第四十六話 帰れない場所
その夜、アルトは黒茶を二杯淹れた。
厨房で器を布に包んでいると、背後でマーサが鼻を鳴らした。
「今夜も二杯かい」
「……自分で二杯飲むんです」
「はいはい。肩の傷、まだ痛むんだろ。屋根から落ちるんじゃないよ」
マーサはそれだけ言って、手燭を持って二階へ上がっていった。
「我が君。女将は、今回は追及しませんでした」
(もう、何を言っても無駄だと思われてるんだろ)
「その推定に同意します」
夜の通りは静かだった。商隊が出ていった広場には、荷馬車の轍の跡だけが残っている。昼間あれほど賑わっていたのが嘘のようだ。
「我が君。一つ、報告があります」
(なんだ)
「保留の分類の記録が、三十件を超えました」
(増えたな)
「はい。今回の救援で、新たに四件。ベルトランの礼。ファルンの会釈。カイ・ロウエルが人質の前に立った背中。それから、ダグが我が君の肩に布を巻いた手つきです」
(最後のは、なんでだ)
「分類できません。ですが、記録すべきだと判断しました」
アルトは少しだけ笑った。笑った拍子に、肩の傷が小さく痛んだ。マーサの言うとおり、屋根から落ちないように気をつけなければ。
ギルドの裏手には修理の時に使った梯子がまだ立てかけてあった。
肩の傷が少し痛む。梯子の段を握るたびに、左腕に熱が走った。
「傷の治癒を促進しますか」
(いい。エルフは治りが早いって、ダグさんにも言っちゃったし)
「本当に早く治すと、矛盾は生じません」
(早すぎると矛盾するだろ)
「……同意します」
屋根の上に顔を出すと、リオラはいつもの場所にいなかった。
新しく葺き直した瓦の上に、膝を抱えて座っていた。寝転がってはいない。正装の上着を脱いで、肩に毛布をかけている。
月が明るかった。白金の髪が淡い銀色に光っている。
「来たわね」
「はい。お茶、持ってきました」
「ありがとう」
リオラは器を受け取り、両手で包んだ。湯気を顔に当てるようにして、しばらく目を閉じていた。
隣に腰を下ろす。新しい瓦はまだ冷たく、少しも馴染んでいなかった。
眼下に、夜のベルズが広がっている。祭の灯りはもうない。酒場の窓と、夜回りの松明だけ。
東の城壁の向こうに、灰の荒野が黒々と横たわっていた。
「肩、どう?」
「平気です。浅いので」
「そう」
リオラは黒茶をひと口すすった。それから、懐から何かを取り出して、二人のあいだの瓦の上に置く。
黒く変色した、革の護符だった。
「これ、見たことある?」
「……盗賊の頭目が、首に下げてたやつですよね」
「ええ。私が外したの」
リオラは護符を指先で軽く叩いた。
「二百年前のロートリンゲンでね、これと同じものを見たの。星国の聖騎士たちが、首に下げてた。怖がらないように。痛がらないように。死ぬまで前に進めるように」
リオラの声は淡々としていた。
「あの時は、白かったわ。最後まで、ずっと白いままだった。札を下げた騎士は腕を斬られても、足を斬られても、笑いながら向かってきた」
夜風が白金の髪を揺らした。
「黒くなったのを見るのは、初めてよ」
「我が君」
(分かってる)
アルトは何も言わなかった。リオラも、問いかけてはこなかった。
「この札がね、荒野の盗賊に配られてた。三十人分も。盗賊が自分で作れるものじゃないわ。誰かが渡したの」
リオラは黒い護符を見下ろした。
「森で獣を狂わせた連中。古坑の地下を掘っていた連中。それから、荒野の盗賊に札を配った誰か。全部、同じ方角から来てる」
南西。神聖星国のある方角。
「何かが、この町に近づいてるわ」
アルトは瓦の上の護符を見下ろした。
黒く変わったのはNOAが式を反転させたからだ。リオラはそれを知らない。知らないはずだ。
それでも、この人はわざわざこの札を持ってきて、二人のあいだに置いた。
確かめているのか。それとも、知っていると伝えているのか。
「我が君。リオラの意図は判断できません」
(俺もだ)
「ですが、この個体は我が君を責めていません。それだけは、心拍から確かです」
しばらく、二人とも黙っていた。
黒茶の湯気が冷たい夜気の中で白く立ちのぼっていく。遠くで、夜回りの松明がゆっくりと角を曲がっていった。
どこかの家で、赤ん坊が泣いてはやむ声がする。
「ねえ、坊や」
リオラが膝を抱えたまま言った。
「私、二百十年、一度も帰らなかったのよ」
「……はい」
「帰ろうと思えば、いつでも帰れたの。父も母もまだ生きてるし、家もある。婚約の相手の家だって、ずっと待ってた。帰れなかったんじゃない。帰らなかったの」
リオラは器の中を見つめていた。
「なのに、今日イシルダの話を聞いて、初めて思ったわ。帰らなきゃいけないかもしれないって」
「女王陛下のことですか」
「ええ。陛下のことも、王女様のことも。それから、ベルトランが言ってた、家にもう時間がないって話も」
リオラは小さく笑った。
「二百十年も好き勝手してきたくせに、今さらね」
「今さらでも、いいと思います」
「……そう?」
「帰りたいと思ったなら、それでいいんじゃないですか。二百十年経っても、思えたんなら」
リオラが少しだけ目を丸くした。
「坊やは時々、年寄りみたいなことを言うわね」
「……そうですか」
「ええ。五十二歳のくせに」
リオラはくすりと笑った。
「坊やの里は、どこにあったの」
不意に聞かれた。
これまで何度も、北の村と答えてきた。小さな村です、と。
「我が君。回答の方針を」
(……分からない)
「では、我が君の判断に委ねます」
アルトは黒茶の器を両手で包んだ。陶器越しに伝わる熱が指先に沁みていく。
「北じゃないです」
声が少しだけ掠れた。
「東です。荒野と砂海を越えて、山を越えた、森の奥」
リオラは何も言わなかった。ただ、静かにこちらを見ていた。
「八十二人の、小さな里でした。水車があって、畑があって。春になると、東の外れに白い花が一面に咲くんです」
言葉が思ったより自然に出てきた。
「もう、ありません」
夜風が吹いた。
リオラは瞬きもせずに、アルトを見ていた。
「焼かれました。俺以外、全員死にました」
言ってから、喉の奥が熱くなった。
初めて声に出した。この町で。誰かに向かって。
八十一の墓を掘った時も、一人で泣いた。NOAには話している。けれど、生きている人間に向かってこの言葉を言ったのは初めてだった。
「我が君。心拍数が上昇しています」
(……分かってる)
「覇気の抑制が揺らいでいます。安定させます」
リオラはしばらく黙っていた。
それから、手を伸ばした。アルトの頭に。カイにしたように、くしゃりと撫でるのではなかった。
ただ、手のひらを静かに乗せただけだった。
「誰に、とは聞かないわ」
リオラの声はひどく静かだった。
「たぶん、聞かなくても分かるから」
灰青の瞳が瓦の上の黒い護符に一瞬だけ落ちた。
「……ごめんなさい」
アルトは小さく言った。
「ずっと、北の村って言ってて」
「いいのよ。私だって、二百十年、貴族の娘だって言わなかったんだから」
リオラは手を引っこめ、また膝を抱えた。
「お互い様ね」
「はい」
「帰れない場所を持ってる者同士」
「私ね、窓から逃げた夜のこと、今でもよく覚えてるの」
リオラが膝を抱え直した。
「森を抜けて、初めて外の空を見たの。木の枝に遮られない、どこまでも広い空。星が多すぎて、怖いくらいだった」
「……分かります」
自分も、森を抜けた時に同じものを見た。白峰山脈の手前で、立ち止まって空を見上げたのだ。
「あの夜、もう戻らないって決めたの。決めたら、すごく楽になった。でも、楽になったぶん、何かを置いてきた気もしてた」
リオラは空を見上げた。
「二百十年経って、それが何だったのか、少しだけ分かった気がするわ」
何だったのか、とは聞かなかった。リオラも言わない。
リオラはそう言って、夜空を見上げた。
「私は帰らなかった。坊やは、帰れなくなった。全然違うわね」
「……違いますね」
「でも、こうして同じ屋根の上で、同じお茶を飲んでる」
リオラは器を軽く掲げた。
「それでいいじゃない。今夜くらいは」
アルトも、器を少しだけ持ち上げた。陶器が触れ合って、小さな音がした。
しばらくして、リオラがぽつりと言った。
「どんな人たちだったの。一人だけでいいから、教えて」
アルトは器を膝に置いた。
誰の話をしようか、少しだけ迷う。迷ってから、背中に括りつけたままの折れた弓のことを思った。
「姉みたいな人がいました。エルナっていう、弓の名手で」
「弓の」
「里で一番上手かったんです。俺は一番下手で、肘が下がってるって、いつも叩かれてました。口が悪くて、手が早くて。料理が下手なのに、自分では上手いと思いこんでて。何を作っても焦がすんです」
リオラが小さく吹き出した。
「怒ると耳が赤くなるんです。笑うと、もっと赤くなる。俺が熱を出すと、うつされたら困るとか言いながら、一晩じゅうそばにいてくれました」
言葉が止まらなかった。止めたくなかった。
「あの朝も、最後まで家の前に立ってました。弓で、ずっと。弓が砕けても、退かなかった」
喉が詰まった。
リオラは何も言わずに、アルトの背中の弓を見ていた。弦の切れた、真ん中で折れた弓。
「それが、その人の弓なのね」
「……はい」
リオラは手を伸ばしかけて、やめた。折れた弓幹に触れる代わりに、膝の上で指を組む。その指先が少しだけ白くなっていた。
「バルドが見たら、泣いてるって言いそうな弓ね」
「言われました。最初に会った時に」
「そう」
リオラは夜空を見上げた。
「いい人だったのね、エルナさん」
「はい。すごく」
「我が君。エルナに関する記録に、本日の我が君の発言を追記しました」
(……ああ)
「残りの八十人の話も、いつか聞かせてね」
「八十人分ですよ」
「いいわよ。私、時間だけはあるもの」
アルトは小さく笑った。笑ったつもりだったのに、目の奥が熱くなっていた。
「我が君」
(なんだ)
「八十一名分の記録は、私が保存しています。必要な時は、いつでも表示できます」
(……ああ。でも、それは俺の口から話す)
「了解しました。記録の更新を待ちます」
NOAの声がほんのわずかに柔らかかった気がした。
月が西に傾きはじめた頃、リオラが立ち上がった。毛布を肩から外し、アルトの肩にかける。
「風邪ひくわよ。エルフだって、風邪は引くんでしょ」
「ミレイユさんに、そう言いましたね」
「聞いてたわよ。下手な言い訳」
くすくすと笑う。それから、リオラはふと動きを止めた。
東の空を見ていた。
「……坊や。あれ、見える?」
城壁の向こう。灰の荒野のずっと先。地平線の上に、一瞬だけ赤い光が走った。
雷ではない。雷なら、空から地へ落ちる。その光は地から空へ向かって伸びていた。
「我が君」
NOAの声が急に硬くなった。
「東、推定で荒野の奥、二日の距離。極めて大きな魔力の放出を検知しました。生体反応です。単体で、森の黒角の百倍以上」
もう一度、赤い光が地平線を走った。
音は届かない。それなのに、足元の瓦がかすかに震えた気がした。
リオラの顔から、笑みが消えていた。
「竜の、息よ」




