第三十二話 星の聖文
王の産声。
その言葉を聞いた瞬間、背中の皮膚が粟立った。
「我が君。覇気の抑制が揺らいでいます」
(……分かってる)
カラムと名乗りもしない男は、扉の縁に立ったまま動かなかった。背後の広間に、旅装の男たちが四人、音もなく散っていく。
それぞれが番人の死角を選び、壁際に身を寄せていた。最後に、白い法衣の少年が一人、遅れて広間に入ってくる。燭台を両手で抱えていた。
少年の顔は青ざめていた。年はカイと同じくらいだろう。
「師よ。番人が」
「動かぬ。案ずるな、ユーリ」
男は振り返りもせずに言った。
「あれはもう、侵入者を排除する番人ではない。継ぎ手を守る従者になった。継ぎ手が命じない限り、あれは膝をついたままだ」
(なんで、そんなことまで知ってる)
「星読み院は、古王朝の遺構を四十年探してきたと推定します。番人の仕組みも、記録で知っていた可能性があります」
男はようやく、アルトに向かって軽く頭を下げた。礼儀正しい、聖職者の礼だった。
「私は星読み院のカラム。星の御心に仕える者だ。……名乗るのが遅れたことを詫びよう」
声には少しも敵意がなかった。
「アルト。お前に危害を加えるつもりはない。お前は星都へ来る。星の御心が、お前を待っている」
「断ったら」
「断れぬよ」
カラムは静かに言って、バルドとカイを見た。
「お前の連れは、そうはいかぬがな」
背筋に冷たいものが走った。
穏やかな声のまま、この男はカイとバルドを殺すと言ったのだ。祈りの言葉と同じ調子で。
「我が君。この個体の心拍は終始一定です。殺意を口にする時も、変化がありません」
(慣れてるんだな)
「はい。あるいは、迷いがないのです」
◇
最初に動いたのは壁際の男たちだった。
四方から、短剣が投げこまれる。風を切る音が四つ。すべてバルドとカイを狙っていた。
「伏せろ!」
バルドがカイの頭を押さえつけて床に転がった。短剣が二本、頭上の壁に当たって火花を散らす。一本はバルドの外套の裾を床に縫いとめた。
最後の一本を、アルトは杖で叩き落とした。
「我が君。杖の反応速度は良好です」
(褒めてる場合か)
バルドが外套を引きちぎって跳ね起きる。同時に、壁際の男が二人、短剣を逆手に構えて突っこんできた。
「上等だ」
バルドが金槌を振り回した。ずんぐりとした体からは想像できない重い一撃が、先頭の男の短剣を根元から叩き折る。
男が飛び退いた。もう一人がバルドの背後に回りこもうとする。
カイがその足元に鶴嘴を振るった。
石の床に刃先が食いこみ、鋭い音が響く。男の足がもつれた。
「おっさんの後ろは俺だって言われてんだよ!」
叫んだカイが脇腹を押さえて顔をしかめる。肋骨にひびが入ったままなのだ。それでも、鶴嘴を握る手は緩まなかった。
カラムは扉の縁から一歩も動いていなかった。
両手を胸の前で組み、目を閉じている。唇が低く動いていた。詠唱だ。
けれど、アルトが知っている魔法の詠唱とは響きがまるで違った。言葉というより、数を数えているような、規則正しい抑揚。
カラムの足元に、白い光が滲み出した。
八つの頂点を持つ星。森の奥で獣たちの魔力を吸い上げていた、あの陣と同じ形だった。
「我が君。星の聖文の術式が展開されています。解析を開始します」
(どれくらいかかる)
NOAの答えが一瞬遅れた。
「……推定、四十分」
(四十分!?)
「術式の中核が、署名で保護されています。読める部分と読めない部分があります。読めない部分を迂回して式の全体像を組み立てるには、時間が必要です」
四十分。今まで、NOAがそんな数字を口にしたことはなかった。ゴブリンシャーマンの火球は数秒。
黒角に絡みついた式でさえ、ほんの数十秒で書き換えたのだ。
「黒角に残っていたのは、術者の手を離れた残り滓でした。今、目の前にあるのは、術者が生きて書き続けている式です。比較になりません」
カラムが目を開けた。
「星よ。迷える者を、御身の鎖で繋ぎとめたまえ」
白い陣から、光の鎖が伸びた。
一本ではない。三本、四本。蛇のようにうねりながら、まっすぐにアルトへ向かってくる。
杖を構えて、風を撃った。圧縮した空気の塊が先頭の鎖を正面から叩く。
鎖は揺らぎもしなかった。風が光の表面を撫でて、虚しく散っていく。
「星の聖文に、通常の魔法は干渉できません。式の階層が違います」
(壁抜きでも駄目か)
「壁は抜けても、星は抜けません」
(上手いこと言うな)
「褒めている場合ではないと、先ほど我が君がおっしゃいました」
横へ跳ぶ。鎖が床を打ち、白い石に焦げた跡を残す。二本目が足首をかすめた。
触れたところから、ぞっとするような冷たさが這い上がってくる。体の中の何かを、吸い出されるような。
「我が君。鎖は、触れた相手の魔力を吸い上げる式を含んでいます。森の獣たちと同じ死に方です」
喉の奥が凍った。
魔力を根こそぎ抜かれて、痩せ細って倒れていた鹿。灰色にくすんだ毛並み。
「我が君は偽装で魔力を三百十に見せています。ですが、鎖が吸い上げるのは本物の魔力です。触れ続ければ、偽装が剥がれます」
(剥がれたら、終わりだな)
「はい。この者たちは、我が君の正体を確信して星都へ持ち帰ります」
鎖は執拗だった。
一本をかわせば、別の一本が床を這って足元を狙ってくる。白い床に焦げた跡が増えるたびに、焼けた獣の毛のような匂いが鼻を突いた。
広間の空気が冷えていく。鎖が通ったあとの空気から、熱が吸い取られているのだ。
壁際ではバルドが二人の男を相手に金槌を振るっていた。重い一撃が空を切るたびに、男たちは猫のように身を翻す。
訓練された動きだ。ドワーフの怪力でも、当たらなければ意味がない。
「ちょこまか逃げやがって!」
バルドが吼えた。男の一人が懐から小さな袋を取り出し、中身をバルドの顔へ撒く。白い粉が舞い上がった。
「目潰しだ、おっさん!」
カイの叫び声。バルドが顔を背けて咳きこむ。その隙に、もう一人の短剣がバルドの肩口をかすめた。
革の上着が裂け、赤い線が走る。
「この程度で、ドワーフが倒れるかよ」
バルドは目を閉じたまま金槌を横薙ぎに振った。足音だけを頼りに。男の脇腹に柄の先がめりこみ、男が呻いて膝をつく。
「我が君。バルド・グランハンマーの負傷は浅いです。ですが、視界の回復には二分ほどかかります」
(二分も、あの二人を一人で押さえられるのか)
「押さえられると推定します。ドワーフの耐久力は、人間の三倍です」
アルトは杖を握り直した。頭の中で、解析の進み具合を示す青い数字がもどかしいほどゆっくりと動いていく。
> 解析進捗 四パーセント
三本目の鎖が壁際から回りこむように迫ってきた。
避けきれない。
杖を盾にしようとした瞬間、視界の端で何かが動いた。
「アルト!」
カイだった。
バルドの背後から飛び出して、アルトと鎖の間に体を割りこませてくる。鶴嘴を振り上げて、光の鎖を叩き落とそうとしていた。
鎖が鶴嘴の柄に巻きついた。
そのまま、カイの腕へ。肩へ。胸へ。
「が……っ」
カイの口から、声にならない息が漏れた。
光の鎖が淡く脈打つ。脈打つたびに、カイの顔から血の気が引いていく。頬がこけ、唇が白くなる。膝ががくりと折れた。
「カイ!」
「我が君。カイ・ロウエルの魔力が急速に減少しています。一般の人間は、魔力の総量が少ない。このまま吸われ続ければ」
NOAは最後まで言わなかった。
カイは膝をついたまま、それでも鶴嘴を離さなかった。
「……っ、アルト、逃げろ……こいつら、お前が狙いなんだろ……」
「黙ってろ!」
鎖に手を伸ばす。触れた瞬間、手のひらが焼けるように冷たくなった。引き剥がそうとしても、光はびくともしない。
◇
広間の隅で、燭台の炎が大きく揺れた。
ユーリと呼ばれた少年だった。
カラムの指示で、カイを縛る鎖をもう一本重ねようとしていたのだろう。両手を胸の前に掲げ、唇を詠唱の形に開いたまま、止まっていた。
少年の目が膝をついたカイを見ていた。
鶴嘴を握りしめたまま、アルトを逃がそうとしている、同い年くらいの少年を。
「ユーリ」
カラムの声が飛んだ。
「何をしている。重ねなさい」
「……師よ」
ユーリの声が震えていた。
「この人は、亜人ではありません。人間です。ただの、鉱夫の息子です」
「亜人に与する者だ」
「でも、友達を、庇っただけです」
少年の掲げた手がゆっくりと下がっていく。
「森でも、そうでした。あの冒険者たちも、きっと誰かを庇って……」
「ユーリ」
カラムの声は怒ってはいなかった。ただ静かで、深く、どこか悲しげだった。
「星を見なさいと、教えたはずだ」
「……ここは地下です、師よ」
ユーリが小さく言った。
「星が、見えません」
小さな声だった。けれど広間の白い壁に反響して、思いのほか遠くまで届く。
壁際の男たちの一人がちらりとユーリのほうを見た。咎める目ではない。同じことを一度は考えたことがある者の目だった。
それもすぐに逸らされて、短剣の構えに戻っていく。
カラムは長いあいだ少年を見つめていた。
それから、何も言わずにアルトのほうへ向き直った。組んだ両手に力がこもる。白い陣の光が強くなり、カイを縛る鎖がさらに締まった。
カイの喉から、かすれた呻きが漏れた。
「お前が来れば、この少年は離す」
カラムが言った。
「星都へ来なさい、継ぎ手よ。お前の血は、人の手で神の文を正すために要る。お前の友を救うのも、お前の手だ」
カイの顔がもう土気色になっている。
バルドが壁際の男たちを相手に金槌を振るいながら、こちらへ来ようとしていた。だが二人がかりで押さえこまれて、近づけない。
「我が君。解析の完了まで、残り三十六分」
(間に合わない)
「はい。間に合いません」
(偽装を解けば)
「鎖を力ずくで断ち切ることは可能です。ですが、この者たちは我が君の正体を見ます。生かして帰せば、星都に全てが伝わります」
NOAの声がわずかに低くなった。
「生かして帰さないのであれば、話は別です」
殺すか。見せるか。カイを見捨てるか。
三つしかないのか。
胸の奥で、何かが熱く膨れ上がっていく。体の奥に押しこめていた大河が、堰の隙間から溢れ出そうとしている。
カラムの眉がかすかに動いた。何かを感じ取ったのだ。
「我が君! 覇気が漏れています!」
(分かってる!)
拳を握りしめた。
その時、懐の奥が熱くなった。
白い円盤だ。ミナのお守りの隣で、それが脈打つように温かくなっている。足の裏から、あの低い響きが這い上がってきた。
床も壁も天井も、遺構全体がアルトの怒りに応えるように鳴りはじめている。
「……我が君」
NOAの声が変わった。
「遺構の理の網が、我が君に接続を求めています」
(接続?)
「番人と同じです。この遺構全体が、継ぎ手の命令を待っています。網には三千年分の魔力が蓄えられています。そして、網の中に、星の聖文を解析した記録が残っています」
NOAが一拍置いた。
「大断絶の時、古王朝は星の聖文と戦いました。その時の記録です」
背後で、重い音がした。
石と石が擦れ合う音。膝をついていた番人がゆっくりと立ち上がっていた。




