第二十七話 問いと沈黙
夜が明ける頃、アルトはリオラを背負って峡谷の斜面を上っていた。
NOAが示す青い線を辿り、下流の緩やかな斜面を一歩ずつ。背中のリオラは驚くほど軽かった。それでも、膝ががくがくと震える。
魔力を二割使ったせいか、体の芯に力が入らない。
髪はくすんだ金色に戻っていた。瞳の金の輪も消えている。覇気も、NOAが再び奥へと押しこめた。
背中から、規則正しい寝息が聞こえていた。
「我が君。リオラの容態は安定しています。肺の傷は塞がり、出血も止まっています。骨は仮止めの状態ですが、町の治癒師に診せれば問題なく治るでしょう」
(……さっきの、覚えてると思うか)
「意識の混濁の度合いから推定して、明確な記憶として残る確率は三割以下です。夢として処理される可能性が高いと判断します」
(三割、か)
「はい。ですが」
NOAが一拍置いた。
「この個体の場合、夢として処理されたとしても、その夢の意味を考え続ける可能性があります」
アルトは何も答えなかった。
朝の光が木々の間から斜めに差しこんでくる。鳥の声が聞こえた。昨日まで死んだように静まり返っていた森に一羽、また一羽と、小鳥のさえずりが戻ってきている。
斜面を上りきったところで、声が聞こえた。
「おーい! ギルドマスター! 坊主!」
野太い声。ダグだった。
木々の間から、赤い外套の男たちが駆け寄ってくる。その後ろに、三日月の三人。そして、泥だらけの顔で目を真っ赤にしたカイがいた。
「アルトぉぉぉ!」
カイが一番に飛んできた。リオラを背負っているのも構わずに抱きつこうとして、寸前でダグに襟首を掴まれて止められる。
「馬鹿、怪我人がいるだろうが」
「だ、だって! 崖から落ちたって! もう駄目かと思って!」
カイの声が裏返っていた。顔は涙と鼻水と泥でぐちゃぐちゃだった。
「生きてるよ」
「生きてるな! よかった、本当によかった……!」
カイがその場にへたりこむ。アルトはつられて少しだけ笑った。
ダグがリオラの顔を覗きこみ、脇腹の傷を確かめた。眉間に深い皺が寄る。
「……ひでえ怪我だ。だが、血は止まってるな。坊主、お前が手当てしたのか」
「えっと、布で押さえてただけです」
「布で押さえただけで、この傷の血が止まるか?」
ダグが訝しげにアルトを見た。
「我が君。説明が必要です」
「……エルフの体は、傷の治りが早いので」
「そうなのか?」
「そうらしいです」
ダグはしばらくアルトを睨んでいたが、やがて鼻を鳴らした。
「まあいい。ギルドマスターが生きてりゃ、それでいい。担架を作るぞ。坊主はもう休め。顔が真っ青だ」
◇
ベルズに戻ったのはその日の夕方だった。
調査隊は全員生還した。怪我人は五人。リオラが一番の重傷で、ギルドの治癒室に運びこまれた。
治癒師の老婆が傷を見て、首を傾げていたらしい。骨がきれいに仮止めされていると。
ギルドへの報告はダグがした。
「森の奥で、獣の群れが何かに怯えて暴走した。原因は不明。夜明け前に、急に収まった。森の主の黒角が出たが、なぜか襲ってこずに去っていった。以上だ」
ガストンが報告書に書きこみながら、何度も首を捻っていた。
「自然に収まった、と」
「そうとしか言えねえ。あれだけ暴れてた獣が、一斉に、ぴたっとな。俺も三十年冒険者をやってるが、あんなのは初めて見た」
アルトは部屋の隅で、黙ってそれを聞いていた。
魔力を吸い取られた獣たちの死体と、喉元の白い痕のことは、三日月のリーダーが報告した。ガストンの顔が険しくなり、すぐに辺境伯に知らせると言う。
その間に、カイは一度だけ治癒室を訪ねていった。
アルトは扉の外で待つことにした。中から、カイの大きな声と、リオラの笑い声が漏れ聞こえてくる。
しばらくして出てきたカイはなぜか顔を真っ赤にしていた。
「どうした」
「い、いや。お礼言いに行ったらさ、ギルドマスターが、あなたもよく頑張ったわねって頭撫でてきて」
「……よかったな」
「よくねえよ! 俺もう十七だぞ!」
カイは頭を掻きむしりながら廊下を歩いていく。その耳まで赤かった。
背中の傷は浅い切り傷で済んだらしい。見習いの少年はカイのことを命の恩人だと言って、ギルドじゅうに触れ回っていた。
「なあアルト」
ギルドの階段を下りながら、カイがぽつりと言った。
「お前、谷に落ちた後、どうやってギルドマスター連れて上がってきたんだ? あの黒角って化け物も出たんだろ」
「……黒角は、なぜか襲ってこなかった。リオラさんが片目を潰したから、怯んだんだと思う」
「そっか。やっぱすげえな、ギルドマスター」
カイは素直に感心していた。
「我が君。嘘の精度が向上しています」
(嬉しくない向上だな)
「同意します」
三日後、リオラが治癒室を出た。
エルフの回復力は人間よりずっと高い。それに加えて、骨の仮止めが的確だったおかげで、治りが早かったのだと治癒師は言った。
その日の夕方、ギルドを出ようとしたアルトを、階段の上から声が呼び止めた。
「坊や」
振り返ると、リオラが手すりにもたれて立っていた。いつもの着崩した制服に戻っている。脇腹のあたりが少し膨らんでいるのは、包帯を巻いているせいだろう。
「今夜、空いてる?」
「……はい」
「じゃあ、一緒に夕飯どう? 助けてもらったお礼」
「お礼なんて、俺は何も」
「怪我をした私を背負って、斜面を上ってきてくれたでしょ。ダグから聞いたわ」
リオラは微笑んだ。いつもの飄々とした笑み。
けれどその目の奥に、何かを確かめようとする光が揺れていた。
「我が君。この誘いを断る合理的な理由は、見つかりません」
(……分かってる)
◇
リオラが選んだのは大通りから一本入った路地にある、小さな食堂だった。
卓が四つだけの狭い店で、壁に古い地図がいくつも貼られている。店主は寡黙な老人で、リオラの顔を見ると黙って一番奥の卓を指さした。
常連らしい。
運ばれてきたのは森の茸と鹿肉の煮込みだった。香草の香りが強い。それから、木の実を練りこんだ平たいパン。
「エルフの料理なの。エルフィリアの、田舎の家庭料理。この町でこれを出してくれるのは、この店だけなのよ」
一口食べる。
懐かしい味がした。里でエルナが作っていた煮込みに、少しだけ似ている。エルナのはいつも焦げていたけれど。
「……おいしいです」
「でしょう」
リオラは満足そうに頷き、自分の皿の鹿肉を口に運んだ。
「この店ね、昔の仲間の子孫がやってるの」
リオラがカウンターの奥の老人をちらりと見て、声を潜めた。
「昔のパーティにいた、治癒師の女の子。九十二歳まで生きて、リオラは変わらないねって笑って死んだ子。あの人は、その子の子孫なのよ。あの子の作るエルフの煮込みが好きだったって話をしたら、覚えてくれてね。この店で出すようになったの」
老人は黙々と鍋をかき混ぜていた。白髪の後ろ姿はリオラよりもずっと年老いて見える。
「子孫の代になっても、私のほうが若いままなの。変な話でしょ」
リオラは笑った。けれど、その笑い声は少しだけ乾いていた。
「我が君。この個体が人と距離を置こうとする理由と、この店に通い続ける理由は、同じ根から来ていると推定します」
(……置いていかれるのが怖いのに、忘れたくないんだ)
「その理解は、私の推定と一致します」
アルトは煮込みをもう一口食べた。
さっきよりも、少しだけ味が深く感じられる。
しばらく、二人で黙って食べた。店の奥の竈で、薪がはぜる音がする。
「坊や。私ね、エルフィリアの出身なの」
皿が半分ほど空いた頃、リオラが言った。
「ヴェルシエル家っていう、そこそこの家の三女。生まれた時から、どこの家に嫁ぐかも決まってたわ。百歳になった年に、顔も知らない相手と婚約の儀を済ませて。婚礼は百二の年だった」
リオラは煮込みの汁にパンを浸しながら、何でもないことのように続けた。
「婚礼の前の晩に、窓から逃げたの。剣一本だけ持って。それっきり、一度も帰ってない」
「……二百年以上、ですか」
「二百十年ね。そろそろ家族の顔も忘れかけてるわ」
冗談めかした口調だった。けれど、パンを浸す手が、一瞬だけ止まった。
「我が君。この個体は、故郷について話す際、毎回魔力の流れが乱れます。今回も同様です」
(……後悔してるのかな)
「判断できません。ですが、少なくとも、平気ではないと推定します」
リオラは顔を上げた。灰青の瞳がまっすぐにアルトを見た。
「私の話はこれでおしまい。だから、次はあなたの番」
食堂の空気がふっと静かになった気がした。
「あなた、本当は何者?」
心臓が大きく一つ跳ねた。
「我が君。覇気の抑制が揺らいでいます。落ち着いてください」
言葉が出てこなかった。
嘘をつくのは簡単だ。北の村の出身です。ただの新人です。
これまで何度もそう言ってきた。
けれど、目の前のリオラは、自分の過去を差し出したのだ。逃げた理由も、帰れない場所も。二百年誰にも話さなかったかもしれないことを、こんな小さな食堂で。
それに対して、嘘を返すのか。
「……すみません」
ようやく出てきたのはそれだけだった。
「まだ、言えません」
リオラはしばらく黙ってアルトを見つめていた。
怒るかと思う。失望されるかと思った。
だがリオラはふっと表情を緩めた。
「そう」
それだけ言って、また煮込みを口に運ぶ。
「峡谷でね、夢を見たの」
スプーンを動かしながら、リオラは独り言のように言った。
「故郷の世界樹の前にいる夢。とても温かくて、懐かしくて。それから、銀色の髪をした誰かが、私の傷を撫でてくれる夢」
アルトは息をするのを忘れていた。
「変な夢よね。熱が出てたせいかしら」
リオラはそう言って、くすりと笑った。それ以上は何も言わない。
食堂を出ると、夜風が冷たかった。
ギルドの前まで来たところで、リオラが足を止めた。
「坊や。私は聞かないわ」
振り返らずに、背中で言う。
「でも、もし話したくなったら、屋根においで。いつでもいるから」
そう言って、リオラはギルドの扉の向こうに消えていった。
アルトはしばらくその場に立ち尽くしていた。
「我が君」
(……なんだ)
「この個体の脅威度の評価を、更新します」
(下がったのか)
「いいえ。最高のままです。ただし、分類を変更します。敵対の可能性から、要警戒・好意へ」
(好意?)
「私の判断ではありません。我が君の心拍数からの推定です」
顔が熱くなった。夜風がちょうどいい冷たさだ。
その時、ギルドの扉が勢いよく開いた。
飛び出してきたのはガストンだった。アルトの姿を見つけると、顔色を変えて駆け寄ってくる。
「おい、新人! ギルドマスターはどこだ!」
「今、中に入っていきましたけど」
「そうか。いや、お前も聞いとけ。カイの坊主にも伝えてくれ」
ガストンの顔がひどく険しかった。
「南の古坑で、落盤が起きた。鉱夫が三人、閉じこめられてる」




