第三十九話 辺境伯
「抹消、ですか」
声が自分でも驚くほど平らだった。
「我が君。冒険者登録を失えば、依頼を受けられません。ベルズでの収入が途絶えます」
(分かってる)
「麦の穂亭の宿代は、残り十一日分です」
(そこまでは聞いてない)
ガストンが書状をもう一度読み直し、太い指でこめかみを揉んだ。
「領主補助金ってのはな、荒野の魔物の間引きの報酬に上乗せされてる金だ。あれがなくなったら、Cランク以下の連中の稼ぎが三割減る。赤狼の牙も三日月も、冬を越せなくなる奴が出てくる」
ガストンは書状を机に放った。
「お前一人を切れば、町の冒険者全員が助かる。役所の連中なら、迷わずそうするだろうよ」
アルトは何も言えなかった。
前世でも、こういう書類を何度も見た。誰か一人の責任にして、組織全体を守る。正しいのかどうかは分からない。
けれど、そういうふうに世の中は回っていた。
「……分かりました」
「我が君」
「俺が、町を出れば」
「誰が出ていいって言ったの」
扉が開いた。
リオラが立っていた。いつもの着崩した制服ではなく、きちんと襟を留めたギルドマスターの正装を着ている。
脇腹をかばう様子はもうなかった。白金の髪をきつく編み上げ、首の後ろでまとめていた。
「ガストン、その書状、貸して」
リオラは書状を受け取り、ざっと目を通した。それから、封蝋の紋章を指でなぞる。
「……ふうん」
口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「坊や。今から辺境伯の館に行くわ。ついてきなさい」
◇
館へ向かう坂道を、リオラは早足で歩いた。
祭の二日目の大通りを外れると、人通りはぐっと少なくなる。石畳の坂の両側に古い倉が並び、乾いた麦わらの匂いがした。
編んだ白金の髪が歩くたびに背中で揺れている。
「リオラさん。封蝋を見て、何か分かったんですか」
「ええ。あの子の字よ」
「あの子?」
「レオポルト。ハインリヒは、あんな回りくどい書き方はしないの。あの人なら用件を三行で書いて、最後に必ず『以上』って添えるのよ。三十年見てきたから分かるわ」
リオラは坂の途中で足を止め、振り返った。
「坊や。さっき、町を出るって言いかけたでしょ」
「……はい」
「二度と言わないで。あなたが一人で背負って出ていけば全部丸く収まるなんてこと、この町には一つもないの」
灰青の瞳がまっすぐにアルトを見ていた。
「ミレイユは自分のせいで坊やが追い出されたって、一生気にするわ。カイ君はきっと町を飛び出して追いかける。マーサは宿の部屋をずっと空けて待つでしょうね」
アルトは何も言えなかった。
「我が君。この個体の推定は、私の演算と一致します」
(……お前もか)
「はい。我が君がいなくなった場合の町の損失を演算しました。数値化できない項目が、多すぎます」
リオラはまた前を向いて、坂を上りはじめた。
辺境伯の館は町の北の高台にあった。
城というより、砦に近い。灰色の石を積み上げた分厚い壁に、小さな窓がいくつか並んでいるだけだった。
荒野の魔物が町を襲った時、最後に立てこもる場所として建てられたのだという。正門の脇で、衛兵が二人、槍を立てて立っていた。
リオラが名乗ると、衛兵は顔色を変えてすぐに奥へ走っていった。
「我が君。館の衛兵の反応から推定して、リオラはこの館で相当の信用を得ています」
(二百年、この町にいるんだもんな)
「はい。現在の辺境伯の祖父の代から、と推定します」
通されたのは書類に埋もれた執務室だった。
壁一面の棚に、羊皮紙の束と帳簿がぎっしりと詰めこまれている。大きな机の上にも、書きかけの書状や地図が山のように積まれていた。
インクと古い紙の匂いがする。
机の向こうに、男が一人座っていた。
五十代の半ばだろう。白髪の混じった栗色の髪を短く刈りこみ、左の頬に古い刀傷がある。質素な灰色の上着の袖口に、インクの染みがついていた。
分厚い眼鏡の奥の目が書類から顔を上げてリオラを見た。
「リオラ殿。祭の最中に、珍しいな」
「ハインリヒ閣下。お忙しいところ失礼します」
リオラが軽く頭を下げた。アルトもそれに倣う。
東辺境伯ハインリヒ・フォン・ベルツ。ベルズとその周辺の荒野を治める領主だった。
「古坑の件の報告は、先日受け取った。星国の痕跡のこと、遺構の封鎖のこと。よく処理してくれた」
「恐れ入ります」
「それで、今日は何の用だ」
リオラは書状を机の上に置いた。
「これについて、閣下のご意向を伺いに参りました」
ハインリヒは眼鏡を押し上げ、書状を手に取った。
読み進めるにつれて、眉間の皺が深くなっていく。最後まで読み終えると、封蝋をじっと見つめた。
「……私は、こんなものを書いた覚えはない」
低い声だった。
「我が君。辺境伯の心拍と表情から推定して、この発言は事実です」
「辺境伯家の封蝋を持っているのは、私と家令と、それから」
ハインリヒが言葉を切った。
「息子が、祭の間だけ持たされている」
執務室が静かになった。
ハインリヒは書状を机に置き、両手で顔を覆った。長いため息が指の間から漏れる。
「リオラ殿。事情を聞かせてくれ」
リオラは懐から、折り畳んだ紙の束を取り出した。
「今朝の広場の件について、見ていた者たちの話を書き留めてきました。ギルドの受付ミレイユ。焼き栗売りのオットー。水汲みの女たちが四名と、冒険者が三名。それと、豆売りのザイード」
アルトは思わずリオラを見た。今朝の騒ぎから、まだ半日も経っていない。その間に、これだけの証言を集めてきたのだ。
「我が君。この個体は、我が君がガストンに呼び出されている間に、広場を回っていたと推定します」
(いつの間に)
「屋根の上からは、なんでも見えるそうです」
ハインリヒは証言の束を一枚ずつ読んでいった。読むほどに、顔の刀傷が白く浮き上がっていく。
「……ギルドの受付嬢の手首を掴み、館の宴の給仕を強要した。断られると炎の魔法で脅した。止めに入った鉱夫の息子を、父親の死を持ち出して侮辱した」
ハインリヒが証言の束を置いた。
「そして、エルフの冒険者の詠唱の失敗に巻きこまれて、噴水に落ちた」
最後の一文を読む時、ハインリヒの口元がほんのわずかに動いた気がした。
「我が君。辺境伯の口角が、二ミリ上がりました」
(笑ったのか)
「笑いを堪えたと推定します。領主としての立場が、それを許さないのでしょう」
◇
「レオポルトを呼べ」
ハインリヒが扉の外に声をかけた。
しばらくして、着替えを済ませたレオポルトが執務室に入ってきた。乾いた深紅の上着に、きれいに撫でつけ直した金髪。
だがリオラとアルトの姿を見た瞬間、顔色が変わった。
「父上、これは」
「この書状を書いたのはお前か」
ハインリヒの声は静かだった。怒鳴ってはいない。だがレオポルトの肩がびくりと跳ねた。
「……その耳長が、僕を噴水に」
「書いたのは、お前か」
「……はい」
ハインリヒは立ち上がった。机を回りこみ、息子の前に立つ。背丈は息子のほうが少し高い。
それなのに、レオポルトがひどく小さく見えた。
「お前は、領主補助金が何のためにあるか知っているか」
「……魔物の、間引きの」
「荒野の魔物を狩る者たちが、冬を越せるようにするためだ。彼らが狩りをやめれば、魔物は増え、町の城壁に押し寄せる。その金はベルズの一万二千の民の命の値段だ。お前が噴水に落ちた腹いせに、それを人質に取ったのだ」
レオポルトが唇を噛んだ。
「祭の間に家の封蝋を持たせたのは、お前が王都の学院で少しは領主の息子らしくなったと思ったからだ」
ハインリヒの声がわずかに低くなった。
「私の見誤りだった」
「父上……」
「受付の娘に、お前の口から詫びなさい。今日中にだ。それから、祭が終わったら、一月のあいだ東門の門番につけ。トマスの下でな」
「門番!? 僕が!?」
「荒野を見ろ。毎朝、毎晩。この町が何から守られているのかを、自分の目で見ろ。学院の本には書いていないことが、そこにある」
レオポルトは何か言い返そうとして、父親の目を見て、口を閉じた。
深々と頭を下げて、部屋を出ていく。扉の前で一度だけ振り返り、アルトを睨んだ。けれど、何も言わなかった。
扉が閉まると、ハインリヒは椅子に戻り、深く腰を下ろした。
「リオラ殿。見苦しいところを見せた」
「いいえ。閣下のお祖父様も、同じように若い頃は手がかかったと聞いておりますから」
「……あなたに言われると、返す言葉がない」
ハインリヒは苦笑した。それから、初めてまっすぐにアルトを見た。
「エルフの冒険者。アルトと言ったか」
「……はい」
「息子が迷惑をかけた。辺境伯として詫びる」
ハインリヒが頭を下げた。領主が新人の冒険者に。
「我が君。予想外の展開です」
(……俺もだ)
「い、いえ。俺は、魔法を失敗しただけで」
「そうか。不発の魔法だったと、聞いている」
ハインリヒは顔を上げ、眼鏡の奥の目を細めた。
「だが、従者の一人が妙なことを言っていた。不発にしては、息子の足元だけ、ずいぶん都合よく風が巻いていたと」
アルトの背中に、冷たい汗が流れた。
「我が君。表情を固定します」
「……運が、悪かったんだと思います。あの人の」
ハインリヒはしばらくアルトを見ていた。
それから、ふっと口の端を緩めた。
「そうだな。運が悪かったのだろう、息子の」
それ以上は何も言わなかった。
「古坑の救出の件も、聞いている。鉱夫三名を救った新人がいたと。礼を言う」
その言い方がほんの少しだけ含みを持っているように聞こえた。救出の件、とだけ言った。遺構の奥のことは何も。
「我が君。この人物は、リオラの報告の行間を読んでいる可能性があります」
(有能な人なんだな)
「はい。リオラが信頼する理由が分かります」
◇
執務室を辞そうとした時、ハインリヒがリオラを呼び止めた。
「リオラ殿。もう一つだけ」
リオラが振り返る。ハインリヒは机の上の書類の山から、一枚の報告書を引き抜いた。
「六日前、南の街道の巡回隊が、妙な旅人を六人保護した」
アルトの足が止まった。
「ロートリンゲンへ向かう古い道標の下で、眠りこんでいたそうだ。星国の巡礼を名乗っている。荷物は旅の道具だけで、怪しいものは何も持っていなかった」
ハインリヒは報告書をリオラに差し出した。
「奇妙なことに、六人とも、ここ一月ほどの記憶がまるでないと言う。自分たちがなぜ連合の街道にいるのかも、どこから来たのかも。一番若い少年は、理由も分からずに泣いてばかりいるそうだ」
リオラは報告書を受け取り、目を落とした。表情は少しも変わらなかった。
「外交上、星国の神官を拘束し続けるわけにもいかない。明日、国境まで護送して送り返す」
ハインリヒは眼鏡を外し、布で拭いた。
「古坑の件の、星国の痕跡と、時期が重なるな。リオラ殿。何か、心当たりは」
リオラは報告書を畳み、ハインリヒに返した。
「いいえ、閣下。何も」
穏やかな声。
ハインリヒは眼鏡をかけ直してリオラを見た。それから、その一歩後ろに立つアルトを見る。
「……そうか」
辺境伯はそれだけ言って、書類の山に目を戻した。




