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第二十九話 白い回廊

古坑の地下に見つかった空洞の調査は、ギルドに正式な依頼として出された。


 依頼主は辺境伯ハインリヒ。落盤が人為的なものかもしれない、という報告を受け、領内の安全のために調べよという命令だった。


「本当は私が行きたいんだけどね」


 ギルドマスター室の窓辺で、リオラは脇腹の包帯を指でさすりながら言った。


「治癒師に、あと十日は剣を握るなって言われちゃった。だから、あなたたちに頼むわ」


 机の前に立っているのはアルトとカイとバルドの三人だった。


「バルドは岩と古い石造りに詳しい。カイ君は、あの坑道を知ってる。そして坊やは」


 リオラはアルトを見て、にっこりと笑った。


「目がいいから」

「……エルフなので」

「便利よね、エルフ」


 カイが首を傾げ、バルドが小さく鼻を鳴らした。


「我が君。この個体は、我が君の言い訳を把握したうえで使っています」

(分かってる。わざとだ)

「調査の範囲は、入口から見える範囲まで。危険を感じたらすぐに引き返すこと。それと」


 リオラの声が少しだけ低くなった。


「森で獣を狂わせた連中が、この空洞を探していた可能性がある。もし誰かの痕跡を見つけたら、深追いせずに戻ってきなさい」

「了解」


 バルドが短く答えた。



   ◇



 隙間の前で、カイが足を止めた。


「……なあ。こういう古い遺跡ってさ、幽霊とか出たりしねえよな」

「出るかもな」

「アルト!」

「冗談だよ」

「お前の冗談、顔が真面目すぎて分かんねえんだよ!」


 バルドが鼻を鳴らし、先に隙間をくぐっていった。


「幽霊が出たら、金槌で殴ってやる。ドワーフの金槌は、幽霊にも効くんだ」

「本当に?」

「知らねえ。試したことがねえ」


 アルトは隙間をくぐる前に、崩れた岩盤の向こうの白い壁にそっと手を当てた。


 冷たいはずの石がほんのりと温かい。


 そして、かすかに何かが聞こえた気がした。耳ではなく、手のひらから伝わってくる、低く柔らかな響き。歌のような、呼吸のような。


「我が君。壁面の理が、我が君の接触に反応しています。微弱な共鳴です」

(共鳴?)

「この遺構の理と、我が君の体の理が、同じ源を持っているためと推定します。終の林檎が、我が君の体に古王朝の理を書きこんだからです」


 手のひらの下で、響きがほんの少しだけ強くなった。


 懐かしい、と思った。初めて来た場所なのに。


 オルドレンの家で、夜ごと灯りの下で聞いた、古い文字を読み上げる長の声。それに、どこか似ていた。


 崩れた岩盤の隙間を抜けると、空気が変わった。


 坑道の湿った土の匂いがふっと消える。代わりに、乾いた石と、ほんのかすかな花の香りのようなものが漂ってきた。


 何千年も閉ざされていたはずの空間なのに、空気が淀んでいない。


 松明の光の先に、白い回廊がまっすぐに伸びていた。


 床も壁も天井も、継ぎ目のない白い石でできている。表面は滑らかに磨かれ、松明の炎を柔らかく反射していた。


 回廊の幅は大人が五人並んで歩けるほどで、天井は見上げるほど高い。


 両側の壁には一面に文字と絵が刻まれていた。


「……すげえ」


 カイが呆然と呟いた。


 バルドは無言で壁に近づき、その表面に手のひらを当てた。長いあいだ、そのまま動かない。


「継ぎ目がねえ」


 ようやく、かすれた声が漏れた。


「岩を削ったんじゃねえ。岩そのものを、この形に育てたみてえだ。ドワーフの石工でも、こんな仕事はできねえ。百人がかりでも、千年かかってもな」

「我が君。壁面の理を解析しました。この回廊は、石に式を書きこみ、石自身に形を作らせています。建造ではなく、生成です」

(そんなこと、できるのか)

「現代の技術では不可能です。古王朝の技術と推定します」


 カイは松明を高く掲げ、きょろきょろと周りを見回しながら歩いていた。最初は怯えていたはずなのに、もう目を輝かせている。


「なあ、これ、全部字なのか? 絵も字も、天井までびっしりじゃねえか」

「たぶん、ここに住んでた人たちの記録だ」

「記録って、日記みてえなもんか」

「……似たようなものかもな」


 前世で言えば、ドキュメントだ。誰かが後から読むために、自分たちが何をして、何を残したかったのかを書き留めたもの。


 三千年後に誰かが読むと信じて、ここに刻んだ人たちがいたのだ。


「我が君。壁面の記述量は、推定で書物三百冊分に相当します。全てを解読するには、長い時間が必要です」

(全部は無理だな。今日は)

「はい。ですが、いつか全てを読む価値があると判断します」


 回廊を進むにつれ、壁の絵が物語になっていった。


 最初は森の絵だった。天まで届くような巨大な樹が七本、大地のあちこちに描かれている。その根元に、長い耳を持つ人々が暮らしていた。


「エルフの絵か?」


 カイが松明をかざして覗きこむ。


「……古い、エルフだ」


 アルトは答えた。描かれた人々の髪は月の光のような銀色に塗られている。


 次の絵では樹々の間に都が広がっていた。白い塔が林立し、空には鳥が舞っている。人々は樹に手を触れ、その幹から光の糸が伸びて、大地や空や川へと広がっていく。


「世界樹の譜を、読み書きしている絵です」


 NOAの声が静かに響いた。


「理を管理する者たちの記録。古王朝の、最盛期の姿と推定します」


 さらに進むと、絵の色が変わった。


 空に、八つの角を持つ星が描かれていた。その下に、白い衣をまとった人間たちが群がっている。手に手に書物を掲げ、星を仰ぎ、口を開けて何かを唱えていた。


 次の絵では七本の樹のうち四本が、炎に包まれていた。


 白い塔が崩れ、銀の髪の人々が逃げ惑っている。その上空で、八芒星が冷たく輝いていた。


 アルトの足が止まった。


「アルト?」


 カイの声が遠くに聞こえた。


 焼け落ちる樹。崩れる塔。逃げ惑う人々。そして、空に輝く八芒星。


 胸当てに刻まれた八芒星と、それを縦に貫く一本の剣の紋章。焼け落ちる樫の梁。降りそそぐ火の粉。


「我が君。呼吸が乱れています」

(……大丈夫だ)

「大丈夫ではない数値です」

(大丈夫にする)


 息を吸い、吐く。もう一度。


 肩に、何かが触れた。ごつごつとした、太い指の手。


 バルドが何も言わずにアルトの肩に手を置いていた。煤けた顔は壁の絵を見つめたままで、こちらを見ようとはしない。


 しばらくして、その手は離れていった。



   ◇



 回廊の終わり近くで、一枚の絵の前でバルドが足を止めた。


 白い塔の足元で、背の低い、髭を生やした人々が石を運んでいた。銀の髪のエルフたちと並んで、同じ大きな樹を見上げている。


 その手には槌と鑿が握られていた。


「……ドワーフだ」


 バルドがかすれた声で呟いた。


「古王朝と一緒に、ドワーフも樹を守ってたのか。こんな話、グラン・ドルムの古い歌にも残ってねえぞ」


 太い指が絵の中の小さなドワーフの姿をなぞる。


「親父は、ドワーフは昔から地下で一人で生きてきた種族だって言ってた。誰の手も借りねえ、誰にも手を貸さねえって。それが誇りだってな」


 バルドは長いあいだ、その絵の前に立っていた。


「……違ったんじゃねえか」


 ぽつりと漏れた声はアルトに向けたものではなかった。


「我が君。バルド・グランハンマーの出自と、何らかの関わりがある可能性があります」

(ああ。でも、聞かない)

「了解しました」


 カイが別の壁の絵を見上げていた。


「なあアルト。昔のエルフって、みんな銀色の髪だったのか?」

「……さあな。絵の具の色じゃないか」

「そっか。きれいだよな、銀色。月みたいでさ」


 カイは何気なく言って、松明を掲げて先へ進んでいった。


 アルトはしばらく、その場から動けない。


 回廊の突き当たりは円形の広間になっていた。


 天井が丸く高く、その中心から淡い光が降りそそいでいる。どこから光が来ているのかは分からない。


 床の中央に、大きな石板が据えられていた。表面に、びっしりと文字が刻まれている。


「なんて書いてあるんだ?」


 カイが石板を覗きこんだ。


「……読めねえ。こんな字、見たことねえや」


 アルトは石板の前に膝をついた。


 背負い袋から、焼け焦げた古い書物を取り出す。オルドレンの古文字の教本。表紙は半分炭になっていたが中の頁はまだ読める。


 一文字ずつ、指でなぞりながら読んでいく。


 ――我らはエルセリオン。七つの樹を守り、世界の譜を記す者。


 ――星の信徒が来たりて、樹を焼いた。彼らは譜を神の文と呼び、己がものにせんとした。


 ――四つの樹が焼け落ち、譜は破れた。王朝は終わりを迎えた。


 ――最後の王は王朝の樹に残された最後の実を封じた。星の信徒に渡すことなかれ。血の継ぎ手のみ、これを食むべし。


 ――我らは散る。いつか継ぎ手が現れ、破れた譜を繕う日のために、この地に記す。


 読み終えた時、指先が冷たくなっていた。


「……アルト、お前、それ読めるのか」


 カイの声が驚きに震えていた。


「少しだけ。昔、教わったんだ」

「誰に」

「……育ててくれた人に」


 カイはそれ以上聞かなかった。


「我が君。この石板の記述は、シルヴェールの里の石箱の銘文と一致します。終の林檎の由来が、ここに記されています」

(神聖星国の連中は、これを探してたのか)

「この石板そのものではなく、この遺構の奥にあるものを探していた可能性が高いと推定します」


 石板の向こうに、もう一つの扉があった。


 白い石でできた両開きの扉。表面に、七本の樹と、その周りを巡る細かな文字が刻まれている。取っ手はない。鍵穴もない。


「おい」


 バルドの声が低く響いた。


 広間の床の一角を、松明で照らしている。白い石の上に、何かの跡がついていた。


 足跡だった。泥の乾いた、靴の跡。一人や二人ではない。


 少なくとも五人以上の足跡が、回廊の別の方角から広間に入り、扉の前まで続いて、そこで止まっていた。


「俺たちより先に、誰かが来てやがる」


 バルドが鑿を一本、腰から引き抜いた。


「我が君。足跡の主は、坑道とは別の経路から侵入しています。広間の東側の壁に、人為的に開けられた穴があります。落盤は、その穴を掘った際の衝撃が原因と推定します」

(扉の前で、止まってるな)

「はい。開けられなかったのだと推定します。この扉の封印は、終の林檎の石箱と同じ系統です。古王朝の血統でなければ、開かない設計です」


 扉に刻まれた文字を、もう一度見る。


 樹々の周りを巡る文字の中に、先日、裂け目の壁で読んだのと同じ一行があった。


 ――継ぎ手よ、ここに来たれ。


(NOA)

「はい」

(それって、つまり)

「我が君ならば、開けられる可能性があります」


 背後で、カイが息を呑む気配がした。振り返ると、カイは扉ではなく、アルトの顔を見つめていた。


「アルト。お前、今、すげえ顔してるぞ」


 自分がどんな顔をしているのか、分からなかった。


 その時、広間の天井から、ぱらぱらと細かな石の粉が落ちてくる。


 低い音がどこか遠くで響いた。石と石が擦れ合うような、重く軋む音。


「警告。広間の壁面に、新たな理の活性を検知しました」


 広間の壁の一角がゆっくりと動きはじめた。


 白い石の壁に、縦に一本の亀裂が走る。亀裂が広がり、壁の一部が奥へと引っこんでいく。


 その暗がりの中で、二つの光が灯った。


 青白い、目のような光だった。

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