第四十八話 黒い札の報せ
同じ夜。ベルズの東の城壁から、三千歩ほど離れた荒野の岩陰。
ベネディクトは毛皮の外套の襟を首元まで引き上げていた。
寒い。荒野の夜の寒さは南の生まれの体には骨まで染みる。吐く息が白く凍り、髭に霜がつきそうだった。
毛皮の外套の下に上着を二枚重ねても、荒野の風の前ではほとんど役に立たない。
岩陰の地面に、人の背丈ほどの円が刻まれている。八つの頂点を持つ星の図形。その線の一本一本が月の光を集めたように白く光っていた。
地面は霜で白く固まり、踏むたびにかすかな音を立てる。円の中心には拳ほどの大きさの赤い石が置かれている。
石の奥で、何かが脈打っていた。
「陣の出力は安定しています。竜は、明日の夕刻には城壁に着くでしょう」
円の向こうで、痩せた男が低く言った。
旅装の外套に、腰の短剣。顔の半分を布で覆っている。聖騎士団の隠密を束ねる男で、名をザカリアスといった。
ベネディクトはこの男の素顔を一度も見たことがない。声はいつも、顔を覆う布越しにくぐもっていた。
「そうですか」
ベネディクトは手袋の上から手をこすり合わせた。
「では、私どもはそろそろ、もう少し離れた場所へ移りましょうか。竜の息というのは、ずいぶん遠くまで届くと聞きますので」
「あなたは移ってください。私は残ります。見届けるのが任務ですから」
◇
始まりは半月ほど前のことだった。
ロートリンゲンの国境の町で商いをしていたベネディクトのもとに、一人の男が転がりこんでくる。星読み院の探索隊の隠密だった。
泥だらけで、何日も眠っていない顔をしている。
カラム師の探索隊がついに古王朝の遺構を見つけた。場所は辺境ベルズの南の古坑の地下。師は先に報告を持ち帰るよう命じ、自分たちは核の目覚めを待ってから後を追う。
隠密はそう言って、ベネディクトの店の奥で丸一日眠った。それから、伝書の鳥を三羽飛ばして星都へ向かった。
カラム師の一行は戻らない。
代わりに届いたのは連合の役人からの書状だった。ベルズの南の街道で、星国の巡礼を名乗る六人を保護した。
全員がここひと月ほどの記憶を失っている。外交上の礼儀として、国境まで送り届ける。
ベネディクトは国境の砦で、その六人を迎えた。
カラム師はベネディクトの顔を見ても、誰だか分からなかった。何度か商談の席で顔を合わせたことがあるはずなのに。
澄んだ目がただぼんやりとベネディクトを見ていた。
一番若い見習いの少年はずっと泣いている。なぜ泣いているのかと聞くと、分からないと答えた。分からないのに、涙が止まらないのだと。
少年の荷物の奥から、書きかけの手紙が一枚出てきたのを、ベネディクトは覚えている。荷を改めた兵が見つけて、ベネディクトに渡したのだ。
宛名は聖女エステル。
書いた本人はその手紙を書いたことすら覚えていなかった。不思議そうに文字を見つめ、それから、なぜかまた泣き出したのだ。
ベネディクトは手紙を少年の荷に戻した。損得の外にあるものだと思ったからだ。
「星読み院の方々が、六人とも記憶を消されていた」
ザカリアスが陣の光を見下ろしながら言った。
「星読み院の聖女様でさえ、人の頭の中を書き換えることはおできにならない。聖文を読むことはできても、書くことはできないのだ。それを、六人まとめて」
「恐ろしいことですな」
ベネディクトは心からそう言った。
ヴィクトル枢機卿の命令は、伝書の鳥で届いた。短い文面だ。
――ベルズの古坑の遺構を確かめよ。遺物があれば持ち帰れ。なければ、遺物を持ち去った者を探せ。
ザカリアスの隊がベルズに着いたのは二十日ほど前のことだ。
古坑の地下の遺構はギルドの手で封鎖されていた。
カラム師の探索隊が掘ったという東の穴の出口は、崩れた土砂で埋められている。表向きは落盤事故で危険だからという理由だった。
ザカリアスの隊は夜を三つかけて土砂を掘り返し、穴の奥へ入った。
そこで、隊の二人が死んだ。
「番人がいた」
ザカリアスは淡々と言った。
「白い石のゴーレムだ。古王朝の記録にある、遺構の守護者だ。だが記録によれば、侵入者を見つけ次第排除しにかかるはずだった」
「違ったのですか」
「違った。番人は、ある部屋の扉の前から動かなかった。扉を守るように、片膝をついて。我々が近づくと立ち上がり、追い払うように腕を振るった。追ってはこなかった。部屋から我々を遠ざけるだけだった」
ザカリアスの声がわずかに低くなった。
「主の留守を守る、従者のように」
ザカリアスは布の上から、自分の左腕に触れた。袖の下に包帯が巻かれているのが見える。
「我々は六人で入った。出てきたのは四人だ。番人の腕は、一振りで鎧ごと人を壁に叩きつける。殺す気はなかったのだろう。殺す気があれば、六人とも出てこられなかった」
「……追い払われただけで、二人」
「ああ。古王朝の石工というのは、ずいぶんと加減を知らない」
ベネディクトは喉の奥が乾くのを感じた。
部屋の中はひと目だけ見えたという。
光の消えた天井。そして、中央の石の台。台の上の窪みは空っぽだった。
「遺物は、持ち去られていた。そして番人は、それを持ち去った者を主と認めている」
「継ぎ手、ですか」
「古王朝の記録の言葉を借りるなら、そうなる」
ベネディクトは自分の胸元に下げた八芒星の首飾りに、手袋越しに触れた。
思い出していたのはひと月ほど前のベルズの宿屋のことだった。銀の秤亭の一階。暖炉のそばの席。
砂竜の鱗を拾ったという、くすんだ金髪のエルフの新人。
魔力は三百十。凡庸。北の小さな村の出身。荒野には行ったことがない。
あの若者は受け取らなかった。テーブルに置いた銀貨を、最後まで。
「ザカリアス殿。札の件は、どうなりました」
「札は、確かめるための仕掛けだった」
ザカリアスは懐から、小さな革の袋を取り出した。中から、白い札が一枚。荒野の盗賊に配ったのと同じものの写しだった。
「盗賊どもに配った札は、全て頭目の札と繋がっている。そして頭目の札は、この写しと繋がっている。何かがあれば、ここに伝わる」
ベネディクトは黙っていた。
札を盗賊に渡したのはベネディクト自身だ。荒野の盗賊団の頭目に、南の交易品だと言って三十枚の札を売った。
値はただ同然だ。北の街道の商隊を襲えばどれほど儲かるかという話を添えて。
ザカリアスは札を月の光にかざした。
白いはずの札の端が黒く染まっていた。
「二日前の夜、これが黒く変わった。書き換えられたのだ。聖文の式を、誰かが。それも、壊すのではなく、出力の向きを反転させるという形で」
ベネディクトは黙っていた。
「星国の外で、聖文を書き換えられる者がいる。それも、ベルズのすぐ近くに」
ザカリアスは札を袋に戻した。
「記憶の消去。従者となった番人。書き換えられた札。全てが、同じ町を指している」
陣の中心の赤い石がひときわ強く脈打った。
東の空の果てで、何かが光った。赤い光。竜の息だ。もう、ずいぶん近い。
「竜をけしかけるのは、確かめるためですか」
ベネディクトは聞いた。
「確かめるためだ」
ザカリアスは頷いた。
「継ぎ手がベルズにいるなら、町が焼かれるのを黙って見てはいないだろう。何かをする。その何かを、見る」
ザカリアスは岩陰の脇に据えた筒を指さした。星読み院が作った遠見の筒だ。夜でも、遠くの城壁の上の人の顔まで見えるという。
筒の表面には細かな聖文が刻まれ、覗き口の縁が月の光を受けて白く光っていた。
「そして、見たものを星都へ持ち帰る」
ザカリアスは筒の先を、城壁の上の松明の列に向けた。
「月影のリオラがいる。竜を相手にしても、あの女なら半刻は持ちこたえるだろう。その間に継ぎ手が動くかどうか。それを見る」
「もし、継ぎ手が何もしなかったら」
「その時は、町が一つ焼けるだけだ」
淡々とした声だった。明日の天気を話すように。
「継ぎ手を見つけたら、どうなさるのです」
「連れて帰る。それが叶わなければ、枢機卿の次の指示を待つ」
ザカリアスは筒の位置をわずかに直した。
「聖騎士団の一隊が、ロートリンゲンの国境でいつでも動けるようにしてある。だが、それはまだ先の話だ。今夜の任務は見ることだけだ」
「ヴィクトル枢機卿は、そう仰せだ。亜人と亜人に与する町の一つや二つ、星の御心の大きさに比べれば取るに足らないと」
ベネディクトはゆっくりと立ち上がった。
膝が冷えて、うまく伸びなかった。もう若くはない。南の暖かい国で、もっと穏やかな商いをしていたかった。
そう思う夜が近頃は増えていた。
町が一つ焼ける。
ベルズには何度も足を運んだ。銀の秤亭の主人は気のいい男だった。市場の南の外れには南から逃げてきた豆売りの老人がいる。
宿の女将が煮るシチューの匂いが、通りまで漂っていた。
商人は損得の外にあるものに口を出さない。ベネディクトはそうやって四十年生きてきた。
「では、私は先に参ります」
「ああ。国境の砦で待て。報告を持って戻る」
ベネディクトは岩陰を出て、待たせていた馬のほうへ歩いた。
振り返ると、ベルズの城壁の上に松明の灯りが並んでいた。夜通し、竜を迎える準備をしているのだ。
小さな灯りの一つ一つがひどく遠く、ひどく脆く見えた。
馬の背に揺られながら、ベネディクトはあの若いエルフのことを考えていた。
銀貨を受け取らなかった若者。テーブルの上に置いた八芒星の国の銀貨を、ただ黙って見下ろしていた目。
あの時は田舎者の遠慮だと思った。
今になって、別のことを思う。あれは受け取らなかったのではなく、受け取れなかったのではないか。
八芒星の国の銀貨だけはどうしても。
ベネディクトは首を振った。考えすぎだ。商人は勘で物を売り買いしない。
それでも、ザカリアスにはあの若者の話をしなかった。なぜしなかったのか、自分でもよく分からなかった。
◇
同じ頃、遥か南西。星都アズリア。
大聖堂の最奥の部屋で、白い髪の少女が目を開けた。
聖女エステルは寝台の上で身を起こした。窓の外では星が冷たく光っている。いつものように、星はうるさかった。
何かを喋っているように、ずっと。
その中に、一つだけ、知っている声があった。
五か月前、東の空で聞いた、王の産声。
それが今、少しだけ近くにあった。東ではなくもっと西寄りの連合の辺境のどこかに。そしてその声のすぐそばで、星の文字が、乱暴に何かを呼んでいた。
大きくて、怒っていて、熱いものを。
エステルは胸の前で両手を握りしめた。
理由は分からない。それでも、胸の奥がひどくざわついていた。
七つの時、聖堂の屋根の上で、星がうるさいと言ったことがある。隣にいた男の子は黙って首を傾げていた。
それでも、夜が明けるまで一緒に星を見上げていてくれた。聖女に選ばれてからは言葉を交わすことも許されなくなった男の子だ。
ふと、幼なじみの顔が浮かんだ。何か月も前に、東の探索隊に加わったと聞いた少年。ユーリ。
あの子は無事に帰ってきただろうか。
少女は窓の外の星を見上げた。星はやっぱり、うるさいままだった。




