第三十三話 消去
「繋げ」
アルトは言った。声に出していた。
「了解しました。遺構の理の網に接続します」
足の裏から、何かが流れこんできた。
冷たくもなく、熱くもない。深い井戸の底から汲み上げた水のような、澄んだ力。三千年のあいだ、誰にも触れられずにこの白い石の中を巡り続けてきたものだ。
それが足首から膝へ、背骨を伝って頭の奥のNOAへと流れていく。
視界が一変した。
理の層が開く。だがいつもとは見え方が違う。部屋の壁も床も天井も、すべてが青い文字の流れでできていた。
回廊を通って広間へ、広間から東の穴へ、さらにその先の坑道の奥まで。遺構全体が一つの巨大な式として、アルトの視界に広がっている。
> 遺構管理網:接続
> 管理者署名:継ぎ手
> 参照可能記録:三百十二件
「記録を参照します。大断絶期の、星の聖文の解析記録」
視界の隅で、文字が猛烈な速さで流れていった。
「……署名による保護の構造。鍵の組み方。三千年前の聖文と、現在の聖文は、基本の文法が同じです。古王朝の解析者たちは、鍵の半分を解いていました」
(半分で足りるか)
「足ります。カラムの鎖を書き換えるだけなら」
NOAがわずかに言い淀んだ。
「解析の完了まで、残り……四十秒」
(四十分が、四十秒)
「はい。それと、我が君」
(なんだ)
「解析の途中で、私の起動ログの、出所不明のデータの一部が参照されました。なぜ参照されたのかは、分かりません」
問い返す暇はなかった。
番人が立ち上がっていた。
白い巨体が壁際でバルドを押さえこんでいた男たちのほうへ向き直る。額の光は穏やかな青のままだった。
だがその動きにはもう迷いがない。
男の一人が短剣を投げた。番人の胸に当たり、甲高い音を立てて弾かれる。
番人は柱のような腕を伸ばし、男の体を壁に押しつけた。叩きつけたのではない。押さえつけただけだ。
男がもがいても、白い腕は微動だにしなかった。
「なんだ、こいつ……!」
もう一人の男が後ずさる。その足元の床から、白い石が盛り上がった。蔦のように男の足首に絡みつき、そのまま床に縫いとめる。
「我が君。遺構の防衛機構を起動しました。殺傷はしない設定にしています」
(それでいい)
バルドが肩で息をしながら、ぽかんと口を開けて番人を見上げていた。
「おい、小僧……こいつ、味方になったのか」
バルドの声がかすれていた。目に入った粉のせいで、まだ片目しか開いていない。
「……みたいです」
「みたいです、じゃねえよ」
バルドはもう一度だけ番人を見上げた。白い巨体の膝の裏に、さっき自分が金槌で入れた小さなひびが残っている。
バルドはそのひびを見つめて、なぜか少しだけ気まずそうな顔をした。
「解析、完了しました」
視界の中で、カイを縛る光の鎖の式が丸裸になった。
白く乾いた文字の連なり。その一行一行が何をしているのか読める。触れた者の魔力を汲み上げる式。
汲み上げた魔力を術者の陣へ送る式。送り先はカラムの足元の八芒星。
「書き換えるのは一か所です。送り先を」
(陣の、外側に向けろ)
「了解しました。送り先を、術者の陣から術者自身へ」
指先から、青い光の糸が走った。
糸が鎖の根元に触れる。白い文字の一行がほどけて、組み直される。
鎖の脈動が止まった。
カイの胸を締めつけていた光が、ふっと緩む。代わりに、その光は来た道を逆に辿りはじめた。カラムの足元の陣へ。
陣を素通りして、その上に立つ者たちへ。
カラムの顔色が変わった。
「これは……」
白い鎖がカラムの両腕に巻きついた。続いて、壁際の男たちに。番人に押さえつけられた者にも、床に縫いとめられた者にも。
鎖は彼ら自身の書いた式に従って、彼ら自身の魔力を吸い上げはじめた。
「馬鹿な。聖文の送り先を、書き換えるなど」
カラムが膝をついた。両手を組もうとするが指が震えてうまく組めない。
「人の手で……星の文を……」
澄んだ目がアルトを見上げていた。
怒りではなかった。恐れでもない。その目に浮かんでいたのは、信じていたものの底が抜けたような、空っぽの驚きだった。
「お前は……いったい、何を……」
カラムの体が前のめりに崩れた。
壁際の男たちも、一人また一人と力を失って床に倒れていく。
「我が君。吸い上げは、意識を失う手前で止めるよう調整しています。命に別状はありません」
(全員か)
「術を使った五名は、全員です」
五名。
アルトは広間の隅に目を向けた。
ユーリが燭台を抱えたまま、壁に背中をつけて立っていた。
鎖は彼には絡んでいなかった。彼は最後まで、術を重ねなかったからだ。
少年の膝ががくがくと震えている。燭台の炎も震えていた。
◇
まずカイだった。
駆け寄って、床に倒れたカイの体を抱き起こす。頬が冷たい。唇が紫がかっていた。
「NOA」
「魔力の残量、総量の一割未満。危険な水準です。遺構の網から魔力を移します」
カイの胸に手を当てる。足の裏から流れこんでくる澄んだ力を、そのままカイの体へ流しこんでいく。
ゆっくりと、少しずつ。乾いた土に水を染みこませるように。
カイの頬にわずかに赤みが戻った。
まぶたが震え、薄く開く。焦点の合わない目がアルトを探した。
「……アルト……?」
「ここにいる」
「あいつら……」
「もう大丈夫だ」
「そっか……よかった……」
カイは笑おうとして、そのまま目を閉じた。呼吸は深く、穏やかだった。
「我が君。魔力の回復は順調です。眠っているだけです」
膝から力が抜けそうになった。
「おい、小僧」
バルドが近づいてきた。金槌を腰に戻し、倒れた男たちを一人ずつ見て回る。それから、立ち上がった番人を見上げ、最後にアルトを見た。
しばらく、何も言わなかった。
「……遺構が、お前の言うことを聞いてやがるのか」
「……」
「いや、いい。聞かねえって言ったのは俺だ」
バルドは髭を掻いた。
「ただな。酒は一本じゃ足りなくなったぞ」
「……分かりました」
「カイは俺が担いでいく。坑道の入口で鉱夫どもが待ってるはずだ。お前はどうする」
「こいつらを、なんとかします」
バルドの目が倒れた男たちと、隅で震えるユーリを見た。
それから、アルトの目を、まっすぐに見た。
「殺すのか」
「殺しません」
「そうか」
バルドはそれだけ言って、カイの体を軽々と肩に担ぎ上げた。白い回廊のほうへ歩いていく。途中で一度だけ立ち止まり、振り返らずに言った。
「無茶はするなよ。……それと、あの坊主は、カイを縛らなかったぞ」
足音が回廊の奥へ遠ざかっていった。
◇
「我が君。提案があります」
NOAの声は平らだった。
「この者たちの記憶を、消去することを提案します」
アルトは動かなかった。
「遺構の網と、星の聖文の解析記録があれば可能です。消去の範囲は、連合の領内に入った時点から現在まで。約二十五日間。森で陣を張ったこと、この遺構を見つけたこと、我が君の顔と名前。すべてです」
(……頭の中を、書き換えるってことか)
「はい」
前世で、人の記憶を扱うシステムを作ったことはない。けれど、作ってはいけないものだということは知っていた。
誰かの頭の中に手を入れて、都合の悪いところを消す。それは人を人として扱わないことと同じではないのか。
「我が君の倫理的な抵抗は、理解しています」
NOAが言った。
「ですが、選択肢を整理します。消去しなければ、この者たちは我が君を星都に伝えます。殺害すれば、伝わりません。消去は、この二つの間にある唯一の選択肢です」
(殺すよりはましだって言いたいのか)
「はい。それに」
NOAが一拍置いた。
「この者たちは、森の獣を数千殺しました。リオラを死なせかけました。カイ・ロウエルの命を、我が君を連れ去るための取引に使いました。私は、この者たちに配慮する理由を見つけられません」
淡々とした声だった。間違ったことは何も言っていない。
それなのに、胸の奥で何かが小さく引っかかった。
「……カラムと、男たちは、消していい」
アルトは言った。
「了解しました。残る一名は」
ユーリはまだ燭台を抱えていた。
アルトが近づくと、少年の肩がびくりと跳ねる。逃げようとはしなかった。逃げる場所がないことは分かっているのだろう。
「……殺さないんですか」
ユーリの声がかすれていた。
「殺さない」
「どうして」
「お前は、カイを縛らなかった」
ユーリが唇を噛んだ。
長い沈黙のあと、少年は燭台を床に置いた。両手が膝の上で握りしめられている。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「……なんだ」
「シルヴェールの里に」
喉の奥で、何かが鳴った。
「子供は、いましたか」
広間が静まり返っていた。番人の額の光がゆっくりと瞬いている。
「我が君」
NOAの声が遠くに聞こえた。
アルトはユーリを見下ろした。青ざめた顔。泥にまみれた法衣の裾。
ずっと誰かに聞きたくて、誰にも聞けなかったことを、ようやく口にした顔だった。
「……いた」
ようやく、声が出た。
「水車が好きな子だった。俺が作った木の玩具を、いつも持って歩いてた」
ユーリの目から、涙がこぼれた。
声も上げずに、ただぽたぽたと、膝の上の拳に落ちていく。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉なのか、分からなかった。
「我が君。判断を」
(……こいつの記憶を残したら、どうなる)
「この者が星都に戻り、我が君のことを誰にも言わない可能性はあります。ですが、星読み院には聖女がいます。理を読める者です。この者の記憶を読まれれば、すべてが伝わります」
聖女。王の産声を聞いたという、白い髪の少女。
「残す価値と、残す危険を比較すると、危険のほうが大きいと判断します」
ユーリは顔を上げなかった。泣き続けていた。
この少年が覚えていれば、いつか何かが変わるかもしれない。星都の中で、里に子供がいたことを覚えている人間が一人でもいれば。
だがその一人のせいで、ベルズが焼かれるかもしれない。
「……消してくれ」
声が自分のものではないように聞こえた。
「了解しました」
NOAが少しだけ間を置いた。
「一つ、報告があります。消去できるのは、出来事の記憶だけです。その出来事に伴って生じた感情の痕跡までは、完全には消せません。この者は、理由の分からない何かを、胸の奥に抱えたまま生きることになります」
(……それでいい)
それでいい、と思った。それくらいは残っていてほしかった。
青い光の糸がユーリの額に触れる。少年の体から力が抜け、静かに床へ倒れこむ。燭台の炎が一度だけ大きく揺れて、元に戻った。
「消去を完了しました。全六名」
アルトは長いあいだ、倒れた六人を見下ろしていた。
広間はひどく静かだった。番人は額の光を瞬かせながら、また片膝をついている。男たちを床に縫いとめていた白い蔦は、いつの間にか石の床に戻っていた。
焦げた跡だけがさっきまでの戦いを覚えている。
手のひらを見下ろす。何も持っていない手だ。それなのに、ひどく重い。
「我が君。もう一つ、報告があります」
NOAの声が硬くなった。
「消去の際、カラムの記憶の一部を読みました。星図の核が遺構の方角を示した夜、カラムは隠密の一人を、先に星都へ帰しています」
(……一人?)
「はい。この探索隊は、最初は七名でした。七人目は既に連合の国境を越えています。この遺構の場所は、星都に伝わります」




