第四十四話 三割の演算
リオラが指を三本立てた。
三つ数えたら仕掛ける、という合図だった。窪地の縁に散った冒険者たちが、それぞれの得物を握り直す。
赤狼の牙の五人は東の岩陰。三日月の三人は北の崖の上。リオラとダグは正面の斜面。
アルトとカイは人質のいる岩壁の真上だった。
「お前らの仕事は人質の縄を切ることだけよ。戦わないこと」
出発前にリオラはそう言った。
カイは鶴嘴を背中に括り、腰にバルドから借りた短剣を差している。顔が強張っていた。
「我が君。作戦の成功確率を算出しました。六十二パーセントです」
(低いな)
「盗賊の護符の効果を考慮しています。あの式は、恐怖を消すだけではありません。痛覚を鈍らせ、多少の傷では止まらないようにしています。森の黒角に使われていた式と、同じ系統です」
(あの時みたいに、全部外せるか)
「黒角の時は、我が君の偽装を解き、全演算を使いました。今は偽装を維持したまま、演算の三割を覇気の抑制に回しています。使えるのは残りの七割で、魔力の出力も三百十相当に絞っています」
(できるのか、できないのか)
「全員は無理です。ですが、頭目の護符だけなら書き換えられます。時間は、二十秒ください」
リオラの指が一本ずつ折られていく。
三。二。一。
北の崖の上で、氷の光が弾けた。
三日月の三人が放った氷の槍が、焚き火を次々と打ち消していく。窪地が一瞬で暗くなった。盗賊たちの怒号が上がる。
その闇の中へ、リオラが飛びこんでいった。
足音がしない。白金の髪だけが残った焚き火の明かりの中で一筋の光の線を引いた。剣が閃くたびに、盗賊が一人、二人と倒れていく。
赤狼の牙が東から雪崩れこみ、ダグの両手剣が唸りを上げた。
「今だ、カイ」
「お、おう!」
岩壁の縁から、縄を伝って下りる。人質たちのすぐ後ろに着地した。
ベルトランが振り返った。殴られた頬が腫れている。アルトの顔を見て、目を見開いた。
「アルト殿……」
「静かに。縄を切ります」
カイが短剣で一人目の縄を切る。アルトも腰のナイフで二人目の縄に取りかかった。手がかじかんでうまく動かない。
荒野の夜の冷たさが指の芯まで染みていた。
「解析を開始します」
NOAの声が頭の奥で響いた。
視界の端に、窪地の中央の大きな焚き火の跡が見える。そこに盗賊の頭目が立っていた。大剣を抜き、リオラと向かい合っている。
「てめえが月影のリオラか。噂より、ずいぶん細っこいじゃねえか」
頭目は笑った。首の護符が胸の上で白く光っている。
「二百年前の英雄様が、こんな辺境で何してやがる」
「ギルドマスターよ。あなたたちみたいなのを片づけるのが仕事なの」
リオラが剣を構え直した。
頭目が大剣を振り下ろす。重い一撃だった。リオラは正面から受けず、刃を滑らせて横へ流す。
すれ違いざまに、頭目の脇腹を斬った。
浅くはない。血が飛んだ。
それでも、頭目は止まらなかった。痛みを感じていないように、そのまま振り返って大剣を薙ぐ。リオラが後ろへ跳んだ。
外套の裾が切れて、地面に落ちる。
「護符の効果です。あの個体は、あの傷でも動けます」
(あと何秒だ)
「十四秒」
「おい、こっちだ! 人質が逃げるぞ!」
岩壁の脇から、盗賊が三人走ってきた。手に手に短剣を持っている。
カイが立ち上がった。人質たちの前に出て、鶴嘴を構える。
「カイ、下がれ」
「下がったら、この人たちが斬られるだろ!」
カイの声が震えていた。それでも、足は引かない。
アルトは杖を抜いた。
(NOA、三百十の範囲で何ができる)
「演算の一部を割きます。頭目の護符の書き換えが、三秒遅れます」
(構わない)
「了解しました。足元の砂を巻き上げます」
杖の先から、小さな風が走った。地面の砂が渦を巻き、走ってくる盗賊たちの顔に叩きつけられる。
一人が目を押さえて転んだ。もう一人がそれにつまずく。
「関数として保存します。名称は」
(『砂かけ』)
「三十五点」
三人目は止まらなかった。目に砂が入っても、護符のせいか顔をしかめもしない。短剣を振りかぶり、カイに向かって突っこんでくる。
カイが鶴嘴を振るった。
柄が盗賊の腕を打つ。短剣が手から飛んだ。それでも盗賊は止まらず、そのままカイに体当たりをした。
二人がもつれ合って、地面に転がる。
「カイ!」
「我が君。風の出力では、あの個体を引き剥がせません」
(なら)
足元の小石を見た。
(あいつの頭の上の岩を、少しだけ崩せるか)
「可能です。拳ほどの大きさの石を一つ、落とします」
岩壁の上から、ころりと石が転がり落ちた。盗賊の後頭部に当たり、鈍い音がする。盗賊の体から力が抜けた。
カイが下から這い出してきた。
「い、今の石、どこから」
「崖が崩れたんだ。運が良かったな」
「運がいいの、多くねえか最近!」
「『小石落とし』。四十五点です」
(さっきより上がってるじゃないか)
「実用性を評価しました」
「なあアルト、さっきから崖が崩れすぎじゃねえか? この谷、大丈夫かよ」
「古い崖なんだろ」
「そっか。古いのか」
カイは納得して、次の縄に短剣を当てた。
残りの縄を切る。ファルンの縄を最後に切った時、老エルフの手首が赤く腫れているのが見えた。
縄の跡が皮膚に食いこみ、うっすらと血が滲んでいる。五百年生きたエルフの手首は、思ったよりずっと細かった。
「ありがとう」
ファルンが低く言った。
「立てますか」
「立てるとも。五百年、この道を歩いてきた足だ」
老エルフは岩壁に手をついて立ち上がった。それから、窪地の中央に目を向ける。
リオラと頭目がまだ斬り合っていた。
リオラの息が少しだけ乱れている。頭目の体には傷がいくつも増えていた。それでも、頭目は止まらない。
大剣の一撃一撃が少しも鈍っていなかった。
「解析、完了しました」
NOAの声が響いた。
「頭目の護符の式を書き換えます。恐怖を消している部分の出力を、反転させます」
(反転?)
「消していた恐怖を、まとめて戻します。この数日間、あの個体が感じるはずだった恐怖を、全部」
(やれ)
「実行します」
頭目の動きが止まった。
大剣を振り上げたまま、凍りついたように。首の護符が白から黒へ、ゆっくりと色を変えていく。
頭目の顔が歪んだ。
目が見開かれ、唇が震えはじめる。脇腹の傷を見下ろした。自分の血を。
それから、目の前のリオラを。
「あ……あ、あ」
声にならない声が漏れた。
大剣が手から落ちる。頭目は膝をつき、両手で自分の体を抱きしめた。歯の根が合わずにがちがちと鳴っている。
「痛え……痛え、なんだ、これ……」
リオラは剣を構えたまま、動かなかった。頭目の首の護符を、じっと見つめている。
周りで戦っていた盗賊たちの動きも、少しずつ鈍くなっていった。頭が崩れたのを見て、浮き足立ったのだ。
護符の式が繋がっていたのか、何人かは頭目と同じように膝をつき、震えはじめた。
「我が君。三十人の護符は、頭目の護符を親として繋がっていました。親の式が反転したことで、子の式の一部も乱れています」
(全部繋がってたのか)
「はい。設計した者は、頭目を通じて全員を操れるようにしていたと推定します」
戦いはそこから一刻もかからずに終わった。
逃げ出した盗賊が十人ほど。残りは縛り上げられ、窪地の真ん中に座らされた。奪われた荷馬車は三台とも無事だった。
人質は八人とも、殴られた痕はあったが命に別状はない。
冒険者の側にも怪我人が出た。赤狼の牙の若い団員が一人、腕を斬られている。三日月の一人は足を挫いた。
そして、アルトの左の肩にも浅い切り傷が一筋ある。
いつ斬られたのか、覚えていなかった。人質の縄を切っている間に、どこかで短剣がかすめたのだろう。
外套が裂け、血が滲んでいる。
触れると、指先にぬるりとした感触があった。痛みは今になって、じわじわと上がってくる。
「我が君の負傷を報告します。左肩の切り傷。浅いです。ですが」
(ですが?)
「本来の我が君なら、受けなかった傷です。反応が三割遅れていました」
NOAの声がいつもより少しだけ硬かった。
「覇気の抑制と、偽装の出力制限。その両方を維持したまま戦うには、限界があります。今夜、それを確認しました」
(……そうだな)
肩の傷を押さえる。じんじんと熱かった。
「坊主、肩」
ダグが近づいてきた。顔の火傷の痕が焚き火の明かりに赤く浮かんでいる。
「見せろ。……浅いな。だが、荒野の砂は傷に悪い。洗っとけ」
ダグは水筒の水をアルトの肩にかけ、それから腰の袋から布を出して巻いてくれた。手つきは乱暴だったが布はきつすぎず緩すぎず、ちょうどよかった。
「人質の縄、全部切ったんだってな。カイの小僧と二人で」
「カイが、前に出てくれたので」
「知ってる。見てた」
ダグは鼻を鳴らした。
「前に出るなって言われてたのにな。あいつは本当に、言うことを聞かねえ」
そう言いながら、ダグの口の端はかすかに上がっていた。
リオラは縛られた頭目の前にしゃがんでいた。
頭目の首から、黒く変色した護符を外す。指先でつまみ、焚き火の明かりにかざした。長いあいだ、何も言わずにそれを見つめている。
それから、ゆっくりとアルトのほうを振り返った。
目が合う。
リオラは何も言わなかった。黒くなった護符を懐にしまい、立ち上がって冒険者たちに指示を出しはじめる。
夜明けまでに荷馬車を動かせるように。盗賊たちを縄で繋ぐように。
「我が君。リオラは、護符の変色を見ました」
(ああ)
「あの変色は、自然には起こりません。誰かが式を書き換えた痕跡です」
(……分かってる)
焚き火のそばで、解放された商隊の人々が毛布にくるまっていた。
ベルトランがアルトのほうへ歩いてきた。頬の腫れは引いていない。それでも、背筋はまっすぐだった。
「アルト殿。命拾いをいたしました」
「いえ、俺は縄を切っただけで」
「それで十分です」
家令は深く頭を下げた。それから、焚き火の向こうで指示を出しているリオラを見た。
「お嬢様は、変わっておられませんね。二百十年前、窓から飛び降りていかれた時と同じ背中です」
ベルトランは少しだけ笑った。
「帰ってきてくださいとは、もう申し上げられません。あの背中を見てしまっては」
その後ろから、ファルンが静かに近づいてきた。
老エルフは焚き火の明かりの中で、アルトの顔をじっと見下ろした。それから、アルトの肩に巻かれた布に目を移す。
「君の風は、ずいぶん素直に曲がるね」
穏やかな声だった。
「盗賊の足元にだけ吹く風。崖から、ちょうどいい時に落ちる石。それから、頭目の札が黒く変わった時、君は一度も頭目のほうを見ていなかった。縄を切りながら、まるで答えを知っているように、ただ待っていた」
アルトは何も言えなかった。
「我が君。この個体は、我が君の行動を観察していました」
(全部、見られてたのか)
「はい。三割の演算不足のせいで、この個体の視線への警戒が漏れていました」
ファルンは焚き火のそばに腰を下ろし、膝の上で手を組んだ。
「夜明けまで、まだ少しある。年寄りの話し相手になってはくれないかな、梢の名を持つ子よ」




