第三十五話 事故報告
麦の穂亭に戻ると、厨房からシチューの匂いがした。
朝からシチューを煮ている宿は、ベルズでもここくらいだろう。マーサは鍋の前に立ったまま、泥だらけのアルトを頭のてっぺんから足の先まで眺めた。
「……顔を洗っといで。それから座りな」
何も聞かれなかった。
井戸の冷たい水で顔を洗い、食堂の隅の席に座る。目の前に大きな椀が置かれた。いつもの倍はある。
湯気の向こうで、肉と根菜がごろごろと転がっていた。
「全部食べるまで、席を立つんじゃないよ」
「……こんなに、食べられません」
「食べられなくても食べな。一晩じゅう何をしてたのか知らないけどね、あんたの顔は、何も食べてない奴の顔だ」
マーサはそれだけ言って、厨房に戻っていった。
ひと口すくって口に運ぶ。熱い。舌が焼けそうになる。
それでも、二口目、三口目と匙が止まらない。体の芯に、温かいものが少しずつ戻ってくる。
「我が君。女将の、ちゃんと食べな、の亜種です。分類に迷います」
(同じでいいだろ)
「いいえ。今回は、命令形の強度が高いです」
椀が空になる頃には指の震えが止まっていた。
◇
ギルドマスター室の扉を開けると、先客がいた。
バルドが長椅子にふんぞり返って座っている。煤けた顔はそのままで、髭に昨夜の土埃がこびりついていた。
その隣には包帯で胴をぐるぐる巻きにされたカイが、毛布にくるまって座っていた。
「アルト!」
カイが立ち上がろうとして、脇腹を押さえて呻いた。
「無理すんな」
「いや、平気だって。ちょっと腹が痛えだけで……いてててて」
「肋骨のひびが広がってるのよ。座ってなさい」
窓辺の椅子から、リオラの声が飛んだ。脚を組み、膝の上で書類の束を弄んでいる。
カイは素直に座り直した。顔色はまだ白いが昨夜の土気色に比べればずっとましだった。
「我が君。カイ・ロウエルの魔力は、総量の六割まで回復しています。数日で元に戻るでしょう」
(よかった)
「はい」
「さて」
リオラが書類の束を机の上に放り出した。
「全員揃ったところで、報告を聞かせてもらおうかしら。バルドからは、何も見てねえって話しか聞けなかったから」
「見てねえもんは見てねえ」
バルドが腕を組んでそっぽを向いた。
「白い回廊と、壁の絵と、でけえ石板。そこまでは見た。その先は暗くてよく見えなかった。俺はドワーフだが、もう年でな。目が悪いんだ」
「昨日まで、百年は目がいいって自慢してたじゃない」
「昨日の夜、急に悪くなった」
リオラが小さく吹き出した。
「それにしても、目が悪くなったわりには、帰り道で鉱夫の数を正確に数えてたって聞いたけど」
「数は耳で数えた。ドワーフは耳もいいんだ」
「さっき年だって言わなかった?」
「目だけが年なんだよ」
カイがおろおろと二人を見比べていた。
「え、えっと、俺は……途中で気絶しちまって、あんまり覚えてねえんだけど」
カイは毛布の端を握りしめた。
「白い服の、変な連中がいて。光る鎖みたいなのがアルトに向かってって。それで、俺が飛び出して……そこから先が、真っ暗で」
カイがアルトを見た。
「起きたら、おっさんの背中の上だった。アルト、あの後どうなったんだ?」
三人の視線がアルトに集まった。
「我が君。説明の方針を」
(……話せることだけ話す)
「了解しました」
アルトは窓の外を見た。冬の朝の光がベルズの屋根を白く照らしている。
「遺構の奥に、星読み院の神官たちがいました。六人。森で獣を暴れさせた連中です」
リオラの指先が机の上でぴたりと止まった。
「戦いになりました。カイが鎖に捕まって、魔力を吸われて。……そのあと、遺構の仕掛けが動いたんです。番人と、床と、壁が。連中の鎖が連中自身に跳ね返って、全員倒れました」
「遺構の仕掛けが、ひとりでに?」
「……はい」
嘘ではなかった。全部を言っていないだけだ。
「連中は、気を失っていました。殺してはいません。夜のうちに、連中が掘ってきた穴から外に運び出して、南の街道に置いてきました」
「一人で、六人を?」
「……はい」
リオラはしばらく黙ってアルトを見つめていた。
それから、ふっと息を吐いた。
「そう」
それだけだった。どうやってとも、なぜとも聞かなかった。
「目を覚ましたら、自分たちが何をしてたのか覚えてないと思います。たぶん」
「たぶん、ね」
リオラが小さく繰り返した。灰青の瞳が一瞬だけ細くなる。けれど、それ以上は何も言わなかった。
アルトは背負い袋を開けた。
中から、抜き取ってきた品々を取り出して机に並べる。二つに割れた黒い石。細かな文字がびっしりと書かれた聖文の写し。
それから、折り畳まれた一枚の羊皮紙。
「連中の荷物から、抜いてきました」
リオラが黒い石を手に取った。割れ目を光にかざし、眉をひそめる。
「星図の核……。星読み院が、遺物を探すのに使う道具ね。二百年前に一度だけ見たことがあるわ」
次に、羊皮紙を広げた。
目が文字を追っていく。途中で、リオラの表情がわずかに硬くなった。ベネディクトの報告書だ。
アルトの名前と、魔力三百十という数字が書かれている。
リオラは何も言わずに羊皮紙を畳んだ。それから、机の脇の燭台の炎に、その端をかざした。
羊皮紙が燃えていく。黒い灰になって、燭台の皿に落ちた。
「我が君。処分の手間が省けました」
(……ああ)
リオラは何事もなかったように、次の品へ手を伸ばした。
「それと、これです」
アルトは懐から白い円盤を取り出した。
手のひらほどの何も刻まれていない白い石。机の上に置くと、松明の光を鈍く映した。
「遺構の一番奥の部屋にありました。連中が探していたのは、たぶんこれです」
「なんなの、これ」
「地図です」
リオラが顔を上げた。
「古王朝の時代の大陸の地図。世界樹の在り処と、遺構の場所が記録されています。……俺が触ると、天井に映ります」
言ってから、しまったと思った。
俺が触ると。そんなことを言えば、自分が普通ではないと白状しているのと同じだ。
「我が君。情報を過剰に開示しました」
(分かってる。もう遅い)
リオラは円盤をじっと見つめていた。手を伸ばしかけて、やめる。代わりに、アルトの顔を見た。
「映してみせて、とは言わないわ」
「……」
「バルドの目が悪くなったみたいに、私も今日は、ちょっと耳が遠いのよ。坊やが今、何て言ったのか、よく聞こえなかった」
バルドが鼻を鳴らした。カイだけがきょとんとしている。
◇
「それで、ここからが私の仕事」
リオラが椅子から立ち上がった。脇腹をかばいながら窓辺に立ち、腕を組む。
「今回の件は、落盤事故として処理するわ」
「事故?」
カイが声を上げた。
「だって、あいつら、わざと崩したんだろ? 森の獣だって」
「ええ。でもね、カイ君。神聖星国の神官が連合の領内に潜りこんで森ひとつ殺して、町の地下を掘り返してたって公式の記録に残したら、どうなると思う?」
「どうって……向こうが悪いんだから、謝らせりゃいいじゃねえか」
「謝らないわよ、あの国は」
リオラの声が少しだけ冷たくなった。
「証拠を出せと言われて、出したら、その証拠をどこで手に入れたかを聞かれる。誰が神官たちを倒したのか。どうやって。その答えを、連合の役人や星国の外交官の前で、坊やに話させるつもり?」
カイが口をつぐんだ。
しばらくして、カイがぽつりと言った。
「……ずりいな、大人って」
「ええ、ずるいわよ。ずるくないと、守れないものもあるの」
リオラはそう言って、少しだけ寂しそうに笑った。
「辺境伯には、私から直接話すわ。星国の連中の痕跡があったこと、連中は逃げたこと。それだけ。遺構は崩落の危険があるから、ギルドの管理で封鎖する。表向きの記録は、地下水脈で岩盤が緩んだ落盤事故。鉱夫三名は無事救出。めでたしめでたし」
リオラは机の上の円盤を指先で軽く叩いた。
「これは、ギルドマスター預かりの遺物として、私の金庫にしまっておく。持ち主が取りに来るまでね」
「持ち主って」
「さあ、誰かしら」
リオラはとぼけた顔で言った。
「我が君。この個体は星国との外交問題を避けることと我が君を隠すことを、一つの処理で同時に達成しようとしています」
(……すごいな)
「同意します。効率的です」
リオラは最後に、聖文の写しを手に取った。
細かな文字がびっしりと並んだ羊皮紙を、一枚ずつめくっていく。途中で指が止まった。
「……この書き方、覚えがあるわ」
「書き方?」
「二百年前、ロートリンゲンの森で、神官の死体から同じような写しを拾ったの。星読み院の写本は、写した者ごとに文字の癖が出るのよ。この丸い払い方は、あの時の写しとそっくり」
リオラは写しを丁寧に重ね直した。
「同じ師匠に習ったか、その弟子に習ったか。星読み院って、そういうところは律儀なの。何百年経っても、同じ書き方を同じように教え続けてる」
変わらないもの、とアルトは思った。三千年前の聖文と今の聖文が、同じ文法で書かれていたように。
「これも金庫行きね。何かの役に立つかもしれないわ」
リオラは円盤から手を離し、アルトの前に立った。
見下ろされる。灰青の瞳が真正面からアルトを見ていた。
「坊や。一つだけ言っておくわ」
「……はい」
「あなたが何者でも、ベルズにいる間は私の冒険者よ」
静かな声だった。
「私の冒険者が危ない目に遭ったら、私が出ていく。私の冒険者が隠したいことがあるなら、私が一緒に隠す。それがギルドマスターの仕事なの。二百年、そうやってきたのよ」
喉の奥が熱くなった。
何か言わなければと思った。けれど、言葉が見つからない。
「……ありがとう、ございます」
「お礼はいいわ。その代わり」
リオラの口元に、いつもの笑みが戻った。
「次に一人で六人も背負って夜通し歩くような真似をしたら、本気で怒るから。覚えておきなさい」
「それと、もう一つ」
部屋を出ようとした三人を、リオラが呼び止めた。
「連中は、六人だったのね」
「……はい」
「最初から?」
アルトは少しだけ迷った。
「最初は七人だったそうです。一人は、先に星都へ帰っています」
リオラの顔から、一瞬だけ表情が消えた。
「……そう。なら、また来るわね」
窓の外を見る。南西の空。神聖星国のある方角だった。
ベルズの屋根に降りた霜が朝日を受けて溶けはじめている。白く光っていた瓦が端から少しずつ濡れた色に変わっていく。
「来るまでに、少し時間はあるでしょう。星都は遠いもの。それまでは、せいぜい普通に暮らしましょ」
リオラは振り返り、ぱんと手を叩いた。
「ちょうどいいわ。五日後から、収穫祭よ」
「収穫祭!」
カイの目が輝いた。毛布にくるまったまま、身を乗り出す。
「そうだ、今年はミナも行けるんだ! 生まれて初めて!」
「ええ。だからカイ君は、それまでに治しておくこと」
リオラはそう言ってから、少しだけ顔をしかめた。
「ただ、面倒なのが一人帰ってくるのよね。祭の間だけ、辺境伯の館に」
「面倒なの?」
「辺境伯の息子。王都の学院から、毎年祭の時だけ帰ってくるの」
リオラは肩をすくめた。
「坊や、悪いことは言わないわ。その子には近づかないこと」




