第四十七話 警鐘
夜明けとともに、ギルドから斥候が三組出た。
赤狼の牙から二人。三日月から一人。それぞれ馬に乗り、東の荒野へ散っていく。
リオラは一晩じゅう屋根の上にいたらしい。朝、アルトがギルドに顔を出すと、ガストンが目の下に隈を作ってぼやいていた。
「ギルドマスターが夜中に叩き起こしに来やがった。竜が出たかもしれねえってな」
「かもしれない、ですか」
「確かめに行かせてる。荒野の奥の竜なんざ、この二十年で一度も南に下りてきたことはねえんだ。何かの見間違いならいいんだが」
ガストンはそう言いながら、壁の地図を睨んでいた。荒野の東の奥、黒く塗られた一角。黒岩山と書かれている。
「我が君。昨夜の魔力の放出源は、あの地図の黒岩山の方角と一致します」
(見間違いじゃないな)
「はい。見間違いの確率は、零に近いです」
昼過ぎ、斥候の一組目が戻ってきた。
赤狼の牙の若い団員だ。馬は汗で真っ白になり、団員の顔は土気色だった。ギルドの扉を開けるなり、叫んだ。
「黒鱗竜だ! 黒岩山の黒鱗竜が、山を下りた!」
酒場が静まり返った。
リオラが階段を下りてきた。ガストンがその後ろに続く。
「どっちへ向かってる」
「南西だ。まっすぐ、こっちへ。荒野の上を低く飛んで、時々降りては休んでる。あの速さなら、明日の夕方には着く」
「大きさは」
「……城壁より、でかい」
誰かが息を呑む音がした。
「黒鱗竜。Aランクの魔物です」
ミレイユが真っ青な顔で呟いた。
「討伐記録は、連合全体でも数えるほどしか……」
「我が君。黒鱗竜の情報を、ギルドの資料と荷馬車の旅人の帳面から照合します」
視界の端に、青い文字が流れる。
> 黒鱗竜:Aランク
> 生息:荒野東部の岩山
> 習性:冬季は休眠。縄張りから出ることは稀
> 特徴:黒い鱗は上級以下の魔法をほぼ通さない。炎の息
(冬は寝てるはずなのか)
「はい。今は初冬です。休眠に入る直前か、入ったばかりの時期です。無理に起こされた竜は、ひどく気が立っていると推定します」
(無理に、起こされた)
「昨夜の放出は、目覚めの直後の息だった可能性があります。誰かが、あるいは何かが、竜を起こしました」
夕方までに、残りの斥候も戻ってきた。
報告はどれも同じだった。黒鱗竜がまっすぐベルズへ向かっている。荒野には他にも獲物がいるのに、見向きもしない。
途中の小さな集落も素通りした。ただ一点を目指すように、南西へ。
辺境伯の館から、急使が来た。
ハインリヒの書状は三行だった。
――町を戦時の体制に移す。女子供と老人は館へ避難させよ。ギルドは東の城壁の守りを指揮せよ。以上。
リオラは書状を読み終えると、ギルドに集まった冒険者たちの前に立った。
「聞いたとおりよ。明日の夕方、黒鱗竜が来る」
静まり返った酒場に、リオラの声だけが響いた。
「逃げたい者は、今夜のうちに西の門から出なさい。責めないわ。誰にも責めさせない」
誰も動かなかった。
「……そう」
リオラは小さく笑った。
「馬鹿ばっかりね、この町の冒険者は」
酒場の誰かが小さく笑った。それが少しずつ広がっていく。張りつめていた空気がほんのわずかに緩んだ。
ダグが立ち上がり、壁に立てかけていた両手剣を背負った。
「東の城壁だな。赤狼の牙は北寄りを持つ」
「三日月は真ん中。氷の壁を張るわ」
次々と声が上がる。リオラはそれを、黙って聞いていた。
「我が君。この町の冒険者の残留率は、百パーセントです」
(お前、百って言葉は使わないんじゃなかったのか)
「過去の事実には使います」
◇
その夜、町じゅうが慌ただしく動いていた。
北の高台の館へ向かう坂道に、荷車と人の列が続いている。毛布を抱えた女たち。子供の手を引く老人。
泣き出した赤ん坊をあやす母親。荷車には食料と水の樽が積まれていた。
アルトは避難の手伝いを命じられていた。カイも一緒だ。
坂道の途中に、ハンナとミナの姿がある。
ハンナは大きな包みを背負い、ミナの手を引いていた。ミナは首の銀の鈴を握りしめている。
「お兄ちゃん! アルトさん!」
ミナがこちらに駆け寄ろうとして、ハンナに引き戻された。
「カイ」
ハンナの声が震えていた。
「あんたも、館に来なさい。冒険者だからって、こんな時まで」
「母ちゃん」
カイは母親の前に立った。
「俺は城壁に行く。ギルドの仕事だ」
「でも」
「親父は、最後まで仲間を逃がしたんだろ」
ハンナが言葉を失った。
「俺も、そういうのやりたいんだ。荷物運びでも、なんでもいいから」
カイは笑った。いつもの大きな笑顔ではなく、少しだけ大人びた笑い方だった。
「ちゃんと帰ってくる。約束する。古坑の時と同じだ」
ハンナは長いあいだカイを見ていた。それから、黙って息子を抱きしめた。
ミナがアルトの外套の裾を引く。
「エルフさん」
小さな声だった。ハンナにもカイにも聞こえないくらいの。
「お兄ちゃんのこと、お願いね」
「……ああ」
「エルフさんも、ちゃんと帰ってきてね」
ミナは首の鈴を外し、アルトの手に押しつけた。
「これ、貸してあげる。走る時に鳴るの。帰ってきたら返してね」
手のひらの上で、小さな銀の鈴がちりんと鳴った。
「我が君。心拍数が上昇しています」
(……分かってる)
鈴を握りしめる。冷たい銀が少しずつ手の熱で温まっていった。
「ちゃんと返す」
ミナは満足そうに頷いて、母親の手を引いて坂道を上っていった。何度も振り返って、手を振りながら。
坂道の脇ではエランが避難の列を誘導していた。町の年寄りのエルフたちが何人か、エランの周りに集まっている。
エランは一人ひとりの手を取り、坂を上る順番を静かに告げていた。
坂道を下りて町へ戻る途中、麦の穂亭の前を通りかかった。
窓に灯りがついている。厨房の煙突から、白い煙が上がっていた。
扉を開けると、マーサが大鍋の前に立っていた。袖をまくり、額に汗を浮かべている。
「マーサさん。避難しないんですか」
「するもんかい。城壁の上の連中に、誰が晩飯を届けるんだい」
マーサは大鍋をかき混ぜながら、ふんと鼻を鳴らした。シチューの匂いが厨房に満ちている。
「館には年寄りと子供を行かせりゃいい。あたしはまだ年寄りじゃないよ」
「でも、竜が」
「竜が来たら、その時は逃げるさ。それまでは、ちゃんと食べさせる。腹が減ってちゃ、戦なんかできないだろう」
マーサは木の椀にシチューをよそい、アルトに押しつけた。
「あんたもだよ。ちゃんと食べな」
「我が君。四十八回目です」
(……数えるな)
熱いシチューを、立ったまま流しこむ。いつもと同じ味がした。
◇
東の城壁の上は松明の明かりで昼間のように明るかった。
冒険者たちと衛兵たちが石を運び、矢を束ね、油の樽を並べていた。夜風に混じって、油と鉄の匂いがする。
城壁の石は冷えきっていた。城壁の上には普段は使われていない古い弩砲が三基据えられている。人の背丈ほどもある巨大な弩だった。
その一基の前に、見慣れた背中があった。
「バルドさん」
「おう、小僧。来たか」
バルドが弩砲の弦を確かめながら振り返った。煤けた顔に汗が光っている。
「こいつは五十年前に俺が打った弩砲だ。辺境伯の爺さんの代にな。それっきり一度も使われてねえ。錆を落とすのに半日かかった」
「竜に、効きますか」
「効かせる」
バルドは弩砲の矢を一本、肩に担いだ。大人の腕ほどの太さの鉄の矢だった。先端に、細かな刻印が刻まれている。
「黒鱗竜の鱗はな、魔法をほとんど通さねえ。だが、鉄は通る。鱗の継ぎ目に当てれば、だがな」
「継ぎ目に当てるのは」
「難しいな」
バルドはにやりと笑った。
「だから、俺が狙う」
「カイはここの矢運びだ。俺の目の届くところに置いとく」
バルドは弩砲の照準を覗きこみながら言った。
「あいつの親父には借りがあるからな。息子まで死なせたら、あの世で合わせる顔がねえ」
「……バルドさん」
「なんだ」
「無茶、しないでくださいね」
バルドが振り返った。煤けた顔の中で、目だけが松明の火を映している。
「お前に言われたかねえよ。番人の前に丸腰で飛び出した奴が」
城壁の端ではダグが冒険者たちに指示を飛ばしていた。三日月の三人は城壁の上に氷の魔法陣を描いている。
竜の炎を少しでも防ぐためだという。
アルトは矢の束を運びながら、城壁の上を何度も往復した。
「我が君。現在の防衛体制で黒鱗竜を撃退できる確率を算出しました」
(いくつだ)
「十一パーセントです」
(……低いな)
「弩砲が三基、魔法使いが十二名、冒険者が六十名。黒鱗竜の鱗を貫ける攻撃手段は、弩砲とリオラの剣のみです。弩砲が鱗の継ぎ目に命中する確率は、一射につき八パーセント」
(リオラさんは)
「元Sランクです。単独での勝算は、私には算出できません。ですが、三百年以上生きたエルフの全力を、私は見たことがありません」
東門の詰所の前で、見慣れない顔を見つけた。
いや、見慣れた顔だった。色褪せた衛兵の上着を着て、槍を抱えた金髪の若者。
レオポルトだ。
トマスの隣に立ち、城壁の外の闇を見つめていた。顔が青ざめている。槍を握る手が震えていた。
それでも、詰所から離れようとはしていなかった。
「坊ちゃん。館に戻ってもいいんだぞ。辺境伯様のお子が、こんなところにいる必要はねえ」
トマスが言った。
「……いい」
レオポルトの声も震えていた。
「父上に、一月門に立てと言われた。まだ八日しか経ってない」
「竜が来るんだぞ」
「分かってる」
レオポルトは唇を噛んだ。
「この町が何から守られてるのか、自分の目で見ろって言われた。だから、見る」
トマスはしばらくレオポルトを見ていた。それから、髭を撫でて小さく笑った。
「そうかい。なら、槍の持ち方だけは間違えるなよ」
トマスは詰所の壁に立てかけてあった古い槍を手に取った。若い頃に使っていたものだろう。柄が手の脂で黒く光っていた。
「……分かってる」
レオポルトは槍を握り直した。穂先はちゃんと上を向いている。
通り過ぎるアルトに、レオポルトの目が一瞬だけ向いた。何も言わない。アルトも何も言わずに、矢の束を運んでいった。
「我が君。あの個体の記録を、削除しますか」
(……しなくていい。でも、横に何か書き足しといてくれ)
「了解しました。追記します」
夜半を過ぎた頃、アルトは城壁の上で一人、東の荒野を見つめていた。
風が冷たい。ミナから預かった鈴を、懐の中で握りしめている。
「我が君。一つ、報告があります」
(なんだ)
「竜の進路を、斥候たちの報告から再計算しました。黒鱗竜は、荒野のほかの獲物にも集落にも目もくれず、まっすぐこの町を目指しています。竜の習性としては、きわめて不自然です」
(何かに、呼ばれてる)
「はい。そして、先ほどから竜の進む方角の先に、微弱な理の揺らぎを検知しています。東の城壁の外、約三千歩。荒野の岩陰です」
視界の端に、青い印が浮かんだ。
城壁の外の闇の中。荒野の岩陰に、点がひとつ。
「揺らぎの文法を照合しました」
NOAが一拍置いた。
「星の聖文です。誰かが、竜を呼ぶための式を、この町のすぐ外に刻んでいます」




