第三十七話 酔いの告白
ギルドの一階の酒場はひどい騒ぎになっていた。
卓という卓に冒険者たちがひしめき合い、樽ごと運びこまれた麦酒を木の杯で汲んでは飲んでいる。誰かが卓の上に立って歌い、誰かがそれに野次を飛ばし、誰かが床に転がって寝ていた。
煙と酒と汗の匂いが混ざり合って、天井の梁まで白く霞んでいる。
「我が君。室内の騒音は、ゴブリンの巣の三倍です」
(比べる対象がおかしい)
「最も近い比較対象を選びました」
リオラに引きずられて入ってきたアルトを見て、何人かが杯を掲げた。
「おっ、エルフの新人だ!」
「古坑の英雄じゃねえか!」
「鉱夫を三人助けたんだってな!」
あっという間に囲まれる。誰かが杯を押しつけてきた。誰かが背中をばんばん叩く。
「英雄って、俺は岩を指さしてただけで」
「謙遜すんな! バルドの爺さんが、あの小僧の目がなきゃ全員死んでたって言いふらしてたぞ!」
(バルドさん……)
「我が君。バルド・グランハンマーは、遺構の奥の件を隠す代わりに、救出の件を誇張して広めているようです」
(話をそらしてくれてるのか)
「おそらく。不器用な方法ですが」
奥の卓に、見知った顔が並んでいた。
ダグが禿頭を真っ赤にして、両手剣を壁に立てかけたまま杯を傾けている。三日月の三人は一人がもう卓に突っ伏して眠っていた。
ガストンが書類仕事から解放された顔で、ひたすら串焼きを頬張っている。
「おう、坊主。生きてたか」
ダグが杯を掲げた。
「森の時は、ギルドマスターを背負って崖を上ってきたって聞いたぞ。今度は古坑で鉱夫を掘り出したってな。新人のくせに、働きすぎだ」
「……すみません」
「謝るとこじゃねえ」
ダグは鼻を鳴らし、アルトの杯に麦酒を並々と注いだ。
「飲め。新人は飲んで、潰れて、先輩に担がれて帰るもんだ。それがベルズの祭の掟だ」
「そんな掟、聞いたことないです」
「今作った」
リオラが隣で笑い転げていた。
受付のミレイユがお盆を抱えて卓のあいだを走り回っていた。
祭の日なのに、制服の上に前掛けをつけて、酒場の手伝いをしているらしい。アルトの前を通りかかると、ぱっと顔を輝かせた。
「アルトさん! 来てくれたんですね! 古坑の話、聞きました! すごいです!」
「……いえ」
「ギルドの記録に、ちゃんと書いておきましたからね。救出への貢献、大。新人とは思えない働き、って!」
ミレイユはそう言って、ふと首を傾げた。
「でも不思議ですよね。魔力の測定、普通でしたよね。三百十。私、すっごく普通だって太鼓判押したのに」
「我が君」
(分かってる)
「エルフは、目がいいので」
「あ、そっか! エルフさんですもんね!」
ミレイユは納得したように手を打ち、お盆を抱えて走っていった。
「その言い訳は、本日一回目です。ミレイユに対しては、通算五回目です」
(そろそろ、言い訳の種類を増やさないとまずいな)
「同意します。候補を演算しておきます」
◇
三杯目あたりから、記憶が曖昧になった。
「我が君。血中の酒精の濃度が、警戒水準を超えました。分解を代行しますか」
(……いい)
「よろしいのですか」
(祭だろ。今日くらいは、いい)
「了解しました。ただし、意識の喪失が予測される水準に達した場合は、分解を開始します」
(お前は、過保護だな)
「我が君の保護者のつもりはありません。機能の一部です」
(五日前は、そう言ってなかったぞ)
NOAは返事をしなかった。
ダグが若い頃の失敗談を語る。三日月の起きている二人が雷の魔法で杯の麦酒を冷やす。ガストンが二十年前にリオラに助けられた話をすると、リオラがその時のガストンの泣き顔を真似してみせて、酒場じゅうが笑いに包まれた。
ガストンは顔を真っ赤にして、もう一杯を一気に呷っている。
アルトも笑っていた。
何がおかしいのか、途中からよく分からない。それでも笑っている。
前世の会社の飲み会ではこんなふうに笑ったことは一度もなかった。上司の自慢話に相槌を打ち、終電の時間を気にしながら、早く帰って仕事の続きをしたいと思っていたのだ。
ここでは誰も明日の仕事の話をしない。
途中で、ダグがふいに杯を置いた。
卓の真ん中に、空の杯をひとつ伏せて置く。誰も座っていない席の前に。騒がしかった卓がほんの少しだけ静かになった。
「三十年前に死んだ、俺の最初の後輩の分だ」
ダグは誰に言うともなく言った。
「祭の夜だけは、こうして置くことにしてる。あいつ、酒が好きだったからな」
三日月の二人が黙って自分の杯を掲げた。ガストンも、リオラも。アルトも少し遅れて杯を上げる。
ダグは伏せた杯を見下ろして、鼻を鳴らした。
「坊主。お前もカイの小僧も、死ぬなよ。報告書が面倒だからな」
森の調査に出た朝、東門で聞いたのと同じ台詞だった。けれど今はその言葉の奥にあるものが少しだけ分かる気がする。
それから、ダグはまた馬鹿話に戻っていった。
「坊や。ちょっと、外の空気吸いに行きましょ」
気づけば、リオラが耳元で囁いていた。
手首を掴まれて、立ち上がらされる。足元がふわふわしていた。床が少し傾いているような気がする。
「我が君。床は傾いていません。我が君が傾いています」
(……そうか)
裏口から外に出て、雨樋を伝って屋根に登った。
どうやって登ったのか、後になっても思い出せなかった。リオラに引っ張り上げられたような気もするし、NOAが足場を示してくれたような気もする。
たぶん両方だ。
屋根の上は冷たい夜風が吹いていた。
頭がすっと冷える。けれど、体の芯はまだ熱かった。
眼下に、祭の夜のベルズが広がっていた。大通りの松明の列。広場の焚き火。
家々の窓の灯り。笛の音がまだどこかで続いている。
「きれいね」
リオラが瓦の上に腰を下ろした。脇腹をかばいながら、ゆっくりと。手には酒場から持ち出してきた瓶を下げている。
「毎年、ここから見るの。祭の夜のベルズ」
「……一人で、ですか」
「一人で。今年は、二人だけど」
リオラは瓶の栓を抜き、ひと口飲んでから、アルトに差し出した。
受け取って、口をつける。麦酒ではなかった。甘くて、強い。喉の奥がかっと熱くなった。
「エルフィリアの林檎酒よ。この町で手に入れるの、けっこう大変なの」
「……おいしいです」
「でしょう」
瓶の口から、かすかに森の匂いがした。エルフィリアの林檎は世界樹の根の近くで育つのだという。
里の裏の林にも、小さな酸っぱい林檎の木が一本だけあった。秋になると、ティオが落ちた実を拾い集めてはアルトのところへ持ってきたものだ。
その記憶は今夜、不思議と痛くなかった。
しばらく、二人で黙って町を見下ろしていた。
瓶を交互に傾ける。林檎酒の甘い香りが夜風に混じって流れていった。
「ねえ、坊や」
リオラが膝を抱えて言った。
「楽しかった?」
「……はい」
「そう。よかった」
リオラは小さく笑った。
「あなた、ベルズに来た時、ひどい顔してたのよ。気づいてた?」
「ひどい顔」
「何もかも終わったみたいな顔。屋根の上から見てて、ああ、この子は何かを失くしてきたんだなって思った」
アルトは何も言えなかった。
「でも、今日は笑ってたわ。酒場で、ダグの馬鹿話に」
リオラの横顔が松明の明かりにほんのりと照らされていた。
「それが見られたから、今年の祭は、いい祭」
酒のせいだったと思う。
あるいは屋根の上の風のせいか。祭の灯りのせいか。
「俺……」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「俺、こういうの、初めてなんです」
「こういうの?」
「仕事が終わって、みんなで笑って飲むの。前は、いつも一人で残って仕事してて。飲み会に出ても、早く帰りたいって思ってて」
「我が君」
NOAの声が遠くに聞こえた。
「酒精の分解を、開始しますか」
(……いい)
「ですが、我が君。前世に関する情報を」
(いいんだよ)
「毎日、夜中まで働いてたんです。朝が来ても、また同じ机に座って。誰も褒めてくれないし、誰も止めてくれなかった」
言葉が止まらなかった。
「それで、ある夜、胸が痛くなって。机に突っ伏して、そのまま」
リオラがこちらを向いた。
「……俺は一度、働きすぎて死んだんだ」
夜風が止んだ気がした。
自分が何を言ったのか、半分しか分かっていなかった。頭の奥で、NOAが何か言っている。けれど、言葉としては聞き取れなかった。
リオラはしばらく、黙ってアルトを見ていた。
それから、ぷっと吹き出す。
「なにそれ」
声を上げて笑う。瓶を落としそうになって、慌てて抱え直した。
「坊や、五十二でしょ。エルフの五十二なんて、まだ子供じゃない。いつ働きすぎて死ぬ暇があったのよ」
「……あ」
「酔っ払いの冗談にしては、なかなか面白いわね。今年いちばん笑ったわ」
リオラは涙を拭いながら笑い続けていた。
アルトもつられて笑う。何がおかしいのか、やっぱりよく分からなかった。
「我が君。酒精の分解を開始します。これ以上の情報の開示は、阻止します」
(……ああ、頼む)
頭の芯が急に重くなった。瞼が落ちてくる。瓦の冷たさが背中に伝わってきた。
いつの間にか、仰向けに寝転がっていたらしい。
星が近かった。
意識が遠のいていく直前、隣でリオラの笑い声が止まったのが分かった。
◇
リオラは眠ってしまった坊やの寝顔を見下ろしていた。
口を半開きにして、子供のような顔で眠っている。くすんだ金の前髪が夜風に揺れていた。
外套を脱いで、その体にかけてやった。
瓶に残った林檎酒を、ひと口だけ飲む。
「……働きすぎて、ね」
小さく呟いた。
五十二年しか生きていないエルフの子が、夜中まで机に向かう仕事を知っているはずがない。机に突っ伏して死ぬ、なんて話を、酔った勢いで作れるはずもない。
言葉の選び方がどう聞いても冗談の人間のものではなかった。
峡谷で見た、銀の髪の夢。
継ぎ手しか開けられない扉。坊やが触ると天井に映るという、古王朝の地図。
そして今夜聞いた、働きすぎて死んだという話。
一つ一つはばらばらの欠片だった。どう繋がるのか、まだ分からない。
リオラは星を見上げた。
分からないままでいい、とは思わない。けれど、無理に繋げようとも思わなかった。この子が自分から話したくなるまで。
二百年待つのに比べたら、たいした時間ではない。
「あなた、いったいどこから来たのよ」
答えは返ってこなかった。坊やの寝息だけが静かに夜風に溶けていった。
翌朝、アルトは麦の穂亭の自分の寝台で目を覚ました。
どうやって帰ってきたのか、まったく覚えていなかった。頭が割れるように痛い。
「我が君。おはようございます。昨夜、ダグに担がれて帰宅しました。ベルズの祭の掟は、守られました」
(……最悪だ)
「それと、我が君。昨夜の屋根の上での発言について、報告が」
その時、窓の外から甲高い悲鳴が聞こえた。
広場の方角だった。続いて、怒鳴り声。人々のざわめき。
「我が君。報告は後にします。広場で騒ぎが起きています」
窓に駆け寄る。広場の噴水の前に人だかりができていた。その真ん中で、若い男が誰かの手首を掴んでいる。
掴まれているのはギルドの制服を着た女性だった。
ミレイユだ。




