第四十話 屋根の修理
祭の三日目の夜が明けると、ベルズはいつもの顔に戻っていた。
大通りの屋台は畳まれ、軒先の麦の穂の飾りは下ろされて、広場の焚き火の跡には灰だけが残っている。早朝から、町の人々が総出で後片付けをしていた。
箒で石畳を掃く音。荷車に樽を積む音。酒場の主人が割れた杯の欠片を拾い集めながらぼやく声。
アルトもカイと一緒に、広場の掃除の依頼を受けていた。
報酬は銅貨二十枚。冒険者の仕事としては最低の部類だ。それでも、登録が抹消されずに済んだ朝の最初の仕事としては、悪くない気がした。
「なあアルト。あの噴水、まだ笑えるよな」
カイが箒を動かしながら、噴水のほうを顎でしゃくった。
「二日経っても、通りかかる奴がみんな噴水見て吹き出してんだ。町じゅうの語り草だぜ。耳長の新人が、辺境伯の息子を噴水に沈めたって」
「沈めてない。魔法を失敗しただけだ」
「はいはい、失敗な」
カイはにやにやと笑った。
「我が君。カイ・ロウエルは、我が君の失敗を信じていないようです」
(信じてないって、何を)
「我が君が、本当に魔法が下手だということを、です」
(いや、本当に下手なんだよ。偽装の範囲では)
「はい。偽装の範囲では」
東門のほうから、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「おい、坊ちゃん! 槍の持ち方が逆だ!」
トマスだった。門の脇の詰所の前で、腕を組んで仁王立ちしている。その前で、深紅の上着ではなく色褪せた衛兵の上着を着た若者が槍を抱えて立っていた。
レオポルトだ。
撫でつけていた金髪がぼさぼさに乱れ、目の下に隈ができている。祭が明けた今朝から、門番の見習いとして詰所に放りこまれたらしい。
「穂先は上だ! 荒野の魔物は空から来ることもあるんだぞ!」
「わ、分かってる……」
「分かってねえから言ってんだ!」
レオポルトが槍を持ち直した。視線が一瞬だけ広場のほうへ向き、アルトと目が合った。
すぐに逸らされる。
「我が君。レオポルトの心拍が上昇しています。怒りではなく、羞恥と推定します」
(……一月か。長いな、あいつにとっては)
「同情しますか」
(少しだけな。トマスさん、厳しそうだし)
「同意します。記録からは、削除しませんが」
詰所の脇の窓から、荒野の乾いた風が吹きこんでいる。あの若者は一月のあいだ、毎朝この風を浴びることになるのだ。
荒野の向こうから何が来るのかを考えながら。
◇
昼過ぎ、掃除の報酬を受け取りにギルドへ行くと、受付でミレイユが手を振った。
「アルトさん! 昨日、辺境伯の息子さんが来たんですよ。私に謝りに」
「……謝ったんですか」
「はい。すっごく小さな声で、すっごく早口でしたけど。それから、手首に塗る薬を置いていきました。館の治癒師が作った、高いやつ」
ミレイユは手首の包帯を見せて、くすっと笑った。
「悪い人じゃ、ないのかもしれませんね。ちょっと、育ち方を間違えただけで」
「我が君。ミレイユは、我が君よりも寛容です」
(俺も別に、恨んでないけどな)
「私は、恨んでいます」
(お前が一番執念深いんだよ)
報酬の銅貨を受け取ると、ミレイユが受付台の下から一枚の紙を出した。
「それと、ギルドマスターから伝言です。アルトさんがお掃除の報酬を受け取りに来たら、屋根に来るようにって」
「屋根に」
「はい。大工道具を持ってきてって」
「大工道具……?」
ギルドの裏手に回ると、雨樋の下に梯子が立てかけてあった。
見上げると、三階の屋根の上でリオラが手を振っている。いつもの着崩した制服の袖をまくり上げ、頭に手拭いを巻いていた。
「遅いわよ、坊や。道具は?」
「……ミレイユさんに、借りてきました」
金槌と、釘の入った袋。木の板が数枚。それを抱えて梯子を登る。
雨樋を伝わずに屋根に上がるのは初めてだった。
「我が君の登攀は、梯子の場合、安定しています」
(当たり前だろ)
屋根の上に顔を出すと、リオラがいつも寝転がっている場所の瓦が、何枚も割れていた。その下の板がむき出しになり、一部は黒く腐っている。
「去年の冬から、ずっと雨漏りしてたのよ。真下が資料室でね。古い記録が濡れるって、ガストンに毎週怒られてたの」
「……リオラさんが毎日寝転がってるせいじゃないですか」
「失礼ね。瓦が古いのよ」
リオラは悪びれずに言った。
「坊や、言ってたでしょ。借りを返したいって」
確かに言った。辺境伯の館からの帰り道、登録の抹消を取り消してくれた礼を言いかけて、どう返せばいいのか分からないと口にした。
古坑の件も、遺構の件も、全部まとめて借りになっていると。
「じゃあ、屋根の修理。それで帳消し」
「それだけで、ですか」
「あら、屋根の修理を馬鹿にしちゃいけないわ。ここが直らないと、私の昼寝の場所がなくなるのよ。死活問題よ」
◇
割れた瓦を一枚ずつ剥がし、腐った板を外して、新しい板を打ちつけていく。
アルトが板を押さえ、リオラが釘を打つ。リオラの手つきは驚くほど慣れていた。金槌を振るうたびに、釘がまっすぐに板に吸いこまれていく。
「上手いですね」
「二百年あれば、屋根くらい直せるようになるわよ。冒険者って、仕事がない時期は何でもやるの。屋根の修理も、井戸掘りも、羊の毛刈りも」
「羊の毛刈りも」
「あれは難しかったわ。羊に三回蹴られた」
交代して、アルトが釘を打つ番になった。
一本目の釘を板に立て、金槌を振り下ろす。釘が斜めに曲がった。二本目。指を打った。
「いっ……」
「我が君。釘の角度の最適化を提案します。現在、左に十一度傾いています」
(……頼む)
「了解しました。視界に、打点を表示します」
板の上に、青い点が浮かんだ。そこに釘を立て、金槌を振り下ろす。今度はまっすぐに入った。
「あら、急に上手くなったわね」
「……コツを掴みました」
「ふうん」
リオラは小さく笑って、次の板を差し出した。
しばらく、二人で黙々と作業を続けた。金槌の音が冬の空に響く。風は冷たかったが日差しは柔らかかった。
眼下の大通りで、祭の後片付けを終えた人々が、いつもの仕事に戻っていくのが見えた。
途中で一度、休憩を挟んだ。
リオラが腰の革袋から黒茶の入った小瓶を取り出す。ザイードの天幕で買ったのだという。冷めていたが蜂蜜が入っていて甘かった。
「坊やに教わった焙り方、町じゅうに広まってるわよ。ザイードが、祭の三日で五百杯売ったって」
「五百……」
「坊やの名前は出してないみたいだけどね。南の故郷の焙り方だって言ってるらしいわ。あの人なりの気遣いね」
リオラは小瓶を傾け、それからふと思い出したように言った。
「そういえば、ハインリヒから聞いたわ。レオポルトのお母さん、マーサの宿によく通ってたんですって」
「……マーサさんから、少しだけ聞きました」
「そう。あの子、母親が死んだ年から急に笑わなくなったのよ。十二の時だったかしら」
リオラは東門のほうを見下ろした。詰所の前で、レオポルトがまだトマスに怒鳴られている。小さな人影はそれでも槍を立てて立っていた。
「一月、門に立って、荒野を見て。何か変わるといいわね」
「……変わりますかね」
「変わらなくても、立ったことは残るわ」
リオラはそう言って、空になった小瓶を懐にしまった。
最後の瓦を並べ終えた時、日はもう西に傾きはじめていた。
リオラが新しい瓦の上に寝転がった。ごろりと仰向けになり、腕を頭の後ろで組む。
「うん。いい寝心地」
アルトも隣に腰を下ろした。指がじんじんと痛い。金槌で三回打った左手の親指が、赤く腫れていた。
「我が君。親指の打撲を報告します。軽傷です」
(知ってる。痛いから)
リオラが手を伸ばし、腫れた親指を軽くつまんだ。
「いった……」
「エルフの体は治りが早いんでしょ。坊やがそう言ってたって、ダグから聞いたわ」
くすくすと笑う。アルトは顔が熱くなるのを感じた。
リオラが目を閉じたまま言った。
「坊や。一昨日、辺境伯が言ってた六人の話」
アルトの手が止まった。
「昨日の朝、国境まで送り返されたそうよ。ガストンが、護送の手伝いにうちの冒険者を何人か出したの」
「……そうですか」
「みんな、何も覚えてないんですって。森のことも、古坑のことも」
リオラはそれ以上は言わなかった。
アルトも、何も言わなかった。風が瓦の上を吹き抜けていく。
「我が君」
(……なんだ)
「リオラは、我が君が何かをしたと確信しています。ですが、何をしたのかは聞いてきません」
(分かってる)
「記録の消去について、我が君が話すことを推奨しますか、とは聞きません。判断は我が君のものです」
しばらくして、リオラがぽつりと言った。
「記憶って、消せるものなのかしらね」
目を閉じたまま。独り言のように。
「消したいことほど、ずっと残ってるのに。二百年経っても、ハルトが死んだ日の空の色を私はまだ覚えてるわ」
アルトは何も答えられなかった。
消せるのだ。NOAなら。そして、自分はそれを六人に使った。
けれど、消せなかったものもある。ユーリの胸の奥の理由の分からない痛み。それはたぶん、あの少年が生きている限り、ずっと残る。
「……消えないものも、あると思います」
ようやく、それだけ言った。
「出来事は忘れても、その時に感じたものは。どこかに残るんだと思います」
リオラが目を開けた。
灰青の瞳がしばらくアルトの横顔を見ていた。
「そうね」
小さく言って、また目を閉じた。
「だったら、いいわね。忘れても、何かは残るなら」
◇
屋根の下から、聞き慣れた大声が響いてきた。
「アルトー! ギルドマスター! 屋根の修理、終わったかー!」
カイだった。ギルドの裏口の前で、両手を振っている。その隣に、ミナがいた。
首の銀の鈴が夕日を受けて光っている。そのさらに隣で、ガストンが腕を組んで屋根を見上げていた。
「ギルドマスター! また屋根の上で寝てるんですか! まだ書類が山ほど」
「寝てないわよ。修理の点検中」
「目を閉じて点検する人がいますか!」
ガストンの怒鳴り声は二十年前に泣きながらギルドに逃げこんできた少年のものとは、もう似ても似つかない。
ミナがくすくすと笑い、鈴がちりんと鳴った。
「我が君。本日の記録を、保留の分類に追加します。三件です」
(三件も?)
「ミレイユの笑顔。ミナ・ロウエルの笑い声。それから」
NOAが少しだけ間を置いた。
「屋根の上の、我が君の表情です」
(……俺、どんな顔してた)
「記録には残しましたが、表示はしません。我が君が嫌がると推定するので」
リオラが体を起こし、伸びをした。
その手がふと止まる。
灰青の瞳が町の西の方角を見ていた。大通りのずっと先、西の大門の向こう。夕日に染まった街道を、荷馬車の列がゆっくりとこちらへ近づいてくる。
十台以上はあるだろう。
先頭の馬車の上で、一本の旗が風にはためいていた。
深い緑の地に、銀糸で描かれた一本の大樹。
「我が君。あの紋章は」
NOAの言葉より先に、リオラが呟いた。
「……エルフィリアの、旗」
声から、さっきまでの柔らかさが消えていた。
リオラは立ち上がらない。瓦の上に座ったまま、近づいてくる旗を、長いあいだじっと見つめていた。




