第五十話 崩れる城壁
「カイ、伏せろ!」
叫んだのはアルトではなかった。
バルドだった。弩砲の後ろから飛び出し、カイの体を抱えこむようにして城壁の床に押し倒す。ずんぐりとした背中がカイの上に覆いかぶさった。
竜の口から、白い炎が噴き出した。
城壁の真ん中に、炎の柱が叩きつけられる。
音が消えた。
いや、音が大きすぎて、耳が何も聞こえなくなったのだ。視界が真っ白に塗りつぶされる。熱が顔を叩き、髪の先が焦げる匂いがした。
足元の石が揺れ、アルトの体は後ろへ吹き飛ばされた。
「我が君!」
背中から城壁の床に叩きつけられる。息が詰まった。
耳鳴りの奥で、NOAの声だけがはっきりと聞こえていた。
「我が君の負傷は軽微です。熱の一部を、偽装の範囲で逸らしました。ですが」
(カイと、バルドさんは)
「確認しています」
白い蒸気と黒い煙がゆっくりと晴れていった。
城壁の真ん中がえぐれている。
バルドの弩砲はもう形をとどめていなかった。鉄の骨組みが飴のように曲がり、木の部分は燃え尽きて黒い炭になっている。
その周りの石が溶けて、どろりと流れ落ちかけていた。
弩砲の残骸の陰に、二人が倒れている。
バルドがカイの上に覆いかぶさったまま動かなかった。背中の革の上着が焼け焦げ、その下の皮膚が赤黒く爛れている。
髭の三つ編みの先が焦げて縮れていた。
「バルドさん!」
駆け寄る。熱い。石の床がまだ鉄板のように熱を持っていた。
「生体反応、二つとも確認しました。生きています」
NOAの声が少しだけ早口だった。
「バルド・グランハンマー。背中に重い火傷。意識が朦朧としています。カイ・ロウエル。左腕の骨折と、脚に火傷。意識はあります」
バルドの体を、そっと横へずらす。下から、カイが咳きこみながら顔を上げた。
「げほっ……おっさん……おっさんが……」
「喋るな、カイ」
「おっさんが、俺を、庇って……」
カイの目から、涙がぼろぼろとこぼれていた。左腕がおかしな方向に曲がっている。
バルドがうっすらと目を開けた。
「……うるせえな、小僧。耳元で……泣くな」
声が掠れていた。
「ドワーフの……背中は……石より……硬えんだ」
「でも、燃えてるじゃねえか!」
「燃えてねえ……ちょっと、焦げた……だけだ」
バルドはそう言って、ひどい顔で笑った。それから、アルトのほうを向いた。焦点がうまく合っていない。
「小僧……弩砲……壊れちまった……」
「いいんです、そんなの」
「よくねえ……五十年……もってたのに……」
バルドの目がゆっくりと閉じかける。
「我が君。バルド・グランハンマーの意識が落ちかけています。治療を」
(偽装の範囲で、何ができる)
「火傷の進行を止めることはできます。痛みを和らげることも。ですが、完全な治癒は、偽装を解かなければ不可能です」
(今は、止めるだけでいい)
「了解しました」
バルドの背中に、手をかざす。誰にも見えないように、NOAの組んだ式が流れていった。爛れた皮膚の下で、熱が少しずつ引いていく。
バルドの呼吸がほんの少しだけ楽になった。
「負傷者を下げろ! 担架だ!」
ガストンの声が飛んだ。
衛兵たちが担架を持って駆けてきた。その先頭に、エランがいた。栗色の短い髪が煤で黒く汚れている。
「怪我人は」
「ドワーフの鍛冶師と、カイ・ロウエルです。鍛冶師のほうが重い」
「分かりました」
エランがバルドを担架に乗せようとした時、ふとアルトの顔を見た。
一瞬だけ。何かを確かめるように。
それから何も言わずに、バルドを担架に乗せ、仲間と一緒に運び出していった。担架の上で、焦げた髭の三つ編みが揺れている。
カイは自分の足で立とうとした。脚の火傷に顔を歪める。
「俺は、まだ、やれる……」
「腕が折れてる。下がれ」
「でも」
「下がれ。約束しただろ、ハンナさんに。ちゃんと帰るって」
カイの顔がくしゃりと歪んだ。それから、こくりと頷いた。衛兵の肩を借りて、城壁の階段を下りていく。途中で一度だけ振り返った。
「アルト。お前も、下がれよ」
「……ああ」
嘘だった。
カイが階段を下りきるまで、アルトはその背中を見送っていた。
階段の下で、誰かが叫んでいた。
「救護所はこっちです! 怪我人は、ギルドの一階へ!」
ミレイユの声だった。いつもの明るい声ではなかった。裏返り、震えながら、それでも途切れずに叫び続けている。
ギルドの受付の制服の上に、血のついた前掛けをつけていた。
担架で運ばれていくバルドの姿を見つけて、ミレイユの顔が歪んだ。けれど、すぐに担架の横に駆け寄り、衛兵たちに道を示しはじめる。
「我が君。救護所の負傷者は、現在十九名です」
(死人は)
「まだいません」
(まだ、か)
「はい。まだ、です」
◇
竜はまだ空にいた。
城壁の上を旋回しながら、次の息を溜めている。喉の奥の赤い光がまたゆっくりと強くなっていく。
リオラが城壁の東の端に立っていた。
剣を構えている。だがその切っ先がわずかに震えていた。外套の袖が裂け、腕に血が滲んでいる。肩で息をしていた。
「我が君。リオラの魔力の残量を推定しました。二割を切っています」
(もう一回、さっきのができるか)
「一度か、二度。それで竜を落とせる確率は、三パーセント未満です」
リオラが跳んだ。
さっきより、高さがなかった。風が彼女の足元で渦を巻くが、その力が弱い。それでも、竜の首の高さまで届いた。
剣が閃き、竜の顎の下の鱗を裂いた。
竜が首を振る。
その動きに、リオラの体が弾かれる。今度は城壁の上ではなかった。城壁の外。荒野の側へ。
「リオラさん!」
白金の髪が夕日の中を落ちていく。伸ばした手は何も掴めなかった。
地面に叩きつけられる寸前で、リオラの足元に風が渦を巻いた。落下の勢いがぎりぎりで殺される。それでも、リオラは荒野の地面を転がり、立ち上がれずに膝をついた。
城壁の外。竜の真下。
「我が君。リオラが城壁の外に孤立しました。竜の注意が、リオラに向いています」
竜がゆっくりと高度を下げはじめた。
城壁の外で膝をついたリオラを、竜の赤い目が見下ろしている。左目の上の傷から、黒い血が流れていた。
自分を傷つけた者を、竜は覚えていた。
「弩砲、残り二基! 撃て、撃て!」
ガストンの怒声が響く。残った二基の弩砲が唸り、鉄の矢が竜の体を叩いた。どちらも鱗に弾かれた。
「三日月、氷!」
「もう魔力がない!」
三日月のリーダーが叫び返した。城壁の上の魔法陣は半分が溶けて消えていた。
竜が城壁の外へ降りていく。
城壁の上から、誰も手が届かない場所へ。
ダグが綱を肩にかけ、崩れかけた城壁の縁へ走っていくのが見えた。綱を伝って外へ降りるつもりなのだ。
その足元で、溶けかけた石がまた一つ崩れ落ちる。ダグは縁の手前でたたらを踏み、赤狼の牙の団員たちに両腕を掴まれて引き戻された。
「離せ! あの人が一人で」
「無理です、ダグさん! 縁ごと落ちます!」
ダグの怒鳴り声が竜の咆哮にかき消された。
東門の前で、怒鳴り声が上がった。
「開けろ! 門を開けろ!」
レオポルトだった。
色褪せた衛兵の上着のまま、槍を握りしめて門の閂に飛びついている。顔が真っ青だった。それでも、閂を外そうとする手は止まらなかった。
「ギルドマスターが外にいるんだぞ! 誰か行かなきゃ」
「馬鹿野郎、坊ちゃん!」
トマスが後ろからレオポルトの襟首を掴んだ。老いた腕とは思えない力で、若者を門から引き剥がす。
「今開けたら、竜が町に入ってくる! 門の向こうにいるのは、あの人一人じゃねえ。こっちには一万二千人いるんだ!」
「でも」
「でもじゃねえ!」
トマスの声がひび割れていた。
「わしだって行きてえよ。四十年、あの人の背中を見てきたんだ」
レオポルトの手から、槍が落ちた。石畳に当たって、乾いた音を立てる。若者はその場に膝をつき、閉ざされた門を見上げていた。
トマスはその隣に立ち、閂に手をかけたまま動かなかった。皺だらけの手の甲に、血管が浮いている。
四十年、この門を開け閉めしてきた手だった。
城壁が低く鳴った。
さっきの炎で溶けかけていた真ん中の石が、重みに耐えきれずに崩れはじめていた。石の継ぎ目に亀裂が走り、大きな塊がひとつ、外側へ転がり落ちていく。
また一つ。
城壁に、穴が開いた。
人がくぐれるほどの穴。その向こうに、荒野と竜と膝をついたリオラが見えた。
「城壁の崩落を確認しました。竜が城壁を越えれば、町の内側に炎が届きます。館までの距離は、竜の飛行速度で約四十秒です」
館。北の高台の灰色の石の館。窓の一つ一つに、避難した人々の灯りがともっているはずだ。
ハンナとミナがそこにいる。
アルトは懐を押さえた。
ミナから預かった銀の鈴が、手のひらの下で小さく鳴った。
――エルフさんも、ちゃんと帰ってきてね。
――帰ったら返してね。
前世で、何度も見てきた光景があった。
深夜のオフィスで、誰かがもう限界だと分かっている。分かっていて、自分の仕事を優先した。障害が起きると分かっていて、上に言えなかった。
言えば面倒になるから。目立つから。
そうやって飲みこみ続けて、最後に心臓が止まった。
里の床下でも同じだった。板の隙間から全部を見ていたのだ。エルナが弓を砕かれるのも、オルドレンが引き出されるのも。
拳を口に押しこんで、ただ見ていた。
動いたところで何もできないと、考える子である自分の頭が告げていたから。
今は違う。
今の自分にはできることがある。
――私の冒険者が危ない目に遭ったら、私が出ていく。
古坑の件のあと、ギルドマスター室でリオラはそう言った。私の冒険者が隠したいことがあるなら、私が一緒に隠す、と。
その人が今、城壁の外で一人、竜の前に立っている。
「我が君」
NOAの声が静かだった。
「偽装の範囲で、この状況を覆す手段は、ありません」
(偽装を解いたら)
「竜を落とせる確率は、高いです。ですが、それを数字にする前に、我が君が何を選ぶのかを聞かせてください」
(……お前、変わったな)
「学習中です」
アルトは崩れた城壁の穴の向こうを見ていた。
竜が荒野に降り立つ。地面が揺れた。城壁の上にまで、その振動が伝わってくる。
足元の溶けかけた石がぱらぱらと崩れて落ちていった。膝をついたリオラの前に、巨大な影が覆いかぶさる。
リオラは剣を杖のようにして立ち上がろうとしていた。白金の髪が乱れ、頬に血が一筋流れている。それでも、灰青の瞳は竜の目から一度も逸れていなかった。
逃げない。
あの人は逃げない。
峡谷の時と同じだ。自分の背中に誰かがいる限り、あの人は一歩も引かない。
アルトは顔を上げた。
町の外れに、古い見張り塔が立っている。東の城壁の北の端から、少し離れた場所。荒野も城壁も町の全部も見渡せる、町で一番高い場所。
今、あそこには誰もいない。
塔の上の小さな物見台には、旗も見張りも立っていない。古い石造りの塔は夕日を受けて赤く染まっていた。
城壁の上の誰もが竜とリオラを見ていた。ガストンもダグも、三日月も衛兵たちも。誰もアルトを見ていなかった。
「我が君」
NOAがもう一度呼んだ。
「ご命令を」
50話までありがとうございました!!
まだまだ続きますしストックは160話まである!!(キリッ
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