第二十六話 銀の髪
黒角が地を蹴った。
巨体からは想像もできない速さだった。岩を砕きながら、一直線にリオラへ突っこんでくる。
リオラは動かなかった。
ぎりぎりまで引きつけて、牙が届く寸前で、ふわりと横に跳んだ。外套の裾が黒い角の先をかすめる。
すれ違いざまに剣が閃き、黒角の前脚の付け根を斬りつけた。
浅い。剛毛と分厚い皮に阻まれて、刃が肉まで届いていない。
黒角は止まらずに突進を続け、峡谷の岩壁に激突した。岩が崩れ、破片が雨のように降りそそぐ。
「硬いわね」
リオラが呟いた。息ひとつ乱れていない。
「我が君。この個体、リオラの剣撃を受けても魔力の流れがほとんど乱れていません。外部からの干渉が、身体能力を大幅に引き上げています」
(強化されてるのか)
「はい。干渉の式が恐怖を煽ると同時に、痛覚を麻痺させ、筋力を限界まで引き出しています。この個体は、自分の体が壊れても止まりません」
黒角が岩壁から頭を引き抜いて振り返った。赤い目がさっきよりも濃く燃えている。
二度目の突進。
リオラは今度は跳ばなかった。背中の短弓を引き抜き、矢をつがえる。弦を引き絞る動作は一瞬だった。
放つ。
矢が風をまとって唸り、黒角の右目に吸いこまれるように突き立った。
黒角が咆哮を上げた。峡谷全体が震えるような、腹の底に響く声。だが足は止まらない。
片目を失ったまま、突進の勢いはまるで衰えなかった。
「……っ」
リオラが横へ跳ぶ。だが今度は一瞬だけ遅かった。
黒角が首を振った。ねじれた角がリオラの脇腹を薙ぐ。
鈍い音がした。
リオラの体が木の葉のように吹き飛んだ。岩壁に背中から叩きつけられ、そのまま沢の浅瀬に崩れ落ちる。水しぶきが上がった。
「リオラさん!」
叫んでいた。
岩壁の窪みから飛び出す。浅瀬に倒れたリオラのもとへ駆け寄った。
リオラは水の中で体を起こそうとしていた。脇腹を押さえた指の間から、血が滲み出している。口の端からも、赤いものが一筋流れていた。
「……来ちゃ、駄目って……言ったのに」
声がかすれていた。灰青の瞳が焦点を結ばずに揺れている。
「我が君。リオラの負傷を解析しました。肋骨が三本折れています。うち一本が肺を傷つけています。内出血、多量。意識の混濁が始まっています」
(……っ)
「このまま放置すれば、一刻もたずに危険な状態になります」
背後で、地面が揺れた。
振り返ると、黒角がこちらへ向き直っていた。片目から血を流し、口から泡を吹き、それでも残った赤い目で二人を見据えている。
「我が君。選択を」
NOAの声は静かだった。
「杖の出力では、この個体は止められません。上限が低すぎます。我が君の本来の力を使う必要があります」
(偽装を、解くってことか)
「はい。覇気の抑制も、一時的に解除する必要があります。抑制に回している演算を、全て攻撃と解析に回さなければ、この個体の強化の式は破れません」
リオラを見下ろす。
浅瀬の冷たい水の中で、彼女の体が小刻みに震えていた。焦点の合わない目がそれでもアルトのほうを向いている。
「正体が露見する確率は」
「リオラの意識の状態から推定して、四割。ただし、この個体は三百年以上生きたエルフです。覇気を浴びれば、意識が朦朧としていても何かを感じ取る可能性があります」
四割。
前世の自分なら、迷っただろう。四割のリスクを取るべきか。上に相談して、責任を分散させて、それから決めるべきではないか。
だが目の前で人が血を流している。
二百年、誰とも近くならないように屋根の上にいた人が。荷物持ちは私の近くにいなさい、と言って、斜面を転がり落ちる自分の手首を掴んでくれた人が。
(NOA)
「はい」
(全部解け)
「了解しました」
◇
髪が風に揺れた。
くすんだ金色が根元から少しずつ色を失っていく。月の光を紡いだような、銀色へ。翠の瞳の外縁に、細い金の輪が灯る。
体の奥で、何かが目を覚ました。
ハイエルフの魔力。四万八千。ベルズに来てから、ずっと押しこめてきた大河が、堰を切って溢れ出す。
峡谷の空気が変わった。
冷たかった夜気がふっと温かくなる。沢の水面が凪いだように静まり返る。岩壁の苔がかすかに光を帯びた。
黒角の動きが止まった。
突進しようとしていた前脚が地面に縫いつけられたように動かない。残った赤い目が大きく見開かれていた。
「覇気の影響です。獣は本能で、上位の存在を感じ取ります」
(今のうちに、解析を)
「実行しています」
視界が理の層に切り替わった。
黒角の巨体に、青い文字列が浮かび上がる。何百年もこの森で生きてきた、森の主の式。その上に、まるで黒い蔦が絡みつくように、白く乾いた文字列が巻きついていた。
星の聖文だ。
恐怖を煽る式。痛覚を殺す式。筋力を限界まで引き出す式。
それが黒角の本来の式を覆い隠し、体を内側から食い荒らしている。
「干渉の式の構造を把握しました。森全体の獣に、同じ式が流しこまれています。発信源は東の奥。既に途絶えていますが、式そのものは獣たちの体に残留し、互いに共鳴して恐慌を維持しています」
(全部、消せるか)
「共鳴の経路を逆に辿れば、一度に全ての個体の式を書き換えられます。ただし、規模が大きすぎます。我が君の魔力の消耗が激しくなります」
(構わない)
「了解しました。式を組みます。我が君、右手を黒角に」
右手を伸ばす。
黒角の巨体が目の前で震えていた。怯えているのだ。森の主と呼ばれた獣が生まれて初めて、自分よりも大きな何かを前にして。
「……怖かったよな」
思わず、声に出していた。
「勝手に怖がらされて、勝手に暴れさせられて」
里を焼いた者たちと、同じ文字。この獣も、自分と同じだった。
(NOA。殺さなくていい。外してやってくれ)
「了解しました。干渉の式のみを削除します」
指先から、光が走った。
青い光の糸が黒角の体に絡みついた白い文字列に触れる。白い文字が端からほどけていく。糸が引き抜かれるように、一本、また一本。
ほどけた文字はそのまま光の粒になって、峡谷の外へ、森全体へと広がっていった。
共鳴の経路を、逆に辿って。
遠くで、狼の遠吠えが聞こえた。悲鳴ではない。どこか、我に返ったような、静かな声だった。
森のあちこちから、獣たちの声が次々と上がり、それからふっと静まっていく。
地鳴りが止んだ。
黒角の赤い目から、色が抜けていった。
血のような赤がゆっくりと褪せていく。その下から現れたのは深い森の色をした、穏やかな茶色の瞳だった。
黒角は長いあいだアルトを見つめている。
それから、ゆっくりと前脚を折り、頭を垂れた。ねじれた二本の角の先が浅瀬の水面に触れる。
まるで、群れの長の前で首を垂れる若い獣のように。
「我が君。この個体は、我が君を上位の存在と認識しました」
(……そういうのは、いいんだよ)
黒角はしばらく頭を垂れたままでいたが、やがて立ち上がり、静かに峡谷の上流へ去っていった。片目から流れる血の跡が月明かりの中で点々と続いていた。
◇
黒角の足音が完全に聞こえなくなるまで、アルトはその場に立ち尽くしていた。
峡谷に、沢の音だけが戻ってくる。苔の淡い光がゆっくりと消え、夜の冷たさが肌に戻ってきた。
髪がまだ銀色のままだった。頬に垂れた一房を指でつまむ。月明かりを吸いこんだように、ほのかに光っている。
ベルズに来てから、この色を見るのは初めてだった。
くすんだ金色の髪で、魔力三百十の新人として、カイと溝をさらいマーサのシチューを食べ、屋根の上で黒茶をすすってきた。その全部がこの一瞬で崩れてしまうかもしれない。
それでも、後悔はしていなかった。
「我が君。心拍数は落ち着いています。意外です」
(意外か)
「はい。正体が露見する可能性がある状況で、我が君がこれほど落ち着いているのは、初めてです」
(……決めたからだろうな)
「何をでしょうか」
(隠すより、守るほうを選ぶって)
NOAは少しの間、何も言わなかった。
「記録しておきます。重要な記録として」
膝から力が抜けた。
浅瀬に手をつく。冷たい水が指の間を流れていく。体の奥が空っぽになったように軽く、それでいて重かった。
「魔力の消耗、約二割。問題ありません。ですが、急いでください。リオラの容態が」
振り返る。
リオラは浅瀬の中で、岩壁にもたれて座っていた。目は半分閉じかけ、唇が青ざめている。
「NOA、治せるか」
「完全な治癒は、時間がかかります。ですが、肺の傷を塞ぎ、出血を止めることはできます。骨の接合も、仮止めなら」
「やってくれ」
リオラの脇腹に手を当てる。
理の層の中で、折れた骨と破れた血管と傷ついた肺の式が、赤く明滅していた。NOAが組んだ式がそこへ流れこんでいく。
破れた血管の式が繋ぎ直され、溢れていた血の流れが止まる。肺の傷口が内側から少しずつ塞がっていく。
リオラの呼吸がほんの少しだけ楽になった。
リオラの呼吸を確かめながら、アルトは峡谷の上流を見上げていた。
黒角が去っていった方角。そのさらに奥、森の東の果て。白い文字の式を獣たちに流しこんだ者たちが、どこかにいる。
「我が君。共鳴の経路を辿った際、発信源のおおよその位置を特定しました。東の奥、巨木の根に囲まれた窪地です。ただし、術者たちは既に移動しています」
(逃げたのか)
「はい。獣を暴走させたのは、追手を足止めするためだったと推定します」
拳を握りしめた。
(森の獣を何千も殺して、魔力を吸い上げて。用が済んだら、残った獣を狂わせて人にけしかける)
リオラの脇腹の傷。カイの背中の傷。黒角の片目から流れる血。
(あいつらは、里でも同じことをしたんだな)
焼けた梁。砕けた弓。途切れた泣き声。
何かを手に入れるためなら、その途中にあるものは全部焼いてもいい。踏みつぶしてもいい。それがあの国のやり方なのだ。
「我が君。覇気が再び漏れはじめています」
(……分かってる)
「抑制します。ですが、我が君」
NOAの声がわずかに硬くなった。
「ご命令があれば、発信源の者たちを追跡する手段を演算します」
アルトは長いあいだ黙っていた。
追いかけたい、と思った。追いかけて、問い詰めたい。なぜ里を焼いたのか。なぜこの森を殺したのか。
けれど、腕の中でリオラが小さく身じろぎした。
(……今は、この人を町に連れて帰るのが先だ)
「了解しました。記録だけしておきます」
(いつも、それだな)
「はい。私は、記録を消しません」
「……あたたかい」
かすれた声がした。
見下ろすと、リオラの灰青の瞳が、ぼんやりとこちらを見上げていた。焦点が合っていない。夢の中にいるような、遠い目だった。
「なんだか……懐かしい」
ほとんど聞き取れないほどの声だった。
「故郷の……樹の、前に……いるみたい」
リオラの手がゆっくりと持ち上がった。震える指先がアルトの頬のすぐ横に垂れた髪に、触れかけて。
「……銀の、髪」
指が止まった。
手がぱたりと水の中に落ちる。リオラの瞼が閉じ、頭がかくりと岩壁にもたれた。
息はしている。穏やかな、眠るような呼吸だった。
アルトは凍りついたまま動けなかった。
「我が君」
NOAの声が静かに響いた。
「偽装の再展開を、推奨します」




