第四十九話 月影
夜明け前、アルトはギルドの屋根に上った。
リオラはやはりそこにいた。屋根の瓦にはうっすらと霜が降り、リオラの毛布の端も白く凍りかけている。
一晩じゅう眠っていないのだろう。毛布を肩にかけたまま、東の荒野をじっと見つめている。
「リオラさん」
「坊や。眠れなかったの」
「……少しだけ。それより、見てほしいものがあって」
アルトは東の城壁の向こうを指さした。
「城壁の外、荒野の岩陰です。夜中に、何かが白く光ってました。焚き火じゃない光です。森の空き地で見た焼け跡と、同じ感じの」
「我が君。言い訳の準備はできていますか」
(エルフは目がいいので、だ)
「その言い訳は、本日一回目です」
リオラは目を細めて、アルトの指の先を見た。しばらく見ていたが首を横に振った。
「私には見えないわ」
「夜の間は、確かに光ってたんです」
リオラは何も言わなかった。代わりに、屋根の縁から下を覗きこみ、通りを歩いていたダグを呼び止めた。
「ダグ。三日月の子たちと、足の速いのを二人連れて、東の岩陰を見てきて。坊やが場所を知ってるわ。何か刻まれてたら、壊していいから」
空が白みはじめた頃、ダグたちは荒野へ出ていった。
アルトは城壁の上から、その背中を見送った。NOAが視界に青い印を出し、場所をダグたちの進む方角に重ねて示している。
「我が君。岩陰の周辺に、生体反応が一つ。陣のそばではありません。陣から五百歩ほど離れた、別の岩の上です」
(見張りか)
「はい。陣を壊しに来る者を、遠くから見ていると推定します」
(ダグさんたちが危ないか)
「危害を加える意図は低いと推定します。目的は観察です。誰が陣に気づき、誰が壊しに来るか」
(……俺が行かなくて、よかったな)
「はい。我が君が行っていれば、その者は我が君の顔を見ていました」
半刻ほどして、荒野の向こうで白い光が一度だけ弾けた。三日月の氷の魔法だ。少しして、ダグたちが戻ってくるのが見えた。
見張りの生体反応はその時にはもう岩の上から消えている。岩陰の向こうの荒野に、細い砂煙が一筋、南へ伸びていくのが見えた。
「八つの角の星が刻んであった。真ん中に赤い石が置いてあってな。三日月が叩き割った」
ダグは城壁の上で、リオラに報告した。
「足跡もあった。馬が一頭、南へ。それから、別の岩の上にも人のいた跡があった。もう逃げてたがな」
「そう」
リオラは短く頷いた。
「陣を壊したら、竜は引き返すと思う?」
「我が君。竜の動きを観測しています。陣が破壊された後も、進路は変わっていません」
(なんでだ)
「無理に起こされた竜は、ひどく気が立っています。呼ばれた先に何があるかは、もう関係ありません。この町の匂いを覚えてしまったと推定します」
リオラは東の空を見上げ、小さくため息をついた。
「引き返さないわよね。起こされた竜は、起こした相手か、目の前の何かを焼くまで止まらない。二百年前に、一度見たわ」
「坊や」
ダグが城壁を下りていったあと、リオラが言った。
「あの距離で、夜の陣の光が見えたのね」
「……はい」
「三百年生きてる私に見えなくて、五十二歳の坊やに見えた」
リオラはそれ以上は言わなかった。ただ、東の空を見たまま小さく息を吐いた。
「助かったわ。ありがとう」
昼のあいだ、城壁の上では誰もが黙々と手を動かしていた。
マーサが荷車でシチューの鍋を運んでくる。城壁の階段の下に鍋を据え、木の椀を次々と冒険者たちに押しつけていった。
ちゃんと食べな、という声が、何十回も城壁の下に響く。
アルトは椀を二つ受け取って、弩砲のそばへ持っていった。
「おっさん、飯!」
カイが先に受け取り、バルドの前に差し出した。バルドは弩砲の照準から目を離さずに、片手で椀を受け取る。
「冷めねえうちに食え、だとさ」
「女将の飯は冷めてもうまい。だが、熱いうちのほうがもっとうまい」
バルドはそう言って、熱いシチューを一気に流しこんだ。
カイは椀を両手で包み、東の荒野を見ていた。
「なあアルト。竜って、どれくらいでかいんだろうな」
「城壁よりでかいって、斥候の人が言ってた」
「城壁より、か」
カイはシチューをひと口すすった。それから、小さく笑った。
「ミナに、竜見たって自慢できるな。帰ったら」
「……ああ。帰ったらな」
荒野から吹く風が城壁の上の松明をかすかに揺らした。冷たい風。冬の匂いがした。
マーサのシチューの温もりが、まだ腹の底に残っている。
◇
黒鱗竜が地平線に姿を現したのは日が傾きはじめた頃だった。
最初は黒い点だった。灰色の空の下、荒野の上を低く滑るように近づいてくる。点はみるみる大きくなり、翼の形になり、やがて首と尾を持った巨大な影になった。
城壁の上で、誰かが小さく神の名を呼んだ。
大きい。
斥候の言った「城壁よりでかい」は、少しも大げさではなかった。翼を広げた幅は東門から北の見張り塔まで届くほどある。
全身が夜の色をした鱗に覆われ、その一枚一枚が、夕日を受けて鈍く光っていた。
首の付け根から、赤い光が漏れている。喉の奥で、炎が燃えているのだ。
風に乗って、硫黄のような匂いが流れてきた。焼けた石と、焦げた獣の毛の匂い。竜が通ってきた荒野の空気が、まるごと焦げているようだった。
翼が空気を打つたびに、低い音が城壁の石を震わせる。
「我が君。黒鱗竜の理を解析しています。鱗の式が極めて堅牢です。上級以下の魔法は、ほぼ通りません」
(弩砲は)
「鉄の矢なら、鱗の継ぎ目を貫ける可能性があります。継ぎ目は、翼の付け根と首の下と目の周り」
「弩砲、構え!」
ガストンの声が城壁の上に響いた。
三基の弩砲が軋みを上げて向きを変える。真ん中の一基の後ろに、バルドがいた。煤けた顔に、汗が光っている。
その横で、カイが鉄の矢を両腕で抱えていた。
「三日月、氷の壁!」
城壁の上に描かれた魔法陣が、一斉に青く光った。冷気が噴き上がり、城壁の前に薄い氷の膜が張られていく。
黒鱗竜が首を反らした。
「来るぞ!」
竜の口が開いた。
炎だった。いや、炎よりも白く、熱いもの。一本の柱になって、城壁へ向かってまっすぐに伸びてくる。
氷の膜にぶつかった。
轟音とともに、白い蒸気が爆発するように広がった。城壁の上が一瞬で真っ白になる。熱い。
肌が焼けるように熱い。誰かが悲鳴を上げた。
蒸気が晴れた時、氷の膜は跡形もなく消えていた。城壁の一部が黒く焦げ、石の表面がどろりと溶けかけている。
「防壁、一撃で消滅しました。三日月の魔力では、次の息は防げません」
「撃て!」
ガストンの号令で、三基の弩砲が一斉に唸った。
鉄の矢が三本、竜に向かって飛んでいく。
二本は鱗に弾かれた。甲高い音を立てて、荒野の地面に突き刺さる。
一本だけが竜の右の翼の付け根に食いこんだ。
バルドの弩砲の矢だった。
竜が咆哮を上げた。空気がびりびりと震え、城壁の石が鳴る。耳を塞いでもなお、腹の底まで響く声だった。
「当たった! おっさん、当たったぞ!」
カイが叫んだ。
「次の矢だ、小僧! 早くしろ!」
バルドが怒鳴った。顔は笑っていない。翼の付け根に刺さった矢は、竜の動きをほんの少し鈍らせただけだった。
竜が城壁のすぐ上まで迫ってきた。
巨大な影が城壁の上を覆う。翼が起こす風で、松明が次々と吹き消された。冒険者たちが身を伏せる。
その時だった。
城壁の上を、誰かが走る。
白金の髪が夕日の中で一筋の光を引いた。
リオラだ。
城壁の縁を蹴って、宙へ跳ぶ。風が彼女の足元で渦を巻き、その体を高く押し上げた。竜の首よりも高く。
腰の細身の剣が抜き放たれた。
剣の周りに、風がまとわりついている。いや、風ではなかった。月の光のような、淡い銀色の何かが、刃に沿って流れていた。
城壁の上の誰もが息を止めて空を見上げた。
「月影だ……」
ダグが呟いた。
「二百年前の、月影のリオラだ」
リオラの剣が振り下ろされた。
竜の左目の上を、銀色の光が走る。
鱗が裂けた。上級以下の魔法を通さないはずの鱗に、細く長い傷が刻まれ、黒い血が噴き出した。
竜が首を振り、咆哮する。リオラは竜の頭を蹴って、もう一度宙へ跳ぶ。空中で体をひねり、今度は首の付け根へ。
また一閃。
また黒い血。
「我が君。リオラの剣を解析しました」
NOAの声が珍しく揺れていた。
「刃に風の式と、もう一つ私の知らない式が重ねられています。エルフの古い式です。鱗の理の継ぎ目を探り当て、そこだけを正確に裂いています」
(すごいのか)
「はい。私が演算で導く最適な切断線と、ほぼ同じ場所を、この個体は感覚で斬っています。二百年分の戦いの経験による最適化です。バルド・グランハンマーの鍛冶と、同じ種類の」
城壁の端で、ガストンが斧を握ったまま空を見上げていた。
「二十年、あの人の下で働いてきた」
誰に言うともなく、ガストンが呟いた。
「剣を抜くのを見たのは、これで三度目だ。三度とも、誰かを逃がす時だった」
冒険者たちの中には手を止めて祈りはじめる者もいた。三日月の一人が残った魔力で城壁の前に薄い氷の膜を張り直している。
城壁の下、東門の前でも、人々が空を見上げていた。
槍を握ったまま立ち尽くすレオポルト。その隣で、トマスが口を開けたまま空を見ている。衛兵たちも、冒険者たちも、誰もが動きを止めていた。
夕日を背に、竜の周りを舞う銀色の影。
剣が閃くたびに、竜の黒い鱗が裂けていく。
「すげえ……」
カイが鉄の矢を抱えたまま、呆然と呟いた。
「ギルドマスター、あんなに強かったのかよ……」
「手を止めるな、小僧!」
バルドに怒鳴られて、カイは慌てて矢を弩砲に運んだ。
アルトは城壁の上で空を見上げていた。
屋根の上で昼寝ばかりしている人。書類が嫌いで、ガストンに怒鳴られてばかりいる人。故郷の手紙を燃やせずに、引き出しにしまった人。
その人が今、夕日の中で竜と斬り合っていた。
懐の中で、ミナの鈴が小さく鳴る。城壁の揺れのせいなのか、自分の手が震えているせいなのか、分からなかった。
だがアルトの視界の端では、NOAが冷たい数字を並べていた。
> 黒鱗竜:損傷 推定一割二分
> リオラ:魔力残量 推定五割
> 消耗速度:リオラ 竜の約四倍
「我が君。リオラの攻撃は有効です。ですが、竜の体力が大きすぎます。このままでは、竜を倒す前に、リオラの魔力が尽きます」
(あとどれくらいだ)
「十分。長くて、十五分」
空中で、リオラの動きがわずかに鈍った。
竜の尾が横薙ぎに振るわれる。リオラは剣で受け流したが、勢いを殺しきれずに弾き飛ばされた。城壁の上に、背中から落ちてくる。
何人かの冒険者が駆け寄った。リオラは自分で跳ね起きた。口の端から、血が一筋流れている。
「平気よ。下がって」
リオラは剣を構え直した。肩で息をしている。
竜が再び首を反らした。
喉の奥の赤い光がさっきよりもずっと強くなっていく。
竜の首が向いた先は城壁の真ん中だった。
バルドの弩砲のある場所。カイが鉄の矢を抱えて立っている場所だった。
アルトは走り出した。城壁の上を、弩砲のほうへ。間に合わないと分かっていても、足が止まらなかった。




