第四十三話 枯れ谷
ベルトランを連れて入ったのは麦の穂亭の食堂だった。
夜も遅く、客はもう残っていない。暖炉の火が小さくなり、天井の梁に吊るした香草の影が壁に揺れていた。
厨房の奥でマーサが洗い物をしている音がする。
マーサは家令の姿を見て、一瞬だけ眉を上げた。それから何も言わずに、黒茶を二杯運んできた。
「冷めないうちに飲みな」
それだけ言って、また厨房に戻っていく。
ベルトランは器を両手で持ち、香りを嗅いだ。眉がかすかに動く。
「……変わった香りですね」
「南の豆を炒ったお茶です。苦いですけど」
家令はひと口すすり、少しだけ目を細めた。それから器を置き、まっすぐにアルトを見た。
「単刀直入に申し上げます。お嬢様は、この町で幸せでいらっしゃいますか」
予想していた問いとは違った。
帰るように説得してくれ。そう頼まれると思っていたのだ。
「我が君。この個体の心拍は落ち着いています。敵意はありません」
(分かってる)
「……どうして、俺に聞くんですか」
「ファルン様が、あなたのことを話しておられました」
ベルトランは静かに言った。
「梢の名を持つ若いエルフがいる、と。それから、私は夕刻から通りでお嬢様の部屋の窓を見上げておりました。灯りの下に、あなたの影がありました。お嬢様が、ご自分の部屋に人を入れることは滅多にありません。少なくとも、二百十年前は」
アルトは器に目を落とした。
「俺は、ただの新人です。ギルドマスターに、よく面倒を見てもらってるだけで」
「それで結構です」
ベルトランは頷いた。
「では、ただの新人の目から見て、お嬢様は幸せでいらっしゃいますか」
少しだけ考えた。
屋根の上で昼寝をしているリオラ。ガストンに怒鳴られて、悪びれもせずに笑うリオラ。峡谷で、獣の波を一人で止めていた背中。
祭の夜に町を見下ろしながら、いい祭、と言った横顔。
それから、昔の仲間の子孫の食堂で、乾いた声で笑っていた顔。
「……分かりません」
正直に言った。
「でも、この町の人たちは、みんなギルドマスターのことが好きです。ガストンさんも、ミレイユさんも、ダグさんも。それは本当です」
ベルトランは長いあいだ黙っていた。
暖炉の薪がはぜる。
厨房でマーサが鍋を洗う音が、遠くに聞こえていた。
「そうですか」
家令の声がほんの少しだけ柔らかくなった。
「それを聞いて、安心いたしました」
「帰るように、説得しないんですか」
「いたしますよ。明日も、明後日も」
ベルトランは器を置いた。
「それが私の役目ですから。ですが、お嬢様は帰らないでしょう。二百十年前と同じように」
家令の口元に、かすかな苦笑が浮かんだ。
「アルト殿。一つだけ、お伝えしておきたいことがございます」
「なんですか」
「お嬢様が帰らなかった場合、次に来るのは私ではありません」
声の調子が変わった。
「婚約の相手の家は、セレスティアの議会でも力を持つ家柄です。二百十年待たされたことを、表向きは笑って流しておりますが、内心は違います。ヴェルシエル家にも、もうあまり時間がない。次は、もっと手荒な者が来るでしょう」
「手荒な、って」
「お嬢様を力ずくでも連れ帰れ、と命じられた者たちです」
ベルトランは立ち上がり、外套の襟を正した。
「お嬢様の周りに、あなたのような方がいてくださるなら、少しだけ安心です。どうか、よろしくお願いいたします」
家令は深々と頭を下げ、食堂を出ていった。
残された器の中で、黒茶はもう冷めていた。
◇
それから三日間、ベルトランは毎朝ギルドに来た。
毎朝リオラの部屋に上がり、半刻ほどで下りてくる。表情は変わらない。リオラも、昼過ぎにはまた屋根の上で寝転がるようになっていた。
町の噂はすっかり広まっていた。ギルドマスターは貴族の家出娘。婚約者から逃げてきた。
いや、実は駆け落ちだった。尾ひれのついた話が酒場から市場へ、市場から下町へと広がっていく。
「ギルドマスター、貴族のお嬢様なんだって?」
荷運びの依頼の途中、カイが目を輝かせて言った。
「ミナが言ってたぞ。お姫様みたいだって」
「本人には言うなよ」
「なんでだよ」
「たぶん、嫌がるから」
カイは首を傾げたが素直に頷いた。
三日目の朝、商隊は西の大門から出ていった。
十四台の荷馬車が北へ向かう街道へ曲がっていく。荒野の縁を北へ二日進み、宿場町で西へ折れる道だ。
エルフィリアまではそこからさらに一か月かかる。
アルトは大門の脇で、カイと一緒に荷の積み残しを確かめる依頼を受けていた。
最後尾の馬車に、ベルトランが乗っている。
家令はアルトに気づくと、軽く会釈をした。それから、町の奥のギルドの屋根のほうを一度だけ振り返る。
屋根の上に人影はない。
先頭の馬車にはファルンの姿があった。
老エルフは通り過ぎざまに、荷馬車の上からアルトを見下ろした。何も言わない。ただ、ほんの少しだけ頭を下げたように見えた。
「我が君。あの個体は、我が君に会釈をしました」
(ああ)
「エルフの長老が、人間の町の新人冒険者に会釈をすることは、通常ありません」
(……分かってる)
商隊の最後の馬車が街道の向こうに小さくなっていった。
◇
知らせが届いたのは翌日の夕暮れだった。
北の街道から、一頭の馬が駆けこんできた。泡を吹いた馬の背に、商隊の緑の外套を着た若いエルフがしがみついている。
三番の荷馬車で荷運びを指示していた、あの若いエルフだった。肩には矢が刺さったままだ。
ギルドの前で馬から転げ落ちた若いエルフを、ダグと赤狼の牙の団員が抱き起こした。
「盗賊に……襲われた……」
息も絶え絶えに、若いエルフは言った。
「枯れ谷で……荷馬車を三台、奪われた……人も……連れていかれた……」
「何人だ」
ダグが短く聞いた。
「八人……ファルン様も……ベルトラン殿も……」
ギルドの扉が開いた。
リオラが立っている。
その顔から、表情が消えていた。
治癒室に運ばれた若いエルフの話を、リオラは黙って聞いた。
枯れ谷は北の街道が荒野の縁で大きく曲がる場所だ。両側を崖に挟まれた狭い道で、昔から盗賊が出ることで知られている。
商隊は護衛を雇っていたが、相手の数が多すぎた。
「三十人はいた。いや、もっと。荒野の奥から、急に現れて」
「荒野の盗賊団ね。最近、北の街道で荒らしてる連中がいるって報告は来てたわ」
「それが……普通の盗賊じゃなかった。矢が、護衛の結界を抜けてきたんだ。エルフの風の守りを、まるで紙みたいに」
リオラの眉がかすかに動いた。
「連れていかれたのは」
「ファルン様と、商隊長のイシルダ様。荷の管理をしていた者が五人。それから、ベルトラン殿」
若いエルフは悔しそうに唇を噛んだ。
「身代金を取るつもりだと思う。エルフの商人は金を持ってるって、そう思われてる。荷は奪われても、人だけは」
「分かったわ」
リオラは立ち上がった。
「休んでなさい。あとは私たちがやる」
ギルドの一階に、冒険者たちが集められた。
リオラが壁の地図の前に立ち、枯れ谷の位置を指で示した。
「救援依頼よ。依頼主は、エルフィリアの商人組合。報酬は一人金貨一枚。危険度は高い」
酒場がざわめいた。金貨一枚。Fランクの冒険者のひと月分以上の稼ぎだ。
「盗賊団は荒野の奥へ逃げた。人質を連れてる分、足は遅い。今夜のうちに追いつく。赤狼の牙、三日月、それと動けるCランク以上は全員」
リオラの視線が酒場の隅へ移った。アルトとカイのいる場所へ。
「それから、追跡のために目のいいのが一人欲しいわ。荒野で、夜でも足跡を追える目」
「エルフは目がいいので、という言い訳が、ここで要求されています」
(……行くしかないな)
「推奨します。ただし、現在の演算の三割は覇気の抑制に回っています。戦闘時の反応速度が落ちています」
(分かってる)
「俺、行きます」
アルトが手を挙げると、隣でカイも勢いよく手を挙げた。
「俺も!」
「カイ君は肋骨が」
「もう治りました! 治癒師にも言われました!」
リオラはしばらくカイを見ていた。それから、小さくため息をついた。
「荷物持ちよ。前には出ないこと」
「はい!」
◇
荒野の夜は凍えるように寒かった。
月が雲に隠れている。松明は使えない。盗賊に気づかれるからだ。
冒険者たちは一列になって、アルトの後ろを歩いていた。
「足跡の表示を継続しています。荷馬車の轍が三本。人の足跡が四十二。そのうち、引きずられている足跡が八」
(人質だな)
「はい。全員、まだ歩いています」
乾いた土の上に、NOAが示す青い線が続いていた。アルトはそれを辿りながら、時々しゃがみこんで地面に手を当てる。
本当に足跡を探しているように見せるために。
「坊主、本当に見えてんのか」
すぐ後ろでダグが小声で言った。
「はい。轍が三本。北東へ」
「……大したもんだな、エルフの目ってのは」
「その言い訳は、本日一回目です」
(分かってるって)
リオラは列の最後尾にいた。何も言わない。ただ時々、アルトの背中を見ているのが分かった。
荒野の風が背中に冷たく吹きつけてくる。外套の襟を立てても、砂粒が首筋に入りこんだ。後ろでカイが小さくくしゃみをして、ダグに無言で頭を叩かれている。
笑う者は誰もいない。
真夜中を過ぎた頃、NOAが言った。
「前方、約八百歩。岩山の窪地に、多数の生体反応。焚き火の熱源が五つ。人質と推定される反応が八」
アルトは手を上げて、列を止めた。
「この先に、野営地があります」
リオラが音もなく前に出てきた。アルトの隣にしゃがみ、闇の向こうを見つめる。
「見えるの?」
「火が、少しだけ」
「……私には見えないわ」
リオラが小さく呟いた。
しまった、と思った。三百年生きたエルフの目に見えないものが、新人のエルフに見えるはずがない。
「我が君。修正の言い訳を」
(今は、ない)
リオラはそれ以上何も言わなかった。代わりに、後ろの冒険者たちに手で合図を送る。散開。
包囲。音を立てるな。
岩陰を伝って、窪地の縁まで近づいた。
眼下に、盗賊たちの野営地が広がっていた。奪った荷馬車が三台。焚き火を囲んで、粗末な身なりの男たちが酒を回している。
窪地の奥の岩壁に、縄で縛られたエルフたちが座らされていた。ファルンの白い髪が焚き火の明かりにかすかに光っている。
その隣に、ベルトランがいた。頬に殴られた痕がある。それでも、背筋はまっすぐに伸びていた。
焚き火の一番大きなものの前に、ひときわ体の大きな男が座っていた。盗賊団の頭だろう。毛皮の外套に、腰の大剣。
首から、何かを革紐で下げている。
「我が君」
NOAの声が硬くなった。
「あの個体の首飾りを、理の層で見てください」
視界を切り替える。
男の胸元で、小さな札が光っていた。革に何かの文字が焼きつけてある。乾いた、白い、星の光のような文字。
「星の聖文の、護符です。周囲の者の恐怖を消し、矢に結界を貫く力を与える式が刻まれています。三十人全員に、同じ式の写しが配られています」
喉の奥が冷えた。
(盗賊が、なんでそんなものを)
「誰かが与えたと推定します。南から来た、誰かが」




