第四十二話 白い鳥の紋
階段の上に、リオラが立っていた。
いつもの着崩した制服ではない。襟を留め、袖のボタンまできちんと掛けている。白金の髪は首の後ろできつくまとめられていた。
辺境伯の館へ行った時と同じ、ギルドマスターの正装だ。
けれど、あの時とは顔つきが違った。
「ベルトラン」
リオラの声は静かだった。酒場のざわめきがすっと引いていく。
「ずいぶん老けたわね」
「お嬢様は、少しもお変わりになりません」
家令と名乗ったエルフは胸に手を当てて深く頭を下げた。
「二百十年ぶりにお目にかかります」
酒場のあちこちで、冒険者たちが杯を持ったまま固まっていた。お嬢様。誰かが小さく繰り返す。
ミレイユが口を両手で押さえていた。
「我が君。周囲の注目度が急上昇しています」
(リオラさんが一番、目立ちたくなかっただろうな)
「同意します」
リオラは階段を下りてこなかった。手すりに片手をかけたまま、上から家令を見下ろしている。
「話なら上で聞くわ。ガストン、誰も上げないで」
「は、はい」
ガストンが慌てて階段の下に立った。ベルトランは静かに一礼し、階段を上っていく。
扉の閉まる音がした。
酒場は一瞬だけ静まり返り、それから一気に騒がしくなった。
「お嬢様だってよ」
「ギルドマスターが? 貴族だったのか」
「ヴェルシエル家って、エルフィリアのお偉いさんだろ」
「なんで二百年も帰ってねえんだ」
好き勝手な声が飛び交う。アルトは報酬の銀貨を握ったまま、カウンターの前に立ち尽くしていた。
「なあアルト、知ってたか? ギルドマスターが貴族の娘だって」
カイが目を輝かせて聞いてきた。
「……少しだけ」
「マジかよ! なんで教えてくれねえんだよ」
「俺が言うことじゃないだろ」
カイは口を尖らせたがそれ以上は聞いてこなかった。
アルトは天井を見上げた。三階のギルドマスター室。あの部屋で、二百十年分の何かが話されている。
リオラは自分にだけ話してくれた。小さな食堂で、エルフの煮込みを食べながら。窓から逃げた夜のこと。剣一本だけ持って出たこと。
それが今、酒場じゅうの噂の種になっていた。
「我が君。周囲の会話を集計しました。リオラに関する推測は、現在十一通りあります」
(十一も)
「最も多いのは、婚約者から逃げてきたというものです。正解です。二番目は、王族の隠し子というもの。三番目は、実はもう結婚していて夫を捨てたというもの」
(全部、本人に聞かれたら怒られるぞ)
「同意します。記録だけしておきます」
カウンターの向こうで、ミレイユが帳簿を抱えたまま立ち尽くしていた。いつもの明るい顔が曇っている。
「アルトさん」
小さな声で呼ばれた。
「ギルドマスター、大丈夫でしょうか。私、ずっとここで働いてて、ギルドマスターのことなんでも知ってるつもりだったんです。屋根で寝るのが好きで、書類が嫌いで、甘いお菓子が好きで。でも、貴族のお嬢様だったなんて全然」
「……知らなくても、いいんじゃないですか」
アルトは少し考えてから言った。
「ミレイユさんが知ってるギルドマスターも、本物だと思います」
ミレイユは目を丸くして、それから少しだけ笑った。
「アルトさんって、時々いいこと言いますよね」
「その評価は、本日一回目です」
(数えなくていい)
◇
ベルトランがギルドを出ていったのは日が暮れてからだった。
来た時と同じように背筋を伸ばし、誰とも目を合わせずに扉をくぐっていく。外套の裾が夜風に揺れた。
アルトは酒場の隅で、黒茶の器を両手で包んでいた。カイは先に帰っている。ミナに銀貨を見せてやるのだと言って。
「我が君。リオラの部屋の明かりは、まだ点いています」
(行ってもいいと思うか)
「判断材料が不足しています。ですが、我が君がここに残っている理由は、それだと推定します」
(……お前、たまに意地悪だな)
「事実を述べただけです」
階段の下ではガストンが腕を組んで立っていた。疲れた顔をしている。アルトに気づくと、太い眉を寄せた。
「新人。まだいたのか」
「はい」
「上に行きたいって顔だな」
「……顔に出てますか」
「出てる。お前は思ったことが全部顔に出る」
ガストンは大きくため息をつき、それから階段の脇に一歩よけた。
「誰も上げるなと言われてる。俺は今、便所に行ってくる。その間のことは知らねえ」
「ガストンさん」
「早くしろ。腹が痛えんだ」
ガストンはそう言って、本当に裏口のほうへ歩いていった。
「我が君。あの個体の発言は、事実ではありません」
(知ってる)
ギルドマスター室の扉は少しだけ開いていた。
中は暗かった。燭台が一つだけ灯っていて、窓辺の椅子にリオラが座っている。正装の襟を外し、膝の上で一枚の手紙を広げていた。
ノックをする前に、声がした。
「坊やでしょ。入りなさい」
「……どうして分かったんですか」
「足音。坊やの足音は、階段の三段目でいつも少しつまずくの」
中に入る。リオラは手紙から目を上げなかった。
「ガストンが通したのね。あの子、変なところで気が利くんだから」
「すみません。様子が、気になって」
「謝らなくていいわ」
リオラは手紙を指先でつまみ、ひらひらと振ってみせた。
「父からよ。正確には、父の名前で書かれた手紙。字は母のものだけど」
燭台の光の中で、白い鳥の紋章が封蝋に浮かんでいた。封蝋はきれいに剥がされ、端がわずかに欠けている。
何度も開けては閉じたのだろう。
「帰ってこい、ですって。二百十年経って、初めての手紙がそれ」
リオラは小さく笑った。乾いた笑いだった。
「婚約の儀の相手の家が、まだ待ってるんですって。向こうも長生きだから。二百十年くらい、エルフにとってはちょっとした行き違いなのよ」
「……帰るんですか」
「帰らないわよ」
即答だった。
「ベルトランにもそう言ったわ。お父様に伝えてって。リオラはベルズのギルドマスターです。冒険者を預かっています。帰りませんって」
リオラは手紙を燭台の炎にかざしかけて、やめた。代わりに、丁寧に畳んで机の引き出しにしまう。
「燃やさないんですか」
「母の字なのよ」
それだけ言って、リオラは窓の外を見た。
しばらく、何も言わなかった。窓の向こうで、広場に止まった商隊の荷馬車の列が、松明に照らされて黒い影になっている。
「酒場の連中、噂してたでしょ」
「……少し」
「少しじゃないわよね。ベルトランがお嬢様なんて呼ぶから。明日には町じゅうに広まってるわ」
リオラは頬杖をついた。
「別に隠してたわけじゃないの。聞かれなかったから言わなかっただけ。でも、聞かれないようにしてたのかもね」
「俺には、話してくれましたよね」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
リオラがこちらを向いた。灰青の瞳が燭台の光を映して揺れている。
「そうね。坊やには話したわ」
「……どうしてですか」
「さあ。どうしてかしらね」
リオラは目を細めた。
「坊やが、帰れない場所を持ってる顔をしてたからかしら」
部屋が静かになった。
燭台の炎がかすかに揺れる。窓の隙間から入ってくる夜風が冷たい。
「我が君。心拍数が上昇しています」
(……分かってる)
「ベルトランはね、商隊と一緒に来たのよ」
リオラが話題を変えるように言った。
「商隊の帰り道に、一緒に乗っていくつもりだったんですって。私を連れて。三日後の朝に出発するそうよ」
「三日後」
「ええ。それまで毎日、説得に来るって。律儀な人なの。私がまだ小さかった頃から、ずっとああなのよ」
窓の外から、商隊のエルフたちの笑い声がかすかに聞こえてくる。リオラはその声に耳を傾けるように、少しだけ目を閉じた。
リオラは少しだけ笑う。今度の笑いはさっきより柔らかかった。
「小さい頃、木登りして降りられなくなった私を、ベルトランが一晩じゅう木の下で待っててくれたことがあるの。飛び降りなさいって。受け止めるからって。結局、朝になって私が自分で降りたんだけど」
「優しい人なんですね」
「優しいわよ。だから困るの」
リオラは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「坊や。ベルトランが言ってたわ」
しばらくしてから、リオラがぽつりと言った。
「商隊のファルン様が、今日広場で妙なことをおっしゃってたって。人間の町に、古い名前を持つエルフの子がいたって」
アルトの背筋が凍った。
「我が君。表情を固定します」
「梢の名前を持つ子。ファルン様は、その子の前で思わず膝を折りかけたんですって。五百年生きてきて、そんなことは初めてだって」
リオラは天井を見たまま、淡々と続けた。
「ベルトランは笑ってたわ。ファルン様も年を取られたって。でも、私は笑えなかった」
灰青の瞳がゆっくりとアルトのほうへ向いた。
「坊や。ファルン様の前を通ったの?」
嘘をつこうと思えば、つけた。
でも、ここで嘘をつくのは、さっき聞いた手紙の話への返事としてあまりにも不釣り合いな気がした。
「……荷運びの途中で、すれ違いました」
「そう」
リオラはそれだけ言った。
それ以上は何も聞かなかった。食堂の時と同じように。
「明日の朝、ベルトランがまた来るわ。坊やは来なくていいわよ。これは私の問題だから」
「はい」
「それと」
リオラが立ち上がり、アルトの前まで歩いてきた。見下ろされる。
「ファルン様には、なるべく近づかないこと。あの方は勘がいいの。私よりずっと」
「……はい」
「いい子ね」
リオラはアルトの頭に手を置き、くしゃりと髪を撫でた。カイにしたのと同じように。撫でる手は冷たかった。
燭台の火にかざしていたはずなのに。
それから、扉のほうを顎でしゃくった。
「もう帰りなさい。明日も依頼があるんでしょ」
◇
ギルドを出ると、夜の通りは冷えていた。
広場の荷馬車の陰で、商隊のエルフたちが焚き火を囲んでいる。エルフィリアの言葉で歌っているのが聞こえた。
知らない歌なのに、どこか里の歌に似た節回しだった。
足が止まる。
里では収穫の祝いの夜にホルンが歌っていた。調子外れの声で、それでも誰より楽しそうに。双子のフィルとフェルがそれに合わせて手を叩いていた。
焚き火のそばのエルフたちの歌は、ホルンよりずっと上手い。けれど、節の終わりで少しだけ音を上げる癖が同じだった。
古い歌なのだろう。森の国でも東の果ての隠れ里でも、同じ歌が残っていたのだ。
「我が君」
(なんだ)
「リオラは、我が君がファルンの前を通ったことを確かめました。そして、それ以上は聞きませんでした。前回の食堂と同じ対応です」
(ああ)
「この個体の中で、我が君に関する情報が蓄積されています。峡谷の銀の髪。継ぎ手の扉。働きすぎて死んだという話。そして今日の、ファルンの膝」
(……全部、繋がりかけてるな)
「はい。繋がるのは時間の問題です」
麦の穂亭へ向かう角を曲がった時、背後から足音がした。
振り返る。
夜の通りに、見覚えのある男が立っていた。濃紺の上着。銀の白い鳥の紋章。
ベルトランだった。
「ベルズの冒険者、アルト殿でいらっしゃいますか」
家令は丁寧に一礼した。
「少し、お時間をいただけないでしょうか。お嬢様のことで、お願いがございます」




