第三十一話 地図の間
扉の向こうへ一歩踏みこむと、足の裏に柔らかな響きが伝わってきた。
床がかすかに鳴っている。回廊の壁に手を当てた時と同じ、歌とも呼吸ともつかない低い音。それが今度は部屋全体から聞こえてくる。
「おい、小僧。急げ」
バルドが後ろを振り返りながら低く言った。広間の東側から、足音がはっきりと近づいてきている。
「我が君。侵入者の到達まで、推定で四分。あの穴から広間までの通路は狭く、曲がりくねっています。時間はまだあります」
(四分で、何を見ろって言うんだ)
「必要なものを、です」
部屋は円形だった。広間よりひと回り小さく、壁には何も刻まれていない。白い石がただ滑らかに磨かれているだけだ。
家具も棚もない。部屋の中央に、腰ほどの高さの石の台がひとつ据えられていた。
そして、天井があった。
カイが松明を掲げたまま口を開けて立ち止まる。
「……なんだ、これ」
天井一面に、光で描かれた絵が広がっていた。
淡い金と青の線が複雑に絡み合い、ゆっくりと明滅している。最初は星空のように見えた。だが目が慣れてくると、それが陸の形をしていることが分かってくる。
入り組んだ海岸線。山脈の稜線。川の流れ。いくつもの湖。
大陸だった。
ひとつの巨大な大陸と、その周りに散らばる島々。
「地図か」
バルドがかすれた声で言った。
「我が君。天井の光は、理の層に直接描かれた図形です。現在の大陸の地形と照合します」
視界の端に、青い文字が流れていく。
> 照合中……一致率 七十八パーセント
> 不一致部分:海岸線の変化、河川の流路変更、山岳部の崩落
「三千年分の地形の変化を考慮すれば、ほぼ現在の大陸と同一です」
(三千年前の地図ってことか)
「はい。古王朝の時代の、世界の姿です」
地図の上に、七つの光の点が散らばっていた。
ひときわ大きく、まばゆく輝く点。その一つ一つから、細い光の糸が無数に伸びて、大陸じゅうに網の目のように広がっている。
糸は川よりも細かく、山脈を越え、海の底まで潜っていた。
「七本の樹だ」
思わず口に出していた。
回廊の壁画で見た、天まで届く七本の巨木。この光の点がその在り処なのだ。
だが七つのうち四つは様子が違った。
光が弱い。いや、光ではなかった。黒く焦げたような染みが点の周りに滲んでいる。
そこから伸びる光の糸も途中でぷつりと切れて、ほつれた糸くずのように垂れ下がっていた。
残りの三つだけが今も静かに脈打っている。
「焼かれた四本と、残った三本です」
NOAの声が静かだった。
「残った三つのうち、一つは大陸の中央やや北東。現在のエルフィリア森林王国の位置と一致します。世界樹ラフェールと推定します」
(リオラさんの、故郷の樹か)
「はい。他の二つは、現在の地名と照合できません。古王朝の時代から、周辺の地形が大きく変わっているためです」
(焼かれたほうは)
「北の果てに一つ。南の、現在の亜人連盟の領域に一つ。西の海の中に一つ」
NOAがわずかに間を置いた。
「そして、大陸の南西に一つ。この点の周辺は、現在の地図との照合ができません。地形が、ほぼ完全に作り変えられています」
南西の黒い染みは他の三つよりもひときわ大きかった。焦げた跡が渦を巻くように広がり、周囲の光の糸を何本も巻きこんで切っている。
まるで、そこで何かが爆ぜたかのように。
◇
「これ、なんだ?」
カイが松明で天井の一角を指した。
七本の樹の光とは別に、もっと小さな点がいくつも散らばっていた。白い、針の先ほどの光。数えると二十近くある。
「遺構の位置です」
NOAが言った。
「この部屋と同じ、古王朝の施設の所在を示していると推定します。現在地を表す点が、ここにあります」
視界の中で、大陸の東寄りの一点が青く縁取られた。
白峰山脈の西、灰の荒野の手前。ベルズのある場所だった。
そのすぐ北東、指一本分ほど離れたところにも、白い点がもう一つあった。
(近いな)
「はい。現在の距離に換算して、徒歩で四、五日。ベルズの北東の丘陵地帯です」
アルトは天井を見上げたまま、ゆっくりと視線を東へ動かした。
白峰山脈を越え、その先の広大な緑の染みの奥へ。
深緑帯。
そこにも白い点が一つ、灯っていた。他の点よりも少しだけ暗い。今にも消えそうなほど、かすかに。
点のすぐ横に、細い文字が添えられていた。
――終の実の守り。
息が詰まった。
シルヴェールの里だ。三千年前、ここに地図を描いた誰かは、あの里がいつか作られることを知っていた。
あるいは自分たちの手で作るつもりだったのか。
光はかすかに瞬いている。まだ消えていない。
八十一人がいなくなった今も。
「我が君」
(……分かってる。今じゃない)
「はい」
アルトは視線を天井から引き剥がした。
「小僧。こっち見ろ」
バルドが西の端を指していた。
白峰山脈の西の端。そこに、他とは違う形の印が刻まれていた。白い点ではなく、小さな四角の中に、交差した槌と鑿の図形。
「……ドワーフの印だ」
バルドの指が空中で止まったまま震えていた。
「グラン・ドルムの、古い紋だ。今じゃ王宮の奥の扉にしか残ってねえ。こんなところにまで描かれてやがる」
回廊の壁画の樹を見上げるドワーフたち。それと同じ時代に、ドワーフの国はこの地図の上に印を持つほどの場所にいたのだ。
バルドはそれ以上何も言わなかった。ただ、髭の奥で唇をきつく結んでいた。
「なあ、アルト」
カイが天井を見上げたまま、小声で言った。松明を持つ手が少し震えている。怖いのではなく、たぶん興奮しているのだ。
「この光ってるの、全部本物の場所なのか。北の果てとか、海の中とか」
「三千年前の、だけどな」
「三千年……」
カイは口の中でその数字を転がすように繰り返した。
「俺、ベルズから出たことねえんだよ。一番遠くて、この前の東の森の奥まで。世界って、こんなに広いのか」
天井の大陸はカイの言うとおり途方もなく広かった。ベルズを示す青い縁取りは指先ほどの大きさしかない。
その周りに荒野があり、山脈があり、さらにその向こうに国がいくつも連なっている。
アルト自身も、この地図の大半を知らない。里と砂海とベルズ。歩いてきたのはそれだけだ。
「いつか行ってみてえな。この光ってるとこ、全部」
「全部は無理だろ」
「なんでだよ。エルフは長生きなんだろ。俺が死んだあとも、お前が続きを回ってくれりゃいい」
カイは冗談のつもりで言ったのだろう。笑っていた。
アルトは笑えなかった。屋根の上でリオラが口にした言葉が、耳の奥でかすかに鳴る。長く生きるって、置いていかれることなのよ。
「我が君。天井の全図を、私の記憶領域に保存しました。円盤を失っても、地図は残ります」
(……助かる)
「それと、先ほどのカイ・ロウエルの発言を、保留の分類に追加しました」
(なんでだよ)
「理由は、分類できません」
◇
「我が君。中央の台を」
NOAに促されて、アルトは部屋の中央の石の台に近づいた。
台の上面は浅く窪んでいる。窪みの中に、手のひらほどの大きさの白い円盤が一枚、置かれていた。厚さは指一本分ほど。
表面には何も刻まれていない。磨き上げられた石が松明の光を鈍く映しているだけだった。
「天井の図形の理は、この円盤から投影されています。円盤の内部に、地図の全情報が記録されています」
(持ち出せるのか)
「台から外すと、天井の投影は消えます。ですが、円盤そのものに記録は残ります。継ぎ手の手が触れれば、いつでも再び投影できる設計です」
(あいつらは、これを探してたのか)
「遺構の奥にある何か。その何かが、これである可能性は高いと推定します」
背後の扉の向こうで、足音が止まった。
広間に辿り着いたのだ。押し殺した声が石の壁に反響している。何を言っているのかまでは聞き取れない。
だが驚いている響きだけは伝わってきた。膝をついた番人と、開いた扉を見たのだろう。
「時間がありません、我が君」
アルトは円盤に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、円盤がかすかに温かくなった。表面に一瞬だけ細かな文字が浮かび上がり、すぐに消える。
> 署名照合:継ぎ手 一致
> 携行を許可
台から持ち上げると、天井の光がふっと揺らいだ。七本の樹も二十の白い点も里の小さな灯も、端からゆっくりと薄れていく。
最後まで残っていたのは深緑帯の奥の小さな光だった。
それも、やがて消えた。
部屋が暗くなる。カイの松明の炎だけが白い壁を橙色に染めている。
アルトは円盤を懐の奥へしまった。ミナがくれたお守りの袋のすぐ隣に。
石の重みが胸の上でかすかに温かい。三千年分の世界が手のひらほどの石の中に眠っている。前世で言えば、たった一枚の記録媒体だ。
けれど、これを手に入れるために森の獣が数千殺され、リオラが血を流した。
「我が君。円盤の温度が、我が君の体温と同期しています」
(気味の悪いことを言うな)
「事実の報告です。継ぎ手の体に馴染むよう設計されていると推定します」
「アルト」
カイが小声で呼んだ。脇腹を押さえたまま、折れた剣の代わりに背中から鶴嘴を外している。
「向こうの連中、敵だよな」
「たぶんな」
「森で獣を暴れさせた奴らか」
「……たぶん」
カイの手が鶴嘴の柄を握りしめた。父親の黒ずんだ柄。
「なら、ここで止めなきゃな。あいつらのせいで、ギルドマスターは死にかけたんだ」
「お前は肋骨がやられてる」
「お前は丸腰でゴーレムの前に飛び出しただろ」
言い返せなかった。
バルドが腰の金槌を抜き、扉の脇の壁に背中をつけた。
「三人で揃って突っこむ馬鹿はいねえ。小僧、お前は真ん中で目になれ。カイは俺の後ろだ」
「我が君。広間の生体反応、六。うち五つは訓練された戦闘員の魔力の流れです。残る一つは、魔力量が少なく、乱れています。経験の浅い者と推定します」
(森の記録と照らせるか)
「照合します」
一拍置いて、NOAが言った。
「一致しました。六つのうち一つの魔力の波形が、黒角の体に残っていた星の聖文の書き手と同じです」
黒角の片目から流れていた血。リオラの脇腹に開いた傷。
森で獣を狂わせたのは扉の向こうにいる誰かだ。
扉の向こうで、足音がこちらへ向かってきた。
一人だけ。ゆっくりと、迷いのない歩調で。
白い扉の縁に、細長い影が差した。
松明の光の中に、痩せた男が立っていた。白い法衣。胸元に銀糸で縫い取られた八芒星。
短く刈りこんだ灰色の髪。異様なほど澄んだ目。
男は部屋の中を見回した。光の消えた天井。空になった石の台。
そして、松明を持つカイと金槌を構えたバルド、その間に立つアルトを。
澄んだ目がアルトのところで止まった。
「くすんだ金の髪。痩せた体つき。魔力は三百十」
男の声は穏やかだった。祈りの言葉を唱えるような、低く静かな声。
「ベネディクトの報告どおりだ。だが、あの商人は一つだけ見誤っていた」
男の背後の広間で、膝をついた番人が額の青い光を瞬かせていた。主を守るように、アルトのいる部屋のほうへ体を向けて。
男はちらりとそれを振り返り、それから、また澄んだ目でアルトを見た。
「三千年眠っていた番人が膝を折る。古王朝の扉が、ひとりでに開く」
男は胸の八芒星に指を当てた。
「お前がアルトだな。……ようやく見つけた。東の果ての、王の産声を」




