第三十六話 初霜の祭
ベルズの収穫祭は初霜が降りてから開かれる。
麦の穂亭の女将マーサが朝の黒茶を淹れているアルトにそう教えてくれた。
「余所の町じゃ、収穫祭ってのは秋の真ん中にやるもんだろう。でもここは辺境だからね。冬ごもりの支度が全部済んでから、蔵に入りきらなかった分をみんなで食べちまうのさ」
「食べちまう、ですか」
「腐らせるよりはましだろう。それに、冬が来る前に一度、腹の底から笑っておかないとね。荒野の冬は長いんだ」
マーサは鍋をかき混ぜながら、ふんと鼻を鳴らした。
「あんたも、今日くらいは仕事を休んで、ちゃんと食べな。屋台の串焼きでもなんでもいいから」
「……はい」
「我が君。女将の発言は、ベルズに来てから通算で四十七回目の『ちゃんと食べな』です」
(数えてたのか)
「はい。最も頻度の高い発言です」
昼前、宿の前でカイが待っていた。
脇腹の包帯はまだ取れていない。けれど、顔色はすっかり元に戻っていた。肋骨のひびも、治癒師が驚くほどの速さで塞がりかけているらしい。
遺構の網から流しこんだ魔力のおかげだと、NOAは言っていた。
カイの隣に、ミナがいた。
毛糸の帽子を耳まで被り、母親が縫ったらしい新しい外套を着ている。頬が林檎のように赤い。アルトの姿を見つけると、その場でぴょんと跳ねた。
「アルトさん!」
駆け寄ってくる。走っている。七日目の朝から、もう一月近くが経っていた。
それでも、ミナが走るたびに、アルトの胸の奥で何かが小さく鳴る。
「お祭り、お祭り! 早く行こう!」
「ミナ、走るなって。人が多いんだから」
「お兄ちゃんだって走ってるじゃん」
「俺はいいんだよ」
「よくないよ。お兄ちゃん、骨が折れてるんでしょ」
「ひびだって。折れてねえって」
兄妹のやり取りを聞きながら、アルトは少しだけ笑った。
後ろから、ハンナが小走りで追いついてきた。両手に大きな籠を抱えている。
「アルトさん、ごめんなさいね。この子たち、朝から落ち着かなくて」
「いえ」
「私は洗濯屋の手伝いで、広場の炊き出しに行かなきゃいけないの。二人をお願いしてもいいかしら」
「……はい」
ハンナは深々と頭を下げて、広場のほうへ急いでいった。
「我が君。またカイ・ロウエルの家族の保護を任されました。通算三回目です」
(数えなくていい)
◇
大通りは人で溢れていた。
普段は荷車が行き交う石畳の両脇に、色とりどりの屋台がずらりと並んでいる。焼き栗のはぜる音。蜂蜜を煮詰める甘い匂い。
羊の串焼きから立ちのぼる煙。どこかで笛と太鼓が鳴っていて、その音に合わせて子供たちが輪になって踊っていた。
家々の軒先には乾かした麦の穂を束ねた飾りが吊るされている。風が吹くたびにさらさらと乾いた音を立てた。
「すげえ……今年は屋台が多いな」
カイが目を輝かせた。
「去年より多い。たぶん、荒野の素材がよく売れたからだ。森が静かになって、狩りに行けるようになったって、赤狼の牙の連中が言ってた」
森が静かになった。
あの夜、黒角に絡みついていた白い文字をほどいた時から。
「我が君。東の森の生体反応は、暴走以前の七割まで回復しています。逃げた獣たちが、少しずつ戻ってきています」
(……そうか)
ミナが屋台の一つの前で足を止めた。
木の輪を投げて、棒に引っかける遊びだった。景品の棚には木彫りの小鳥や色硝子の首飾り、布でできた兎の人形が並んでいる。
「これ、やりたい」
「よし、兄ちゃんに任せろ!」
カイが銅貨を三枚払って、木の輪を三つ受け取った。一投目は棒の手前に落ちる。二投目は棒を大きく越えていく。
三投目は隣の屋台の鍋に飛びこんで、店主に怒鳴られた。
「……ごめん、ミナ」
「お兄ちゃん、下手」
「うるせえ」
ミナがアルトの袖を引いた。
「アルトさん、やって」
「我が君。輪の軌道の最適化を」
(しなくていい)
「ですが」
(祭だぞ。ずるはしない)
銅貨を払い、輪を受け取る。一投目。棒の根元に当たって跳ね返った。
二投目。届かなかった。三投目。
輪が棒の先端にかすって、くるくると回りながら、すとんと落ちた。
棒にかかっていた。
「入った!」
ミナが跳び上がった。店主が苦笑しながら景品の棚を指さす。ミナは長いあいだ迷ったあと、布の兎の人形を選んだ。
「我が君。今の軌道は、私の補助なしで成功しました。確率は約八パーセントでした」
(運が良かったな)
「はい。我が君にしては、珍しく」
◇
市場の南の外れで、ザイードの天幕にも人だかりができていた。
いつもは豆の袋を並べているだけの天幕の前に、小さな卓が出されている。卓の上で、湯気の立つ陶器の器がいくつも並んでいた。
「おお、アルト。来たか」
ザイードが皺だらけの顔をほころばせた。
「見てくれ。お前さんに教わった焙り方で、黒茶を出してみたんだ。一杯銅貨五枚。昼までに百杯売れた」
「百杯……」
「最初はみんな、苦いだの泥水だの言ってたがな。蜂蜜を少し垂らしてやったら、急に売れはじめた。ギルドのガストンなんぞ、朝から三杯飲んでいった」
ザイードは器を一つ、アルトに差し出した。
「お前さんの分だ。金はいらん」
ひと口すする。
苦い。けれど、その奥に甘い豆の香りがある。前世で飲み慣れたコーヒーとは少し違う。
それでも、この町の味だった。
「……おいしいです」
「そうだろう」
ザイードは目を細めた。
「故郷の村でもな、収穫が終わると、こうやってみんなで豆を焙って飲んだもんだ。畑が焼かれてからは、もう二度とそんな日は来ないと思ってたんだが」
老人は天幕の外の祭の喧騒を見つめた。
「来るもんだな。違う町でも」
カイがミナに器を持たせ、ミナがひと口飲んで、顔をくしゃくしゃにした。
「にがい!」
「蜂蜜入れてもらえよ」
「……入れても、にがい」
ザイードが声を上げて笑った。
天幕の奥では焙った豆の香りが白い煙になって漂っている。祭の喧騒の中で、そこだけ時間が少しゆっくり流れているように感じられた。
広場へ向かう途中、羊の串焼きの屋台の前でミナが立ち止まった。
炭火の上で脂がはじけ、香草と塩の焦げる匂いが立ちのぼっている。ミナは串焼きをじっと見つめたまま動かなくなった。
「食べたいのか」
「……食べたこと、ないの。硬いお肉は喉に詰まるからって、いつもお粥だったから」
カイが財布を覗きこんで顔をしかめた。輪投げで使いすぎたらしい。
アルトは銅貨を五枚払って串を一本受け取り、ミナに渡した。
ミナは両手で串を持ち、恐る恐るひと口かじる。噛む。もう一度噛む。
それから、目をまんまるにした。
「……おいしい」
声が震えていた。
「お兄ちゃん、お肉っておいしいんだね」
カイが何か言おうとして、言葉にならずに鼻をすすった。祭の煙のせいだと、あとで言い張っていた。
「我が君。保留の分類に、一件追加します」
(今日はいくつ増えるんだろうな)
「上限は設けていません」
昼過ぎ、広場の噴水の前でバルドと合流した。
祭の日だというのに、煤けた作業着のままだった。腰には酒の入った革袋を下げている。顔がもう赤かった。
「おう、小僧ども。遅えぞ」
「おっさん、昼間から飲んでんのかよ」
「祭だ。ドワーフは祭の日に素面でいると、ご先祖さまに叱られるんだ」
「絶対嘘だろ」
バルドはミナを見下ろして、ふっと目尻を下げた。
「お嬢ちゃん、元気になったな」
「うん! バルドのおじさん、お兄ちゃんに鶴嘴くれたんでしょ。ありがとう」
「くれてやったんじゃねえ。返しただけだ」
バルドは照れたように髭を掻いた。それから、懐から小さな木の箱を取り出して、ミナに差し出す。
「祝いだ。持ってけ」
箱の中には小指の先ほどの銀の鈴が入っていた。細い鎖がついている。振ると、澄んだ音がした。
「わあ……」
「工房の余りもんで作った。走る時に鳴るようにな」
ミナは鈴を首にかけ、その場でくるりと回った。鈴がちりんと鳴る。
◇
日が傾きかけた頃、ミナが言った。
「ねえ、お兄ちゃん。町の外、見たい」
カイが困った顔をした。
「今から丘まで行くのは無理だって。暗くなるし」
「じゃあ、壁の上は? お祭りの日は、登っていいんでしょ」
祭の間だけ、東門の脇の城壁の階段が子供たちにも開放される。門番のトマスが見張りついでに、上に登った子供たちに荒野の話をしてやるのが、毎年の習いなのだという。
三人で城壁の上に登った。
風が強い。トマスが階段の上でこちらに気づき、片手を上げた。
「おう、森の向こうから来た坊主か。それと、ロウエルの子らだな」
ミナは城壁の縁に駆け寄り、石の胸壁から身を乗り出した。
目の前に、灰色の荒野が広がっていた。
夕日に照らされて、どこまでも続く乾いた大地が、赤銅色に染まっている。地平線の彼方に、白峰山脈の稜線が薄く霞んでいた。
冷たい風が砂の匂いを運んでくる。
ミナは何も言わなかった。
ただ、胸壁の縁を両手で握りしめて、長いあいだ荒野を見つめていた。
「……広いね」
ようやく、小さな声がした。
「ずっと、窓から屋根しか見えなかったの。世界って、こんなに広かったんだね」
カイが妹の隣に立ち、黙ってその頭に手を置いた。
アルトは少し離れたところから、二人の背中を見ていた。
「我が君。ミナ・ロウエルに関する、保留の分類の記録が、本日だけで九件増えました」
(そうか)
「この分類の記録は、合計で二十三件になりました。そろそろ名前をつけるべきかもしれません」
(何かいい名前、あるのか)
「演算中です。まだ、見つかりません」
ミナが振り返った。夕日を背にして、首の鈴がちりんと鳴る。
「エルフさん」
小さな声だった。カイには聞こえていない。
「エルフさんの森も、この向こう?」
荒野のさらに東。山脈の向こう。
「……ああ」
「いつか、見てみたいな」
ミナはそう言って、また荒野のほうへ向き直った。
城壁を降りた時には空はもう群青に変わっていた。
大通りに松明が灯され、昼間とは違う祭のざわめきが町を包んでいる。酒場の扉が開け放たれ、中から歌声が溢れ出していた。
西の大門のほうから、蹄の音が近づいてきた。
人混みがざわめきながら左右に割れていく。黒塗りの馬車が一台、六騎の護衛を従えて大通りを進んできた。
扉に、辺境伯家の紋章が描かれている。
窓の帳がわずかに開いて、中から若い男が外を覗いていた。祭の人々を見下ろす目が退屈そうに細められている。
「我が君。あれが、リオラの言っていた」
(近づかないこと、だったな)
馬車が通り過ぎていく。アルトはカイとミナを人混みの陰に引き寄せた。
その時、背後から誰かに襟首を掴まれた。
「見つけた、坊や」
振り返ると、リオラが立っていた。いつもの着崩した制服ではなく、深い緑の外套を羽織っている。片手に酒の瓶を下げ、頬がほんのりと赤い。
「カイ君、ミナちゃん、ごめんなさいね。この子、借りていくわ」
「え、あ、はい」
「リオラさん、俺は」
「祭の夜は空けておきなさいって、言わなかったかしら」
「言われてません」
「じゃあ今言ったわ」
リオラはにっこりと笑った。
「ギルドの打ち上げよ。新人は強制参加。逃げたら、明日から溝さらいの依頼しか回さないから」




