第三十四話 冷たい演算
七人目を追う手段はなかった。
国境を越えた者を追いかけて、連合の外まで走っていくわけにはいかない。走ったところで、どこにいるのかも分からない。
カラムの記憶に残っていたのは、隠密の背中が森の西の闇に消えていく光景だけだった。
「我が君。七人目が知っているのは、遺構の位置だけです。我が君の存在は知りません。星図の核が示したのは、場所であって人ではありません」
(場所が分かれば、また来る)
「はい。来ます」
アルトは懐の上から、白い円盤を押さえた。
連中が探していたものはここにある。次に来た者たちは空の台を見つけるだけだ。
(それで諦めてくれればいいけどな)
「諦めない確率のほうが、高いと推定します」
(分かってる。言ってみただけだ)
円盤の縁が外套越しに胸に当たっていた。三千年前の誰かが継ぎ手のために残したもの。星国はそれを四十年探し続けてきた。
七人目が星都に戻れば、また誰かが探しに来る。今度はもっと大勢で。
六人を運び出したのは夜が更けてからだった。
坑道から運び出すわけにはいかない。入口には鉱夫たちが詰めているし、バルドがカイを担いで出ていったばかりだ。
神聖星国の法衣を着た男を六人も担いで出ていけば、町じゅうが大騒ぎになる。
使ったのは連中が掘ってきた東の穴だった。
広間の東の壁に開いた、人ひとりがやっと通れるほどの狭い穴。それが曲がりくねりながら地上へ続いている。
NOAの話では町の南東の丘の中腹に出口があるらしい。
「重量の補助をします。風の式で、体重を三割ほど肩代わりします」
カラムの痩せた体を背負う。思っていたよりもずっと軽かった。五十を過ぎた男の体は骨と皮ばかりだ。
穴の中は湿った土の匂いがした。天井が低く、何度も頭をぶつける。NOAが行く手の段差を青い線で示し、アルトはそれに従って一歩ずつ進んだ。
一人目を地上に出すまでに、半刻かかった。
残りは五人。
二人目を運んでいる途中で、穴の中ほどに小さな窪みがあるのに気づいた。
連中が寝泊まりしていた場所らしい。土の壁を削って広げた空間に、毛布が六枚畳まれている。燃え尽きた蝋燭の残り。
干し肉の包み紙。壁の窪みには小さな木彫りの星が一つ、祭壇のように置かれていた。
毛布の一枚の上に、折り畳んだ紙が載っている。
「我が君。手紙のようです。書きかけです」
拾い上げるつもりはなかった。けれど、松明の光の中で一行目の文字が目に入ってしまう。
――エステルへ。
その下に、几帳面な小さな字が並んでいた。今夜も星は黙っています。でも、森の音はずっとうるさいです。
きみなら、これが何て言っているのか分かるのかな。
文字はそこで途切れていた。
出すあてのない手紙なのだろう。見習いの神官が聖女に手紙を届ける手立てなど、あるはずがない。それでも書かずにはいられなかったのだ。
「我が君。聖女エステルの名です。王の産声を聞いたという」
(分かってる)
「回収を推奨しますか」
アルトは手紙を元のとおりに畳み、ユーリの荷物の一番奥に差しこんだ。
(これは、こいつのものだ)
「……了解しました」
NOAはそれ以上何も言わなかった。
丘の出口は灌木の茂みに隠されていた。
外に出ると、冷たい夜気が頬を打った。星が驚くほど近い。眼下に、南の荒野へ続く街道が白く伸びていた。
その先はロートリンゲン公国の方角だ。
三人目を運び終えた頃、NOAが言った。
「我が君。提案があります」
(……またか)
「街道ではなく、北の崖の下に置くことを提案します。高さは三十歩ほど。夜道で足を踏み外した事故として処理できます」
アルトの足が止まった。
「記憶は消去しましたが、この者たちが生きている限り、何かの拍子に我が君との接点が見つかる可能性はゼロではありません。崖の下であれば、その可能性は完全に消えます」
淡々とした声だった。荷物の置き場所を相談するような。
背中のユーリの体がずしりと重く感じられた。
「やめろ」
声が低くなった。
「そういうことを、言うな」
「……了解しました」
NOAはすぐに引き下がる。
だがその声には何の揺らぎもなかった。間違ったことを言った、とは思っていない声だった。
アルトは何も言わずに、ユーリを街道の脇の古い道標の下へ運んだ。
◇
最後の一人を運び終えたのは東の空が白みはじめる少し前だった。
崩れかけた石の道標の下に、六人が横たわっている。外套を体にかけ、荷物はそれぞれの枕元に置いた。
旅の途中で道に迷い、疲れて眠りこんだ巡礼のように見えるだろう。
ただ、荷物の中身だけは確かめた。
星図の核の欠片。陣を描くための聖文の写し。カラムの懐にあった、ベネディクトの報告書。
それらは全部抜き取って、自分の背負い袋に移した。
「報告書には、我が君の名と、ギルドの水晶の数値が記されています。処分を推奨します」
(燃やす。町に戻ってから)
「了解しました」
星図の核の欠片は手のひらの上でまだかすかに冷たかった。割れ目の奥で脈打っていた何かは、もう止まっている。
役目を終えた道具はただの黒い石に戻っていた。この石ひとつのために、森ひとつ分の命が吸い上げられたのだ。
アルトは道標にもたれて座りこんだ。
全身が鉛のように重かった。遺構の網から魔力を借りていたとはいえ、一晩じゅう人を背負って穴を往復したのだ。足が棒のようになっている。
六人の寝顔を見た。
カラムの顔は眠っていると穏やかだった。澄んだ目が閉じられると、ただの痩せた初老の男にしか見えない。
森ひとつを殺し、カイを取引の道具にした男とは思えなかった。
ユーリは子供のように体を丸めて眠っていた。頬にまだ涙の跡が残っている。
カラムの懐から抜いた報告書が、背負い袋の中でかさりと鳴った。この男は四十年探し続けた遺構に辿り着いた夜のことを、もう二度と思い出せない。
あの空っぽの驚きの顔も。
目が覚めた時、この少年は何を覚えているのだろう。何も覚えていないはずだ。それでも、胸の奥に理由の分からない痛みだけを抱えて。
「……なあ、NOA」
「はい」
「さっきの、崖の話」
「はい」
「お前、本気で言ってたよな」
NOAは少しだけ間を置いた。
「はい。最も確実な選択肢として提示しました」
「……そうか」
アルトは膝を抱えた。
夜明け前の風が冷たい。街道の向こうの荒野から、乾いた砂の匂いが流れてくる。
「NOA。俺は、さっき少しだけ」
言いかけて、言葉を探した。
「お前が、怖いと思った」
風の音だけがしていた。
NOAは何も言わなかった。
いつもなら、すぐに返事が来る。数字か、確率か、記録しておきますという言葉か。けれど今は何も返ってこなかった。
沈黙が長く続いた。
「お前のことを嫌いになったわけじゃない」
アルトは続けた。
「お前がいなかったら、俺は里で死んでた。砂海も越えられなかった。カイもミナもリオラさんも、たぶん助けられなかった。全部、お前のおかげだ」
「……」
「でも、お前は時々、人の命を数字で片づける。崖の下に置けば確率がゼロになるって。それは、正しいのかもしれない。でも」
うまく言葉にならなかった。
前世でも、こういう話は苦手だった。上司に、効率のために誰かを切り捨てろと言われた時。正しいのは分かっていた。
それでも、首を縦に振れなかった。結局は振ったのだけれど。
「……俺は、そういうのが嫌なんだ」
それだけ言って、アルトは黙った。
ずいぶん経ってから、NOAが口を開いた。
「我が君」
声がいつもより小さかった。
「先ほどから、ある演算をしています」
「……何の」
「我が君に嫌われる確率です」
アルトは顔を上げた。
「これまで、この演算をしたことはありませんでした。する必要がないと判断していました。我が君は私の創造主であり、私は我が君の機能の一部です。機能が創造主に嫌われるという事象は、想定の外でした」
NOAの声が少しだけ揺れた。
「ですが、先ほど我が君が怖いと言った時、私の演算の優先順位が勝手に入れ替わりました。他の演算をすべて後回しにして、この確率を求めはじめました。止められませんでした」
(……結果は)
「報告を、保留します」
(なんでだ)
「算出できない、と言うべきなのかもしれません。ですが、正確には」
NOAが一拍置いた。
「算出したくありません。私に、そういう判断ができることを、今初めて知りました」
アルトは何も言えなかった。
東の空がゆっくりと白んでいく。荒野の地平線が薄い灰色に縁取られていた。
「……崖の話は、もうするなよ」
「はい」
「確率がゼロになるとしても、だ」
「はい。記録しておきます。重要な記録として」
NOAの声がいつもの平らな調子に戻っていた。けれど、ほんの少しだけ、何かが違う気がした。
◇
ベルズの南門をくぐったのは朝の鐘が鳴る少し前だった。
門番の若い衛兵が眠そうな目でアルトを見て、片手を上げた。泥だらけの冒険者が朝帰りするのは、この町では珍しいことではない。
通りの角で、パン屋の窯にもう火が入っていた。焼ける麦の匂いが冷えた空気に混じって流れてくる。
煙突から白い煙がまっすぐに立ちのぼり、その向こうで空が少しずつ青くなっていく。
昨夜、地下の白い広間で起きたことが、急に遠い出来事のように思えた。
六人の頭の中から、二十五日分の時間を消した。森の獣を狂わせたことも、カイを鎖で縛ったことも、里に子供がいたかと尋ねたことも。
街道の道標の下で眠っている彼らにとって、それは最初からなかったことになっている。
自分だけが覚えている。
「我が君。私も覚えています」
(……そうだったな)
「はい。何を消したのか、その記録は残しています」
(それは、消しとけよ)
「消しません。我が君がいつか、あの夜の判断を振り返る時に必要になると推定するので」
麦の穂亭へ向かう前に、ギルドの前を通った。
まだ扉は閉まっている。通りには誰もいない。朝の冷たい空気の中で、石畳がうっすらと霜をかぶって白く光っていた。
ふと見上げると、ギルドの屋根の上に人影があった。
白金の髪が朝日を受けて光っている。脇腹をかばうように、少し体を傾けて座っていた。
「おかえり、坊や」
屋根の上から、声が降ってきた。いつもの柔らかい声だった。
「朝帰りなんて、いい度胸ね」
「……リオラさん。治癒師に、安静にしてろって言われてたんじゃ」
「言われてたわよ。だから、座ってるだけ」
リオラは片手をひらひらと振った。
「バルドが夜中にカイ君を担いで帰ってきたの。ギルドの治癒室に放りこんでいったわ。魔力が空っぽになりかけてたけど、誰かが補充したみたいに戻ってるって、治癒師が首を傾げてた」
アルトは何も言えなかった。
「それで、バルドが言うのよ。遺構の奥で何があったかは、坊やに聞けって。俺は見てねえ、何も見てねえって。酒臭い顔で三回も」
リオラの灰青の瞳が朝日の中でアルトを見下ろしていた。
「坊や。顔を洗って、朝ご飯を食べてから」
声は柔らかいままだった。
「ギルドマスター室に来なさい」




