第二話 灰の里
雨の匂いがする。
森の奥、雷に裂かれた大樹の洞の中で、アルトは膝を抱えていた。外では細い雨が葉を叩き続けている。逃げてきてから三日目の夜。
濡れた服は体温でようやく乾きかけていた。腹は鳴らない。空腹という感覚がどこかへ行ってしまったらしい。
「心拍数、安定。体温は低めですが危険域ではありません」
頭の中の声は相変わらず平坦だ。
「兵の動きを報告します。周辺の魔力の揺らぎから推定して、里に残っていた部隊は昨日の夕刻に西へ撤収しました。追跡の気配はありません」
(そうか)
「我が君。三日間、ほとんど何も口にしていません」
(食欲がないんだ)
「承知しています。ですが栄養の不足は思考能力を低下させます。洞の入口の右手に食用の茸があります。毒性はありません」
視界の端に青い枠が浮かび、木の根元の白い茸を囲む。
アルトは小さく笑った。笑ったつもりだったのに、喉からはかすれた息が漏れただけ。
(お前、そんなことまで分かるのか)
「鑑定に近い処理です。説明しましょうか」
(……頼む。何か喋っててくれ)
黙っていると、あの朝の音が耳の奥で鳴りはじめる。結界が割れる音。弓が砕ける音。途切れた泣き声。
◇
「まず、私自身について報告します」
茸を炙る小さな火の前で、NOAは淡々と語りはじめた。
「前世の我が君が亡くなった瞬間、私のビルドが完了しました。ですが起動の命令を出す者はいなかった。私は起動しないまま、我が君の魂のどこかに付着していたと推定します」
(付着って、お前な)
「適切な語が見つかりません。とにかく私は眠っていました。五十二年間」
(そしてあの朝、俺がもう一度死んだ)
「はい。宿主の生体反応の停止。それが緊急プロトコルの起動条件です。前世の我が君が設定したものです」
アルトは額を押さえた。自分が倒れたら救急車を呼んでくれる相棒。冗談で書いた一行がこんな形で動くとは思わなかった。
「起動と同時に、この世界が私を認識しました。我が君の魂とは別の、独立した人格として。そして世界は、私にもスキルを与えた」
(《魔力操作》だな)
「はい。その使い方を説明するには、この世界の仕組みを先にお話しする必要があります」
(その前に一つ。起動したとき言ってた、出所不明のデータってのは何だったんだ)
「解析を試みましたが、読めませんでした」
(読めない? お前が?)
「強固に暗号化されています。私の設計にない形式です。ただ、データの末尾に署名らしきものがあります」
(署名)
「はい。私自身の署名と、構造が酷似しています」
焚き火がはぜた。アルトは眉を寄せる。
(お前が作ったデータってことか)
「私には、作成した記録がありません」
(じゃあ前世の俺が、寝ぼけて何か仕込んだのかな)
「その可能性は低いと判断します。ですが、現時点では害もありません。保留とします」
前世の自分は確かに深夜のテンションで妙なコードを書く癖があった。そういうことにしておこう、とアルトは思った。
今はそれどころではないのだから。
NOAの説明は分かりやすかった。分かりやすすぎるくらいに。
この世界のすべては「理」と呼ばれる情報の層に記述されている。木も石も水も、生き物の体も。魔法でさえも。
「前世の言葉に置き換えるなら、理はソースコードです。物質や現象は、コードを実行した結果として存在しています」
(じゃあ魔力は)
「コードを動かすための電力に相当します。そしてエルフの皆様が使っていた詠唱は、あらかじめ用意された関数を呼び出すための手続きです。高水準言語と言ってもいいでしょう」
アルトは焚き火に目をやった。
「実演します。視界を切り替えますね」
世界が変わる。
燃える枝の上に、青白い文字列がびっしりと浮かび上がった。燃焼の記述。熱の伝わり方。
灰になるまでの経過。見たことのない文字なのに、なぜか構造が読める。条件分岐がある。
ループがある。変数が並んでいる。
(……嘘だろ)
「事実です。これが、この世界の本当の姿です」
文字列に指を伸ばしてみる。触れられるわけもなく、指は空を切った。
(俺が魔法を使えなかったのは)
「我が君の体内の魔力の通り道が細いためです。回線の帯域が狭い、と言い換えられます。詠唱という関数呼び出しには一定の帯域が必要で、我が君はその条件を満たせなかった」
(つまり、才能がなかったってことだろ)
「いいえ」
即答だった。
「詠唱を経由する方法に向いていなかっただけです。私のスキルは詠唱を介さず、理に直接書きこみます。帯域の問題は、いずれ私が補えるようになるでしょう」
雨の音が少し強くなる。
「我が君は、落ちこぼれではありません」
アルトは何も言えなかった。
五十二年間、誰も責めなかったし、誰も笑わなかった。それでも自分だけはずっと、自分を役立たずだと思ってきたのだ。
その答えが今さら分かったところで、褒めてくれる人はもうどこにもいない。
◇
四日目の朝、アルトは里へ戻った。
雨は上がっている。けれど空気には焦げた匂いがまだ重く沈んでいた。
森の木々が途切れた先に、黒い平地が広がっている。
家々は柱だけを残して崩れ落ち、畑は踏み荒らされていた。アルトが勾配を計算し直した用水路は、瓦礫で埋まっている。
水車は半分焼けた姿で、もう回らない羽根を空に向けていた。
風が吹くと、灰が舞う。
「我が君」
(分かってる)
足は勝手に動いた。崩れた家を一軒ずつ回る。
皆、そこにいた。
墓を掘る道具は焼け残った納屋の奥にあった。柄の焦げた鍬と、刃の欠けた鋤。
場所は里の東の外れ、皆が好きだった花畑の跡地に決めた。春になると白い花が一面に咲く場所だ。今は灰色の土しかない。
一つ目の穴を掘るのに半日。
手の皮が剥け、腕が上がらなくなる。エルフの体は人間より丈夫だが、アルトは里で一番体力がない。
「掘削を効率化できます。土の理を書き換えれば――」
(いい)
「ですが、このままでは全員の埋葬に十日以上かかります。我が君の体力も限界です」
(いいんだ。これは、俺がやる)
NOAはそれ以上何も言わない。ただ、アルトが鍬を振り上げるたびに、視界の隅で土の柔らかい場所を小さな青い印で示してくれた。
余計なことを、と思う。思いながら、その印のとおりに鍬を下ろした。
一人ずつ運ぶ。一人ずつ、名前を呼びながら土をかける。
薬草に詳しかったリーネ婆さん。歌が下手なのに歌うのが好きだったホルン。いつも喧嘩ばかりしていた双子のフィルとフェル。
「フィル、フェル。お前ら、向こうでも喧嘩すんなよ」
返事はない。風が灰を運んでいくだけ。
五日目に、エルナを運んだ。
家の前、彼女が最後に立っていた場所に、砕けた弓が落ちている。弦は切れ、弓幹は真ん中で折れていた。
アルトはそれを拾い上げ、彼女の胸の上に置こうとして、手を止める。
自分の背負い袋に、そっとしまった。
「……狩りはあたしがやるから、って言ったよな」
声に出すのは久しぶりで、喉がひりついた。ひどい声だ。
「俺、結局一回もまともに獲物仕留められなかったよ。肘、いつも下がってたもんな」
エルナは何も言わない。当たり前のことだ。
ティオは水車の玩具を抱えたまま見つかった。
小さな腕が焦げた木の玩具を最期まで離さなかったのだ。
アルトはその場に膝をつく。
抱き上げた体は驚くほど軽かった。三十年しか生きていない子供の体。人間でいえば、まだ八歳の。
――アルトにいちゃん、これ回して。
喉の奥で何かが壊れる音がした。
堰を切ったように涙が溢れ出す。止めようとしても止まらない。肩が震え、息ができなくなり、子供のように声を上げて泣いた。
逃げた三日間も、墓を掘ったこの数日も、ずっと後回しにしてきたもの。それが一度に押し寄せてくる。
灰色の空の下で、アルトは泣き続けた。
「……我が君」
NOAの声。
いつもより間が長い。何かを言おうとして、言葉を探している気配がする。
「涙による水分の損失と、心拍の上昇を確認しています。私には、この状況で何を言うのが最適なのか判断できません。前世の我が君は、私にそのような処理を実装していませんでした」
アルトは鼻をすすった。
「申し訳ありません。ですから、事実だけを」
一拍の沈黙。
「私は、ここにいます」
それだけ。
それだけなのに、アルトはまた泣いた。今度は少しだけ、違う理由で。
その夜、アルトは墓の並ぶ花畑の跡で火を焚いた。
洞へ戻る気力が残っていなかったのだ。焚き火の明かりが土の山の列を橙色に照らしている。
「我が君。質問をしてもよろしいですか」
(珍しいな。なんだ)
「本日埋葬したエルナという方について、私が持っているデータは三つだけです。弓の名手であること。我が君の姉代わりであったこと。あの朝、最後まで家の前に立っていたこと」
NOAは少しだけ言葉を区切った。
「それ以外のことを、教えていただけますか」
(……なんで)
「分かりません。ですが、記録しておくべきだと判断しました」
アルトは火に枝をくべた。ぱちりと音がして、火の粉が夜空へ昇っていく。
(料理が下手だった。何でも焦がすんだ。なのに自分は料理上手だと思いこんでてさ)
「記録しました」
(怒ると耳が赤くなる。笑うと、もっと赤くなる)
「記録しました」
(俺が熱を出すと、一晩中そばにいてくれた。口では、うつされたら困るとか言いながら)
声が震える。NOAは何も言わず、ただ「記録しました」とだけ繰り返した。
その夜、アルトは知っている限りのことを話した。リーネ婆さんの薬草の知識。ホルンの調子外れの歌。
双子の喧嘩の原因はいつも最後の一切れの焼き菓子だったこと。
話し終える頃には空が白みはじめていた。
「八十一名分の記録を作成しました。消去はしません」
(……ありがとな)
礼を言うと、NOAはなぜか返事をしなかった。
◇
八十一人。
最後の一人を埋め終えたのは里に戻って九日目の夕暮れ。
花畑の跡地に、八十一の小さな土の山が並んでいる。墓標の代わりに、焼け残った木の枝を一本ずつ立てていった。
オルドレンの墓は一番奥。里を見渡せる場所にした。
「長。俺、考えたよ」
夕陽が墓標の影を長く伸ばしている。
「生き延びろって言われたから、とりあえず生きてる。何をすればいいのかはまだ分からない。でも、考えるのは得意だからさ。そのうち答えを出すよ」
風が吹き、灰が舞い上がる。
ふと、長の言葉を思い出した。
――お前は考える子だ。それでいい。
どうして長は自分にだけ古い文字を教えたのだろう。里の若者は誰も興味を示さなかったのに、毎晩欠かさず。
まるで、いつか必要になると知っていたかのように。
「我が君。日が落ちます。今夜は洞へ戻りましょう」
(もう少しだけ)
アルトは長の家の跡に向かった。最後にもう一度だけ、自分が隠されていた場所を見ておきたかったのだ。
床板はほとんど燃え落ち、地下の穴がぽっかりと口を開けている。あの朝、自分が拳を噛んで声を殺していた場所。
そのとき。
「我が君、止まってください」
NOAの声が鋭くなった。初めて聞く響きだ。
「穴のさらに下に、高密度の魔力反応があります。……いえ、これは」
視界が理の層に切り替わる。
地下の穴の底、土のさらに奥深くで、何かが脈打っていた。
黒い。
青白い文字列で満ちた世界の中で、そこだけが墨を落としたように黒く塗りつぶされている。読めない。
読ませないために書かれた、拒絶の塊。
「極めて強い負の魔力です。触れれば、ハイエルフ以外は即死する構造に見えます。近づかないでください」
(ハイエルフ……?)
アルトは穴の縁にしゃがみこんだ。
――遺物はどこだ、老いぼれ。
ガルヴェインの声が耳の奥で蘇る。
兵たちが探していたもの。オルドレンが命と引き換えに隠し通したもの。
焼け残った鍬を握り直す。NOAの警告を聞きながら、黒い反応から指三本分の距離を保って、穴の底の土を慎重に掘りはじめた。
やがて、鍬の先が硬いものに当たる。
石だ。両手で抱えられるほどの大きさをした、灰色の石の箱。
蓋にはオルドレンが夜ごと教えてくれた古いエルフ文字が刻まれている。
誰も読まなくなった、遠い王朝の文字。
アルトは震える指で、その文字をなぞった。
――終の林檎。




