↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/51

第三十一話 地図の間

扉の向こうへ一歩踏みこむと、足の裏に柔らかな響きが伝わってきた。


 床がかすかに鳴っている。回廊の壁に手を当てた時と同じ、歌とも呼吸ともつかない低い音。それが今度は部屋全体から聞こえてくる。


「おい、小僧。急げ」


 バルドが後ろを振り返りながら低く言った。広間の東側から、足音がはっきりと近づいてきている。


「我が君。侵入者の到達まで、推定で四分。あの穴から広間までの通路は狭く、曲がりくねっています。時間はまだあります」

(四分で、何を見ろって言うんだ)

「必要なものを、です」


 部屋は円形だった。広間よりひと回り小さく、壁には何も刻まれていない。白い石がただ滑らかに磨かれているだけだ。


 家具も棚もない。部屋の中央に、腰ほどの高さの石の台がひとつ据えられていた。


 そして、天井があった。


 カイが松明を掲げたまま口を開けて立ち止まる。


「……なんだ、これ」


 天井一面に、光で描かれた絵が広がっていた。


 淡い金と青の線が複雑に絡み合い、ゆっくりと明滅している。最初は星空のように見えた。だが目が慣れてくると、それが陸の形をしていることが分かってくる。


 入り組んだ海岸線。山脈の稜線。川の流れ。いくつもの湖。


 大陸だった。


 ひとつの巨大な大陸と、その周りに散らばる島々。


「地図か」


 バルドがかすれた声で言った。


「我が君。天井の光は、理の層に直接描かれた図形です。現在の大陸の地形と照合します」


 視界の端に、青い文字が流れていく。


> 照合中……一致率 七十八パーセント

> 不一致部分:海岸線の変化、河川の流路変更、山岳部の崩落

「三千年分の地形の変化を考慮すれば、ほぼ現在の大陸と同一です」

(三千年前の地図ってことか)

「はい。古王朝の時代の、世界の姿です」


 地図の上に、七つの光の点が散らばっていた。


 ひときわ大きく、まばゆく輝く点。その一つ一つから、細い光の糸が無数に伸びて、大陸じゅうに網の目のように広がっている。


 糸は川よりも細かく、山脈を越え、海の底まで潜っていた。


「七本の樹だ」


 思わず口に出していた。


 回廊の壁画で見た、天まで届く七本の巨木。この光の点がその在り処なのだ。


 だが七つのうち四つは様子が違った。


 光が弱い。いや、光ではなかった。黒く焦げたような染みが点の周りに滲んでいる。


 そこから伸びる光の糸も途中でぷつりと切れて、ほつれた糸くずのように垂れ下がっていた。


 残りの三つだけが今も静かに脈打っている。


「焼かれた四本と、残った三本です」


 NOAの声が静かだった。


「残った三つのうち、一つは大陸の中央やや北東。現在のエルフィリア森林王国の位置と一致します。世界樹ラフェールと推定します」

(リオラさんの、故郷の樹か)

「はい。他の二つは、現在の地名と照合できません。古王朝の時代から、周辺の地形が大きく変わっているためです」

(焼かれたほうは)

「北の果てに一つ。南の、現在の亜人連盟の領域に一つ。西の海の中に一つ」


 NOAがわずかに間を置いた。


「そして、大陸の南西に一つ。この点の周辺は、現在の地図との照合ができません。地形が、ほぼ完全に作り変えられています」


 南西の黒い染みは他の三つよりもひときわ大きかった。焦げた跡が渦を巻くように広がり、周囲の光の糸を何本も巻きこんで切っている。


 まるで、そこで何かが爆ぜたかのように。



   ◇



「これ、なんだ?」


 カイが松明で天井の一角を指した。


 七本の樹の光とは別に、もっと小さな点がいくつも散らばっていた。白い、針の先ほどの光。数えると二十近くある。


「遺構の位置です」


 NOAが言った。


「この部屋と同じ、古王朝の施設の所在を示していると推定します。現在地を表す点が、ここにあります」


 視界の中で、大陸の東寄りの一点が青く縁取られた。


 白峰山脈の西、灰の荒野の手前。ベルズのある場所だった。


 そのすぐ北東、指一本分ほど離れたところにも、白い点がもう一つあった。


(近いな)

「はい。現在の距離に換算して、徒歩で四、五日。ベルズの北東の丘陵地帯です」


 アルトは天井を見上げたまま、ゆっくりと視線を東へ動かした。


 白峰山脈を越え、その先の広大な緑の染みの奥へ。


 深緑帯。


 そこにも白い点が一つ、灯っていた。他の点よりも少しだけ暗い。今にも消えそうなほど、かすかに。


 点のすぐ横に、細い文字が添えられていた。


 ――終の実の守り。


 息が詰まった。


 シルヴェールの里だ。三千年前、ここに地図を描いた誰かは、あの里がいつか作られることを知っていた。


 あるいは自分たちの手で作るつもりだったのか。


 光はかすかに瞬いている。まだ消えていない。


 八十一人がいなくなった今も。


「我が君」

(……分かってる。今じゃない)

「はい」


 アルトは視線を天井から引き剥がした。


「小僧。こっち見ろ」


 バルドが西の端を指していた。


 白峰山脈の西の端。そこに、他とは違う形の印が刻まれていた。白い点ではなく、小さな四角の中に、交差した槌と鑿の図形。


「……ドワーフの印だ」


 バルドの指が空中で止まったまま震えていた。


「グラン・ドルムの、古い紋だ。今じゃ王宮の奥の扉にしか残ってねえ。こんなところにまで描かれてやがる」


 回廊の壁画の樹を見上げるドワーフたち。それと同じ時代に、ドワーフの国はこの地図の上に印を持つほどの場所にいたのだ。


 バルドはそれ以上何も言わなかった。ただ、髭の奥で唇をきつく結んでいた。


「なあ、アルト」


 カイが天井を見上げたまま、小声で言った。松明を持つ手が少し震えている。怖いのではなく、たぶん興奮しているのだ。


「この光ってるの、全部本物の場所なのか。北の果てとか、海の中とか」

「三千年前の、だけどな」

「三千年……」


 カイは口の中でその数字を転がすように繰り返した。


「俺、ベルズから出たことねえんだよ。一番遠くて、この前の東の森の奥まで。世界って、こんなに広いのか」


 天井の大陸はカイの言うとおり途方もなく広かった。ベルズを示す青い縁取りは指先ほどの大きさしかない。


 その周りに荒野があり、山脈があり、さらにその向こうに国がいくつも連なっている。


 アルト自身も、この地図の大半を知らない。里と砂海とベルズ。歩いてきたのはそれだけだ。


「いつか行ってみてえな。この光ってるとこ、全部」

「全部は無理だろ」

「なんでだよ。エルフは長生きなんだろ。俺が死んだあとも、お前が続きを回ってくれりゃいい」


 カイは冗談のつもりで言ったのだろう。笑っていた。


 アルトは笑えなかった。屋根の上でリオラが口にした言葉が、耳の奥でかすかに鳴る。長く生きるって、置いていかれることなのよ。


「我が君。天井の全図を、私の記憶領域に保存しました。円盤を失っても、地図は残ります」

(……助かる)

「それと、先ほどのカイ・ロウエルの発言を、保留の分類に追加しました」

(なんでだよ)

「理由は、分類できません」



   ◇



「我が君。中央の台を」


 NOAに促されて、アルトは部屋の中央の石の台に近づいた。


 台の上面は浅く窪んでいる。窪みの中に、手のひらほどの大きさの白い円盤が一枚、置かれていた。厚さは指一本分ほど。


 表面には何も刻まれていない。磨き上げられた石が松明の光を鈍く映しているだけだった。


「天井の図形の理は、この円盤から投影されています。円盤の内部に、地図の全情報が記録されています」

(持ち出せるのか)

「台から外すと、天井の投影は消えます。ですが、円盤そのものに記録は残ります。継ぎ手の手が触れれば、いつでも再び投影できる設計です」

(あいつらは、これを探してたのか)

「遺構の奥にある何か。その何かが、これである可能性は高いと推定します」


 背後の扉の向こうで、足音が止まった。


 広間に辿り着いたのだ。押し殺した声が石の壁に反響している。何を言っているのかまでは聞き取れない。


 だが驚いている響きだけは伝わってきた。膝をついた番人と、開いた扉を見たのだろう。


「時間がありません、我が君」


 アルトは円盤に手を伸ばした。


 指先が触れた瞬間、円盤がかすかに温かくなった。表面に一瞬だけ細かな文字が浮かび上がり、すぐに消える。


> 署名照合:継ぎ手 一致

> 携行を許可


 台から持ち上げると、天井の光がふっと揺らいだ。七本の樹も二十の白い点も里の小さな灯も、端からゆっくりと薄れていく。


 最後まで残っていたのは深緑帯の奥の小さな光だった。


 それも、やがて消えた。


 部屋が暗くなる。カイの松明の炎だけが白い壁を橙色に染めている。


 アルトは円盤を懐の奥へしまった。ミナがくれたお守りの袋のすぐ隣に。


 石の重みが胸の上でかすかに温かい。三千年分の世界が手のひらほどの石の中に眠っている。前世で言えば、たった一枚の記録媒体だ。


 けれど、これを手に入れるために森の獣が数千殺され、リオラが血を流した。


「我が君。円盤の温度が、我が君の体温と同期しています」

(気味の悪いことを言うな)

「事実の報告です。継ぎ手の体に馴染むよう設計されていると推定します」

「アルト」


 カイが小声で呼んだ。脇腹を押さえたまま、折れた剣の代わりに背中から鶴嘴を外している。


「向こうの連中、敵だよな」

「たぶんな」

「森で獣を暴れさせた奴らか」

「……たぶん」


 カイの手が鶴嘴の柄を握りしめた。父親の黒ずんだ柄。


「なら、ここで止めなきゃな。あいつらのせいで、ギルドマスターは死にかけたんだ」

「お前は肋骨がやられてる」

「お前は丸腰でゴーレムの前に飛び出しただろ」


 言い返せなかった。


 バルドが腰の金槌を抜き、扉の脇の壁に背中をつけた。


「三人で揃って突っこむ馬鹿はいねえ。小僧、お前は真ん中で目になれ。カイは俺の後ろだ」

「我が君。広間の生体反応、六。うち五つは訓練された戦闘員の魔力の流れです。残る一つは、魔力量が少なく、乱れています。経験の浅い者と推定します」

(森の記録と照らせるか)

「照合します」


 一拍置いて、NOAが言った。


「一致しました。六つのうち一つの魔力の波形が、黒角の体に残っていた星の聖文の書き手と同じです」


 黒角の片目から流れていた血。リオラの脇腹に開いた傷。


 森で獣を狂わせたのは扉の向こうにいる誰かだ。


 扉の向こうで、足音がこちらへ向かってきた。


 一人だけ。ゆっくりと、迷いのない歩調で。


 白い扉の縁に、細長い影が差した。


 松明の光の中に、痩せた男が立っていた。白い法衣。胸元に銀糸で縫い取られた八芒星。


 短く刈りこんだ灰色の髪。異様なほど澄んだ目。


 男は部屋の中を見回した。光の消えた天井。空になった石の台。


 そして、松明を持つカイと金槌を構えたバルド、その間に立つアルトを。


 澄んだ目がアルトのところで止まった。


「くすんだ金の髪。痩せた体つき。魔力は三百十」


 男の声は穏やかだった。祈りの言葉を唱えるような、低く静かな声。


「ベネディクトの報告どおりだ。だが、あの商人は一つだけ見誤っていた」


 男の背後の広間で、膝をついた番人が額の青い光を瞬かせていた。主を守るように、アルトのいる部屋のほうへ体を向けて。


 男はちらりとそれを振り返り、それから、また澄んだ目でアルトを見た。


「三千年眠っていた番人が膝を折る。古王朝の扉が、ひとりでに開く」


 男は胸の八芒星に指を当てた。


「お前がアルトだな。……ようやく見つけた。東の果ての、王の産声を」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。