第五十一話 二パーセント
(NOA。正体が露見する確率は)
走り出しながら、アルトは聞いた。
城壁の上の人波をすり抜ける。誰もがリオラと竜のいる荒野のほうへ身を乗り出していて、反対へ走っていく新人のエルフに気づく者はいなかった。
「算出しました」
NOAの声はいつもと同じ、平らな声だった。
「偽装を全て解き、覇気の抑制を解除し、全演算を竜に向けた場合。我が君の正体が何らかの形で露見する確率は、九十八パーセントです」
(九十八)
「内訳を示しますか。リオラが知る確率。町のエルフが覇気を感じる確率。城壁の外から星国の見張りが見ている確率」
(いらない)
城壁の階段を駆け下りる。足元の石段が竜の降り立った振動でまだかすかに震えていた。
アルトは走りながら笑っている。
自分でも、なぜ笑っているのか分からなかった。九十八パーセント。前世なら、上司に報告した瞬間に会議が三つ開かれる数字だ。
リスクの洗い出し。代替案の検討。責任の所在の確認。
そんなものを待っている時間は、どこにもなかった。
「我が君。なぜ笑っているのですか」
(残りの二パーセントに賭ける気はないよ、と思ってさ)
「……理解しました。九十八パーセントを、受け入れるという意味ですね」
(そういうこと)
城壁の階段の下に、ガストンが立っていた。
負傷者を運ぶ担架の列を怒鳴り声で捌きながら、階段を下りてくる者を一人ずつ見ている。アルトの顔を見つけると、太い腕を伸ばして襟首を掴んだ。
「新人! どこへ行く」
「救護所に、水を運べって言われて」
「誰にだ」
「……三日月の人に」
ガストンはアルトの顔をじろりと見た。それから、北のほうを顎でしゃくった。
「救護所はあっちだ。ギルドの一階。走れ。転ぶなよ」
「はい」
襟首を離される。アルトは救護所のほうへ数歩走り、角を曲がったところで、逆の方向へ駆けだした。
「我が君。嘘の精度が、また向上しています」
(嬉しくないって言っただろ)
「記録だけしておきます」
◇
大通りは静まり返っていた。
女子供と老人は北の高台の館へ。冒険者と衛兵は東の城壁へ。残った男たちは救護所のギルドか西の門の守りへ。
昼間の喧騒が嘘のように、石畳には誰の姿もなかった。
軒先に吊るされたままの麦の穂の飾りが、風に揺れて乾いた音を立てている。祭の名残だ。片付け損ねたのだろう。
麦の穂亭の前を通り過ぎる。窓の灯りは消えていた。マーサは城壁の下で、今もシチューの鍋をかき混ぜているはずだ。
広場の噴水の脇を抜ける。水面に、昇りかけた月が揺れていた。祭の夜にカイと串焼きを食べた屋台は、骨組みだけになって広場の端に寄せられている。
(全部、守れるかな)
「守るために、走っています」
(……そうだな)
「我が君。見張り塔までの最短経路を表示します。現在地から約六百歩。路地を二本抜けます」
視界に青い線が浮かんだ。いつもの線だ。森で月光草を摘んだ時も峡谷を逃げた時も、坑道で岩を外した時も、この線を辿ってきた。
(塔の入口は)
「東側の扉に、古い錠がかかっています。錠の理は単純です。触れれば外せます」
路地に飛びこむ。洗濯物が干しっぱなしになった狭い道。誰かの家の戸口に、子供の木靴が片方だけ転がっていた。
背後で、竜の咆哮が響いた。
路地の壁がびりびりと鳴る。足を止めずに振り返ると、家々の屋根の向こうに、黒い巨体の翼の先端だけが見えた。
「リオラの状態を報告します。立っています。剣を構えています。竜は、まだ息を吐いていません」
(なんでだ)
「竜は、リオラを見ています。自分の顔に傷をつけた相手です。すぐには焼かずに、確かめていると推定します」
(……猫が鼠で遊ぶみたいなもんか)
「近い表現です。時間の猶予は、長くありません」
(NOA。もし、俺のことが全部ばれたら、どうなる)
走りながら聞いた。聞いておかなければいけない気がした。
「推定を述べます。町のエルフたちは、我が君を敬い、遠巻きにするでしょう。ギルドは、我が君の扱いに困るでしょう。辺境伯は、王都へ報告するかもしれません。そして星国は、我が君の居場所を確かめます」
(カイたちは)
「推定できません。この町の人間の反応は、私の演算をたびたび外れます」
NOAが一拍置いた。
「ですが、我が君。一つだけ、私の推定と違うことが起きると思っています」
(なんだ)
「我が君がいなくなるより、我が君が全部を見せるほうを、この町の人々は選ぶと思います。根拠は、ありません」
(お前が根拠のないことを言うの、初めて聞いたぞ)
「はい。私も、初めて言いました」
根拠がない、という言葉が、なぜか少しだけ嬉しかった。
二本目の路地を抜けた時、足音がした。
自分の足音ではない。前から、誰かが走ってくる。
とっさに足を止めた。路地の角から現れたのは小柄な老人だった。
ザイードだ。
豆売りの老人は麻袋を一つ抱えて息を切らしている。アルトの顔を見て、目を丸くした。
「アルト! お前さん、こんなところで何してる」
「ザイードさんこそ。館に避難したんじゃ」
「豆を取りに戻ったんだ。館の連中、夜通し起きてるだろう。眠気覚ましの黒茶を淹れてやろうと思ってな」
ザイードは麻袋を軽く持ち上げた。焙った豆の匂いがふわりと漂う。
こんな時に、と思った。こんな時だからこそ、なのかもしれない。
「早く館へ戻ってください。竜が、町に入るかもしれない」
「お前さんは」
「……忘れ物を取りに」
嘘だった。下手な嘘だということも分かっていた。
ザイードはしばらくアルトの顔を見ている。南の戦で畑を焼かれて、北へ逃げてきた老人の目だった。
何かを失う瞬間を、何度も見てきた目。
「そうかい」
老人はそれだけ言って、道をあけた。
「なら、早く取ってきな。館で一杯淹れて待ってるからね」
「……はい」
ザイードの背中が路地の向こうへ消えていく。麻袋の中で、豆がからからと鳴っていた。
館で一杯淹れて待ってる。
その言葉が背中にくっついて離れなかった。帰る場所で、誰かが黒茶を淹れて待っている。前世では一度もなかったことだ。
里でも、そういう約束をしたことはなかった。約束しなくても、皆がそこにいたから。
「我が君。足が止まっています」
(……悪い)
また走り出す。路地の石畳が靴の下で冷たく鳴った。
◇
見張り塔は町の北東の外れに立っていた。
古い石造りの円い塔だった。高さは三階建てのギルドの倍ほどある。辺境伯の館よりも古い、ベルズがまだ小さな砦だった頃のものだと、前にトマスが話していた。
今は使われておらず、物見台に上る者はいない。
――昔はな、あの塔の上から荒野を見張って、魔物の群れが来たら鐘を鳴らしたもんさ。鐘は百年前の大雪で落ちて、それっきりだ。
門の脇で湯気の立つ黒茶をすすりながら、トマスはそう言っていた。物見台には鐘を吊るしていた古い梁だけが残っているらしい。
夕日はもう沈みかけていた。塔の石壁の赤みが少しずつ灰色に戻っていく。
東側の扉に、錆びた鉄の錠がかかっていた。
手を触れる。錠の中の小さな式が指先の下でほどけた。かちりと音がして、錠が外れる。
扉を押し開けると、黴と古い埃の匂いがした。螺旋の階段が暗い塔の内側を上へと伸びている。
塔の中は外よりもずっと冷えている。石の壁に手をつくと、冬の夜の冷たさが指先から骨まで染みてきた。
どこかで水の滴る音がする。何十年も、誰も上っていない階段なのだろう。石段の縁は丸く擦り減り、ところどころに鳥の羽が落ちていた。
「階段は百十二段。三か所で石が欠けています。表示します」
膝が笑いはじめる。息を吸うたびに、冷たい空気が肺を刺した。それでも、足は止まらなかった。
駆け上がる。
一段。また一段。足音が塔の内側に反響する。
石の壁に、細い矢狭間が開いていた。上るたびに、その隙間から外が見える。城壁。
崩れた穴。その向こうの荒野。
三つ目の矢狭間で、アルトは一瞬だけ足を止めた。
荒野の真ん中に、リオラが立っていた。
竜の巨体を前に、剣を構えている。小さかった。竜の爪の一本ほどの大きさしかない。
それでも、まっすぐに立っていた。
竜が首を下げ、リオラに顔を近づけた。赤い目がすぐそこにある。
リオラの剣が閃いた。竜の鼻先を、銀色の光が掠める。竜がのけぞり、怒りの咆哮を上げた。
「リオラは、残りの魔力のほとんどを今の一撃に使いました」
(あと何回だ)
「零回です」
リオラが剣を構え直すのが見えた。
魔力はもう残っていない。剣の周りの銀色の光も、とうに消えている。それでも、切っ先はまっすぐに竜の目を向いていた。
外套の裾が風にあおられて、ばたばたと鳴っている。
竜が首をもたげ、鼻先から白い息を吐いた。その息だけで、リオラの髪が後ろへ吹き流される。
リオラは一歩も下がらなかった。
階段を上る足が速くなる。肺が焼けるように熱い。
「我が君。上に着く前に、確認させてください」
(なんだ)
「偽装を解除すれば、城壁の上の誰かが塔を見上げる可能性があります。覇気の抑制を解除すれば、町のエルフ全員が何かを感じます。北の館にいる者も含めて。リオラは確実に、我が君だと気づくでしょう」
(分かってる)
「それから、竜を呼んだ者が、まだどこかで見ている可能性が高いです。陣の見張りは南へ逃げましたが、全員が逃げたとは限りません」
(それも分かってる)
「では、一つだけ」
NOAが一拍置いた。
「九十八パーセントを受け入れた後も、我が君がこの町にいられるように。私は、そのための演算を同時に始めます」
(どういう意味だ)
「顔です。我が君の顔だけは、見せません」
アルトは階段を駆け上がりながら、少しだけ目を見開いた。
(できるのか)
「やります。必要な無理です」
最後の数段を、跳ぶように上った。
物見台に出る。
風が顔を叩いた。冷たい冬の風。塔の上からはベルズの全部が見えた。
崩れた東の城壁。松明の灯りが並ぶ城壁の上。救護所の灯り。北の高台の館の窓の灯り。
そして城壁の外の荒野に、黒い竜と、小さな人影。
物見台の真ん中に、古い木の梁が一本、斜めに渡されていた。鐘はない。錆びた鉄の金具だけが風に揺れてかすかに軋んでいる。
アルトは梁の下に立った。荒野が正面に見える。竜までの距離は六百歩と少し。
弓なら、絶対に届かない距離だった。
東の空がゆっくりと明るくなりはじめていた。
目を上げる。荒野の地平線の上に、大きな月が昇ってくるところだった。冬の満月。白く、冷たく、まるい月。
塔はその月の真ん前に立っていた。
「月の位置を計算しました。町から塔を見上げた者には、我が君は月の光の中の影にしか見えません。顔は、どの角度からも判別できません」
(偶然か)
「計算です。我が君が城壁の上でこの塔を見上げた時に、月の昇る時刻と位置も確かめました。我が君の選んだ場所は、最適でした」
アルトは小さく笑った。
「我が君。ご命令を」
眼下の荒野で、竜が首を反らした。喉の奥の赤い光が一気に強くなる。今度こそ、リオラを焼くつもりだった。
(全部解け)
「了解しました」




