第四十五話 樹の根の話
焚き火の向こうで、夜明け前の空がわずかに白みはじめていた。
アルトはファルンの隣に腰を下ろした。断る理由が見つからない。断れば、それ自体が答えになってしまう気がした。
「我が君。この個体の心拍は落ち着いています。敵意はありません。ですが、警戒を推奨します」
(分かってる)
ファルンはしばらく黙って、焚き火を見つめていた。皺の深い横顔が橙色に照らされている。
「私はね、五百年、この交易路を回ってきた」
老エルフはゆっくりと話しはじめた。
「エルフィリアから、連合の国々を巡って、またエルフィリアへ帰る。一度の旅に二年かかる。それを二百五十回近く繰り返した」
「……長いですね」
「長いとも。だが、エルフにとってはそうでもない。若い頃は、もっと遠くまで行ったものだ。ドワーフの地下都市にも、獣人の草原にも、南の海の向こうにも」
ファルンは焚き火に小枝をくべた。ぱちりと火の粉が上がる。
「その長い旅のあいだに、一度だけ、膝を折りたくなったことがある」
「若い頃だ。まだ二百にもなっていなかった。王都セレスティアで、初めて世界樹の根元に立った時のことだ」
老エルフの目が遠くを見た。
「ラフェールの根は、大地を割って地上に出ている。その根の一本一本が、大人の背丈より太い。根に手を触れた瞬間、体の奥から何かが込み上げてきた。理屈ではない。ただ、この前では頭を下げなければならないと、魂が言うのだ」
ファルンはアルトのほうを向いた。
「五日前、ベルズの広場で、それと同じものを感じた。木箱を抱えて、荷運びをしていた若いエルフとすれ違った時に」
焚き火の音だけがしばらく続いた。
「我が君。回答を」
(……ない。何を言っても、肯定になる)
「はい。沈黙を推奨します」
アルトは何も言わなかった。
ファルンはそれでいいというように小さく頷いた。
「年寄りの戯言だと思ってくれていい」
老エルフは穏やかに言った。
「私は商人だ。商人というのはね、値のつけられないものの話はしない。値をつけた途端に、それは売り物になってしまうから」
「……売り物」
「今夜のことも、私は誰にも話さない。ベルトランにもだ。あれは真面目すぎて、黙っていられない男だから」
ファルンは膝の上で組んだ手を見下ろした。
「ただ、一つだけ。年寄りのお節介を言わせてもらえるかな」
「……はい」
「もしいつか、君がエルフィリアに来ることがあったら、議会には気をつけなさい。今のセレスティアは、少し風通しが悪い。古いものを敬う者と、古いものを利用しようとする者が、同じ顔をして並んでいる」
老エルフはそれ以上は何も言わなかった。
しばらくして、ファルンがふっと笑った。
「もう一つだけ。これは商人としての話だ」
「……はい」
「ベルズの宿で、南の豆を炒った茶を飲んだ。ベルトランが土産だと言って、水筒に詰めてきてね。苦かったが、悪くなかった。あれを作ったのは君かな」
「我が君。この個体の観察力は、我が君の想定を超えています」
(黒茶まで繋げてくるのか)
「……教えたのは、俺です。売ってるのは、市場の豆売りのお爺さんですけど」
「そうか」
ファルンは満足そうに頷いた。
「エルフィリアに持ち帰って、売ってみてもいいかな。もちろん、その豆売りの方から正当な値で買い付けよう。森の国の朝は冷える。ああいう茶は、きっと喜ばれる」
「ザイードさんが喜びます。南の戦で畑を焼かれて、逃げてきた人なので」
「なら、なおさらだ」
老エルフは焚き火に手をかざした。
「値のつけられないものの話はしない。だが、値のつけられるものなら、いくらでも話そう。それが商人の礼儀だ」
アルトは焚き火の向こうで眠っているカイを見た。毛布にくるまって、口を開けて寝息を立てている。
人質の前に立った背中が今は子供のように丸まっていた。
「我が君。ファルンとの会話を記録しました。この個体は我が君の正体を推定しながら、それを売り物にしないと明言しました」
(信じていいと思うか)
「判断材料が不足しています。ですが、この個体の心拍は、会話のあいだ一度も乱れませんでした。嘘をつく者の心拍ではありません」
(……そうか)
東の空が薄桃色に染まりはじめる。荒野の地平線がゆっくりと輪郭を取り戻していった。
空がすっかり白んだ頃、荷馬車の準備が整った。
盗賊たちは縄で繋がれ、赤狼の牙が見張りについている。奪われた荷は三台の荷馬車に積み直された。
商隊の残りの荷馬車は枯れ谷の先で待っているという。そこまで送り届けて、救援の依頼は終わりだった。
荷馬車の御者台に、商隊長のイシルダが座っている。
二百六十歳ほどのエルフの女性だった。黒に近い深緑の髪を短く切り、頬に盗賊に殴られた痣がある。
商隊を預かる者らしく、目つきは鋭かったが、疲れが滲んでいた。
リオラが御者台の横に馬を寄せていた。何か話している。アルトはカイと並んで、荷馬車の後ろを歩いていた。
「なあアルト、さっきの爺さんと何話してたんだ?」
「昔の旅の話。世界樹がでかいって」
「へえ。いいなあ、世界樹。俺も一回見てみてえ」
カイは疑いもせずに頷いた。
風に乗って、前の会話が聞こえてきた。
「ヴェルシエル家のお嬢様が、まさかベルズのギルドを預かっておられるとは。セレスティアでは、もうとうにどこかで亡くなったものと噂されておりましたよ」
イシルダの声だった。疲れているせいか、少し口が軽くなっているようだった。
「勝手に殺さないでほしいわね」
「失礼いたしました。ですが、今戻られても、お嬢様の知るセレスティアではありませんよ」
「どういうこと?」
イシルダが少しだけ声を落とした。それでも、エルフの耳には十分に届く大きさだった。
「女王陛下が、床に伏せておられるのです」
リオラの馬の足がわずかに乱れた。
「半年ほど前からです。最初はただのお疲れだと言われておりました。ですが、日に日に衰えられて。今では、公の場にもほとんどお出ましになりません」
「陛下が……」
「それだけではないのです。王女のフィオナ様も、同じご様子で。それから、陛下の弟君も。王家の方々が、次々と」
イシルダは声をさらに潜めた。
「議会は流行り病だと発表しておりますが、宮廷の者は誰も信じておりません。王家の方々だけがかかる病など、聞いたことがありませんから。呪いだと、そう囁く者もおります」
「我が君」
NOAの声が低くなった。
「王家の者だけを狙う衰弱。シルヴェールの里を襲った星の聖文の術式と、同系統の可能性があります」
(……まだ、何も分からない)
「はい。推定にすぎません。記録しておきます」
前の馬の上で、リオラの背中が固まっていた。
「セレスティア三世陛下は、私が子供の頃、一度だけお会いしたことがあるわ」
リオラの声は静かだった。
「百歳の儀の前に、王宮に挨拶に上がった時。緊張して、礼の順番を間違えた私に、陛下が笑ってくださったの。ゆっくりでいいのよって」
「そうでしたか」
「優しい方だったわ」
リオラはそれきり黙った。
馬の背で揺れる白金の髪を、アルトは後ろから見ていた。
二百十年帰らなかった国。その国の女王や王女が次々と倒れている。母の字の手紙を燃やせずに、引き出しにしまったリオラの手つきを、アルトは覚えていた。
「我が君。リオラの魔力の流れが大きく乱れています。故郷について話す時の乱れより、さらに大きいです」
(……そうだろうな)
「声をかけますか」
(今は、いい)
かける言葉を、アルトは持っていなかった。
朝の風が荒野の砂を低く巻き上げていく。馬の蹄の音だけが乾いた土の上に規則正しく続いていた。
荷馬車の車輪が荒野の乾いた土を踏む音だけが続いた。
◇
枯れ谷の先で、商隊の残りの荷馬車が待っていた。
十四台が再び揃う。商隊のエルフたちが解放された仲間を抱きしめて泣いていた。ファルンは荷馬車の御者台に戻る前に、アルトのほうを一度だけ振り返り、また軽く頭を下げた。
ベルトランはリオラの馬の前に立っている。
「お嬢様」
「なに」
「お館様と奥方様には、お嬢様はお元気でいらしたとお伝えいたします。それから」
家令は少しだけ言葉を探した。
「ベルズのギルドマスターとして、立派に務めておられたと」
「……そう」
リオラは馬の上からベルトランを見下ろしていた。それから、ふっと笑った。
「ベルトラン。木から飛び降りろって言った時のこと、覚えてる?」
「覚えておりますとも」
「あの時、結局自分で降りたけど。下であなたが待っててくれたから、怖くなかったのよ」
ベルトランの目が大きく見開かれた。
それから、家令は深々と頭を下げた。長いあいだ、顔を上げない。
「どうか、お健やかに」
商隊の荷馬車がゆっくりと動き出した。北の宿場町へ。それから西へ、森の国へ。
リオラは馬の上で、最後の荷馬車が見えなくなるまでそれを見送っていた。
「ギルドマスター」
ダグが馬を寄せてきた。
「戻りますか」
「ええ。戻るわ」
リオラは手綱を引き、馬の首を南へ向けた。その横顔はもういつものギルドマスターの顔に戻っている。少なくとも、そう見えた。
ベルズに戻ったのはその日の夕方だった。
盗賊たちは衛兵に引き渡された。エランが縄の端を受け取り、リオラに敬礼する。それから、ちらりとアルトを見た。
肩の布に目を留め、何か言いたげな顔をしたが、何も言わずに盗賊たちを連れていった。
「我が君。エランの視線にも、感受性の反応が残っています。工房の時より、わずかに強くなっています」
(覇気の抑制は、続けてるよな)
「はい。三割を充てています。それでも、一度反応した個体は、二度目以降の感受性が上がる傾向があります」
(……厄介だな)
「同意します」
ギルドで報酬が配られた。一人金貨一枚。アルトは手のひらの上の金色の硬貨を、しばらく見つめていた。
「我が君の所持金は、宿代の約百泊分になりました」
(一気に増えたな)
「はい。ですが、それ以上に増えたものがあります」
(なんだ)
「我が君が普通ではないと気づいている者の数です」
カイは金貨を握りしめて、ギルドを飛び出していった。ミナとハンナに見せるのだという。扉が閉まる直前、振り返って叫んだ。
「アルト! 明日、俺んちで飯な! 母ちゃんに頼んどくから!」
「いや、俺は」
「決まりな!」
「通算、二十三回目です。成功率は零パーセントを維持しています」
(もう諦めてる)
金貨を懐にしまうと、指先に何かが触れた。ミナからもらったお守りの袋だった。乾いた花の匂いがかすかにまだ残っている。
枯れ谷の窪地で縄を切っていた時も、これはずっと懐にあったのだ。
ギルドの一階が少しずつ静かになっていく。冒険者たちが金貨を手に、酒場へ、宿へと散っていった。
階段の上から、声が降ってきた。
「坊や」
リオラが手すりにもたれて立っていた。正装の襟を外し、肩の力が抜けている。それでも、顔には疲れの色が濃かった。
片手に、何かを持っていた。黒く変色した、革の護符。
「今夜、屋根においで」
灰青の瞳がまっすぐにアルトを見下ろしていた。
「話があるの」




