第三十八話 噴水
頭痛を抱えたまま、アルトは広場へ走った。
「我が君。酒精の残りを分解します。頭痛は三十秒ほどで治まります」
(昨日のうちに全部やってくれればよかったのに)
「昨夜は、我が君がいいとおっしゃいました」
(……そうだったな)
広場の噴水の周りに、祭の二日目の朝の人だかりができていた。屋台の準備をしていた商人たち。朝の水汲みに来た女たち。
前夜の酒が残った顔の冒険者たち。誰もが遠巻きに噴水のほうを見ているだけで、近づこうとはしない。
噴水の縁の前に、若い男が立っていた。
年はアルトの見た目と同じくらい。人間でいえば十八か十九だろう。上等な仕立ての深紅の上着に、銀の飾りのついた長靴。
金髪をきれいに撫でつけ、細身の剣を腰に下げている。顔立ちは整っていた。だがその顔に浮かんでいる表情が、何もかもを台無しにしていた。
退屈と、侮りと、自分が何をしても許されると知っている者の笑み。
その手がミレイユの手首を掴んでいた。
「離してください」
ミレイユの声が震えていた。
「私は、ギルドの仕事で、広場の掲示板に張り紙を……」
「仕事なら後でいいだろう。今日は祭だ」
男は笑った。
「館の宴に給仕が足りなくてな。君くらい愛想のいい娘なら、父上も喜ぶ。日当は弾むぞ。ギルドの受付よりはずっとな」
「お断りします」
「断る?」
男の眉が上がった。手首を掴む指に力がこもる。ミレイユが小さく顔をしかめた。
「僕が誰か、分かって言ってるのか」
男の背後に、従者らしい屈強な男が二人、腕を組んで立っていた。人だかりの誰も、前に出ようとしない理由がそれだった。
「我が君。辺境伯の息子、レオポルト・フォン・ベルツと推定します。昨夜の馬車の窓にいた人物と、顔が一致します」
(リオラさんが近づくなって言ってた奴か)
「はい。近づかないことを推奨します」
ミレイユの目に涙が浮かんでいた。
(無理だろ、それは)
人混みをかき分けて、もう一人が前に飛び出した。
「おい! その手、離せよ!」
カイだった。
包帯を巻いた胴のまま、拳を握りしめてレオポルトの前に立ちはだかる。朝の水汲みの手伝いで広場に来ていたのだろう。
足元に木の桶が転がっていた。
「ミレイユさんが嫌がってんだろ!」
レオポルトがカイを見下ろした。上から下まで、ゆっくりと。包帯と、粗末な服と、ひびの入った長靴を。
「なんだ、お前は」
「カイ・ロウエル! 冒険者だ!」
「ロウエル……ああ、古坑で死んだ鉱夫の息子か。父上の報告書で名前を見たことがある」
レオポルトは鼻で笑った。
「鉱夫の息子が、辺境伯の息子に意見するのか。面白いな、この町は」
従者の一人が一歩前に出た。カイの胸ぐらに手を伸ばす。
カイの拳が上がりかけた。
アルトはその腕を掴んだ。
「……アルト?」
「やめとけ」
小声で言った。
「お前が殴ったら、お前が捕まる。ハンナさんとミナが泣くぞ」
カイの腕が震えていた。歯を食いしばっている。
「でも、ミレイユさんが」
「分かってる」
アルトはカイの前に出た。
◇
「すみません」
アルトは頭を下げた。深く。
「田舎から出てきたばかりで、町の作法がよく分からなくて。友達が失礼しました」
「我が君。演技の精度は、中程度です」
(黙ってろ)
レオポルトの目がアルトの顔から、くすんだ金の髪へ、そして長い耳へ移った。
「エルフか」
口の端が歪んだ。
「耳長が何の用だ。お前も僕に意見するのか」
「いえ、意見なんて。ただ、その人はギルドの受付で、張り紙の仕事の途中で。ギルドマスターに、早く戻ってこいって言われてるはずなので」
「ギルドマスター」
レオポルトの顔に、一瞬だけ苦いものが走った。
「あの女の名前を出せば、僕が引くとでも思ったのか」
「我が君。逆効果だったようです」
(……みたいだな)
レオポルトはミレイユの手首を離さないまま、空いた手を軽く上げた。
指先に、小さな炎が灯った。
人だかりがどよめく。後ずさる者もいる。
「王都の学院で、火の上級魔法を修めた」
レオポルトは炎を指先でくるくると回してみせた。
「耳長。お前の魔法は何級だ? 見せてみろ。僕より上なら、この娘は返してやる」
炎がだんだん大きくなっていく。拳ほどに。頭ほどに。
熱気がアルトの前髪を揺らした。
「我が君。この炎の式を解析しました。威力は中級相当。見せかけの演出が多く、実際の破壊力は低いです。ただし、制御が雑です。暴発の危険があります」
(ミレイユさんの顔の真横だぞ)
「はい。この個体は、それに気づいていません」
アルトは一歩下がり、腰の杖を抜いた。
「……分かりました。見せます」
人だかりがざわめいた。カイが後ろで息を呑む。
(NOA。俺が詠唱を失敗する。その隙に、あいつの足元の風を巻け。ミレイユさんの手首から指が離れるように)
「了解しました。噴水の位置は」
(あいつの真後ろだ)
「承知しています」
杖を構える。わざと腕を大きく振り上げ、目をぎゅっとつぶった。
「か、風よ……!」
声を裏返らせる。我ながらひどい詠唱だった。
杖の先から、ぷすっと情けない音がした。小さなつむじ風が杖の先で一回転して消える。
人だかりの誰かが吹き出した。
レオポルトも笑った。勝ち誇った顔で、指先の炎を高く掲げる。
「なんだ、それは。初級にもならないじゃないか」
その瞬間、レオポルトの足元で風が巻いた。
石畳の隙間から、渦を巻くように。ほんの一瞬、膝の高さまで。誰の目にも、アルトの失敗した魔法の残り風が、たまたまそこへ流れたようにしか見えなかっただろう。
レオポルトの体がぐらりと傾いた。
ミレイユの手首を掴んでいた指が、反射的に離れる。両腕が宙を泳いだ。指先の炎が上へ逸れて、空に向かってぽんと弾けて消えた。
長靴の踵が噴水の縁に引っかかった。
「う、わ」
盛大な水音がした。
冬の朝の、氷が浮きそうなほど冷たい噴水の水が、高く跳ね上がった。
広場がしんと静まり返った。
噴水の中で、レオポルトが尻もちをついていた。深紅の上着がずぶ濡れになり、撫でつけた金髪が額に張りついている。
口を開けたまま、何が起きたのか分からない顔をしていた。
アルトも尻もちをついていた。杖を振り回した勢いで、自分の足をもつれさせたのだ。半分は演技で、半分は本当に転んだ。
「す、すみません! 詠唱を失敗して、風が変なほうに……!」
声を上げながら、慌てて立ち上がるふりをする。もう一度転びそうになって、カイに支えられた。
最初に笑い出したのは屋台の準備をしていた焼き栗売りの親父だった。
つられて、誰かが吹き出す。それが広がっていく。水汲みの女たちが口元を押さえて肩を震わせ、冒険者たちが腹を抱えて笑い出した。
広場じゅうが笑い声に包まれた。
「我が君。目的を達成しました。ミレイユは解放され、炎の暴発もありません。我が君の詠唱は、広場の全員に失敗と認識されています」
(完璧だな)
「ただし、我が君の演技の評価は、低いままです」
(うるさい)
焼き栗売りの親父は笑いすぎて、鍋の栗をひとつ焦がしていた。水汲みの女の一人が桶を抱えたまま噴水の縁に腰を下ろして肩を震わせている。
張りつめていた広場の空気が、水しぶきと一緒にどこかへ流れていったようだった。
◇
従者たちが慌ててレオポルトを噴水から引き上げた。
ずぶ濡れの若者は唇を紫にして震えていた。寒さのせいだけではない。顔が赤い。
羞恥と怒りで、目が血走っている。
「貴様……」
レオポルトがアルトを睨みつけた。
「わざとやったな」
「ち、違います! 俺、本当に魔法が下手で……ギルドの水晶でも、三百十しかなくて……」
「我が君。その主張は事実です。偽装の範囲では」
人だかりの中から、声が飛んだ。
「その坊主の魔法が下手なのは本当だぞ! 前に工房の壁を吹っ飛ばして、ドワーフの爺さんに笑われてた!」
どこかの職人だった。あの日、バルドの工房の轟音を聞きつけて見物に来た一人なのだろう。周りがまた笑った。
レオポルトの顔がさらに赤くなった。
「……名前を言え」
「アルト、です。新人の」
「アルト」
レオポルトは歯の間から吐き出すように繰り返した。
「覚えておくぞ、耳長」
濡れた上着の裾から水を滴らせながら、レオポルトは従者を連れて広場を去っていった。人だかりが慌てて道を開ける。
背中に向かって、誰かがもう一度小さく吹き出した。
「我が君」
(なんだ)
「私も、覚えておきます」
(……何を)
「レオポルト・フォン・ベルツ。我が君を耳長と呼びました。三回です。記録に追加しました」
(記録って、どの記録だ)
「我が君の悪口を言った者の記録です」
(そんなもの、つけてたのか)
「はい。現在、十四名が登録されています」
十四名。そんなにいたのか。
(……消しとけ、とは言わないけど。使うなよ)
「記録するだけです。私は、記録を消しません」
ミレイユがアルトのところへ駆け寄ってきた。
手首が赤くなっていた。目にはまだ涙が残っている。それでも、いつもの明るい顔を作ろうとしていた。
「アルトさん、カイ君……ありがとうございました」
「俺は、魔法を失敗しただけで」
「はい、知ってます。すっごく失敗してましたね」
ミレイユは涙を拭いて、くすっと笑った。
「でも、失敗のおかげで助かりました。アルトさんの魔法、普通どころか普通以下でしたけど、今日だけは世界一の魔法でした」
「我が君。褒められているのか、判断に迷います」
(たぶん、両方だ)
カイがアルトの背中をばんと叩いた。脇腹に響いたのか、自分で顔をしかめている。
「お前、本当に魔法下手だな! でも、すっとしたぜ!」
昼前、アルトはひとりで麦の穂亭に戻った。
食堂の隅で黒茶を淹れていると、マーサが厨房から顔を出した。
「聞いたよ。辺境伯の坊ちゃんを、噴水に放りこんだんだって?」
「放りこんでません。魔法を失敗しただけです」
「そうかい」
マーサは鼻で笑い、前掛けで手を拭いた。
「あの坊ちゃんはね、小さい頃はこの宿にもよく来てたんだよ。母親に連れられてね。シチューが好きで、おかわりを三杯もする子だった」
意外な話だった。
「母親が死んでから王都の学院に放りこまれて、帰ってくるたびにああいう顔になっていくのさ」
マーサは窓の外の北の高台のほうを見た。辺境伯の館がある方角だ。
「だからって、ミレイユにしたことは許されないけどね。あんたがやったなら、よくやった。やってないなら、それでもいい」
そう言って、マーサは厨房に戻っていった。
「我が君。女将は、我が君の関与を確信しています」
(この町の人、勘が良すぎないか)
「同意します。ベルズは、隠し事に向いていない町です」
その日の昼過ぎ、アルトはギルドに呼び出された。
受付の奥の扉を開けると、ガストンが渋い顔で一枚の書状を手にしていた。封蝋には辺境伯家の紋章が押されている。
「新人。お前、何をやらかした」
ガストンは書状を机に叩きつけた。
「辺境伯家の名で、ギルドに通達だ。エルフの冒険者アルトの登録を、本日付で抹消せよ。従わなければ、ギルドへの領主補助金を打ち切る、と」




