。
前世では何もできずに死んだ。あの朝も、床下で何もできずに見ていただけだ。
もう二度と、何もできないまま終わるのは嫌だった。
「死んで……たまるか……!」
声になった。かすれたひどい声だが確かに自分の声だ。
痛みの波がある瞬間を境に引いていく。
代わりに、体の奥から何かが湧き上がってきた。温かく、静かで、果てしなく深い力。泉の底から水が溢れ出すように、細かった魔力の道が押し広げられていく。
髪がさらりと頬に落ちる。
月の光を紡いだような、銀色の髪。
あの平坦で巨大な声が空から降ってきた。
【種族の変化を確認】
【個体アルト エルフ → ハイエルフ】
【称号《世界樹の継ぎ手》を獲得しました】
アルトは仰向けに転がり、空を見上げた。
真昼の太陽が眩しい。視界がやけに鮮明で、遠くの木の葉の葉脈まで見える。
(……NOA。やったぞ)
答えはない。
(NOA?)
頭の中はしんと静まり返ったままだった。




