第二十五話 獣の波
飛び起きたカイが寝ぼけた目で辺りを見回した。
「な、なんだ? 地震か?」
「違う。立て、カイ」
アルトはカイの腕を掴んで引き起こした。
地鳴りはもう耳を澄まさなくても聞こえるほどになっていた。森の奥の闇から、何かが押し寄せてくる。
枝の折れる音。下草を踏みしだく音。獣の荒い息遣いと、甲高い悲鳴のような鳴き声。
「我が君。東から、大量の生体反応が接近中。推定、二千以上。角兎、森狼、鹿、猪。種を問わず混在しています」
(二千……)
「全個体の魔力の流れに、異常な乱れがあります。恐慌状態です。外部から、何らかの干渉を受けています」
視界の端に、青い点が無数に浮かび上がった。東の森の奥から、扇状に広がりながらこちらへ向かっている。
まるで、決壊した堤から溢れ出す濁流のように。
「三日月! 壁を!」
リオラの声が飛んだ。
「もうやってる!」
三日月の三人が野営地の東側に横一列に並んでいた。杖を地面に突き立て、声を揃えて詠唱する。三本の杖の先から青白い光が走り、地面を這って一本の線になった。
線から、氷が噴き上がった。
人の背丈ほどの氷の壁が野営地の東側を覆うように立ち上がる。冷気が一気に広がり、焚き火の炎が揺らいだ。
「赤狼! 壁の両端を固めて! 壁を回りこんできた奴を叩くのよ!」
「おう!」
ダグが両手剣を抜き放ち、赤い外套の団員たちが二手に分かれて走る。
「荷物持ちは真ん中! ロバと一緒に、天幕の陰に!」
リオラの指示は短く、迷いがなかった。
カイがアルトの腕を引いて、天幕の陰へ走る。見習いの少年が真っ青な顔でロバの手綱を握りしめていた。
最初の一頭が見える。
森狼だった。目が赤く光り、口から泡を吹いている。氷の壁に気づいているのかいないのか、まっすぐに突っこんできた。
氷に激突する。鈍い音。森狼は弾き返され、地面に転がった。
それでも起き上がり、また壁に向かって突進する。
二頭目。三頭目。十頭。百頭。
闇の中から、獣たちが次々と湧き出してきた。角兎も鹿も猪も、互いを踏みつけながら、ただひたすらに西へ。
氷の壁に体当たりし、弾かれ、その上を次の獣が乗り越えようとする。
壁が軋んだ。
「長くはもたないわよ!」
三日月のリーダーが額に汗を滲ませて叫んだ。
「我が君。氷の壁の耐久限界まで、推定三分」
(三分で、この数を止められるわけがない)
「はい。壁が崩れた場合、野営地は獣の波に呑まれます。生存確率は、全体で四割程度と推定します」
四割。
カイの横顔を見た。剣を握りしめ、歯を食いしばって、氷の壁の向こうの闇を睨んでいる。足は震えていた。
それでも、一歩も下がっていなかった。
「全員、北へ! 沢沿いに上流へ下がるわよ!」
リオラが叫んだ。
「壁はもたない! 波の真正面にいたら呑まれる! 横へ逃げて、やり過ごすの!」
判断が早い。獣の波は西へ向かっている。ならば、その進路から外れればいい。
「NOA」
「同意します。最適な判断です。北の沢の上流に、岩場があります。獣の波の進路から外れています」
冒険者たちが一斉に動き出した。三日月の三人が壁を維持したまま後退し、赤狼の牙が殿を固める。カイがロバの手綱を引き、見習いの少年がその後ろを走る。
アルトも走った。
背後で、氷の壁が砕ける音がした。
轟音とともに、獣の波が野営地になだれこむ。天幕が引き裂かれ、焚き火が蹴散らされ、残された荷物が踏み潰されていく。
沢へ向かって走りながら、アルトは一度だけ振り返った。
崩れた氷の壁の手前で、リオラが一人、獣の波を食い止めていた。
剣が閃くたびに、森狼が倒れる。跳びかかってくる猪の牙を紙一重でかわし、その首筋を斬り裂く。風をまとった刃が三頭の角兎をまとめて薙ぎ払った。
外套の裾が翻り、編みこんだ白金の髪が月明かりの中で弧を描く。
舞っているようだった。
二百年前の戦場で、聖騎士団を三日三晩足止めした剣。その一端を、アルトは初めて見た。
「我が君。リオラは、殿として全員の退避の時間を稼いでいます」
(一人でか)
「はい。他の誰にも、あの役割は務まらないと判断したのでしょう」
見習いの少年がすぐ前で足をもつれさせた。アルトは少年の腕を掴んで引き起こし、背中の杖を抜いた。
追ってくる森狼が一頭。杖の先を向け、出力の上限の範囲で風を放つ。森狼の足元の落ち葉が舞い上がり、獣の視界を塞いだ。
その隙に、少年の背中を押して走らせる。
「出力、初級相当。問題ありません」
(これくらいなら、杖のおかげで通るな)
「はい。壁抜きの名に恥じない働きです」
(名前のことは忘れろ)
背後で、リオラの剣がまた閃いた。やがて彼女は身を翻し、最後尾から追いついてくる。息ひとつ乱れていなかった。
「止まらないで!」
リオラの声が最後尾から響いた。
◇
沢沿いの斜面は暗く、足場が悪かった。
濡れた岩。絡み合う木の根。苔に覆われた倒木。
月明かりだけを頼りに、冒険者たちは一列になって上流へと走った。
「我が君。足元の段差を表示します」
視界に、青い線が浮かぶ。それに従って岩を踏み、根を跳び越える。エルフは夜目が利く、という言い訳は、少なくとも今だけは本当のことになっていた。
前を走るカイが木の根に足を取られた。
「うわっ」
倒れかけたカイの襟首を掴んで、引き戻す。
「わ、悪い……!」
「前だけ見て走れ」
「おう!」
背後の獣の波の音が少しずつ遠ざかっていく。進路から外れることができたのだ。
そう思った、その時だった。
「警告。右手の斜面上方から、別の群れが接近。数、約三百。こちらへ向かっています」
(別の群れ?)
「本隊から分かれた群れです。進路が、沢と交差します」
右手の斜面の上で、木々が揺れた。
赤い目が闇の中でいくつも光った。
「上から来る!」
ダグの叫び声と、獣の群れが斜面を駆け下りてくるのが、ほとんど同時だった。
隊列の真ん中に、獣の濁流が突っこんでくる。
鹿の角が赤い外套の団員の盾を弾き飛ばした。猪が三日月の一人を突き倒す。カイの悲鳴が聞こえた。
ロバが恐慌を起こして暴れ、手綱が千切れる。
「カイ!」
叫んだ瞬間、横から何かがぶつかってきた。
大きな猪。体当たりをまともに受け、アルトの体は宙に浮いた。
背中から斜面に叩きつけられる。そのまま、転がり落ちていく。濡れた落ち葉と泥の上を、止まる手がかりもなく。
「我が君!」
視界が回る。木の幹に肩をぶつけ、岩に膝を打ち、さらに下へ。
沢の音が急に大きくなった。
その時、誰かの手が、アルトの手首を掴んだ。
強い力だった。落ちていく体ががくんと止まる。
見上げると、白金の髪が月明かりに光っていた。
「捕まえた」
リオラだった。
片手で斜面の木の根を掴み、もう片方の手でアルトの手首を握っている。外套が泥にまみれ、頬に擦り傷ができていた。
それでも、口元にはいつもの笑みが浮かんでいた。
「坊や、けっこう重いわね」
「リ、リオラさん、なんで」
「荷物持ちは私の近くにいなさいって、言ったでしょ」
頭上の斜面を、獣の群れが駆け抜けていく音がした。悲鳴と怒号。それが少しずつ遠ざかっていく。
他の冒険者たちは斜面の上だ。アルトとリオラだけが群れの進路から外れた谷底近くに取り残されていた。
◇
谷底に着く前のことを、アルトは後になって何度も思い返すことになる。
獣の群れが斜面を駆け下りてきた時、真っ先に動いたのはカイだった。
見習いの少年が暴れるロバの手綱に絡まって転んでいる。その真上に、角を振り立てた雄鹿が迫っていた。
カイは何も考えていなかったのだと思う。
剣も抜かずに飛びこみ、少年の体を抱えて斜面を転がった。雄鹿の角がカイの背中をかすめ、地面に突き刺さる。
外套が裂け、背中に赤い筋が走った。
「カイ!」
「大丈夫だ! こいつ連れて上に行く!」
カイは少年を抱えたまま立ち上がり、斜面の上を目指して走り出す。その背中をダグの太い腕が引き上げるのが見えた。
それがアルトが落ちる前に見た最後の光景だった。
「我が君。カイ・ロウエルの判断は、合理的ではありませんでした」
(……知ってる)
「ですが、見習いの少年の生存確率を、ほぼ零から九割以上に引き上げました」
(あいつは、そういう奴なんだよ)
どれくらい転がり落ちたのか、分からなかった。
気づけば、頭上の斜面ははるか高く、木々の間に月が小さく見えるだけになっていた。
谷底は沢が岩を削ってできた細い峡谷になっている。
両側を切り立った岩壁に挟まれ、頭上には細い夜空が見えるだけだった。冷たい水の音が反響している。
リオラは岩壁の窪みにアルトを押しこみ、自分はその前に立った。剣を抜き、峡谷の上流と下流を交互に見張っている。
「怪我は?」
「……打ち身くらいです」
「そう。よかった」
「我が君の負傷を報告します。左肩の打撲、右膝の擦過傷。軽傷です」
(他のみんなは)
「斜面の上の生体反応を確認しています。赤狼の牙、三日月、カイ・ロウエル、見習いの少年。全員、生存しています。北の岩場へ退避中です。ロバは一頭、逃げました」
息を吐いた。全身から、力が抜けそうになった。
「カイ君なら大丈夫よ。ダグがついてるわ。あの子、ああ見えて面倒見がいいの」
リオラがこちらを振り向かずに言った。
まるで、アルトが何を心配しているのか分かっているかのように。
「上に戻る道を探さないといけないわね。夜が明けるまで、ここで待つのが一番安全だけど」
「我が君。峡谷の下流に、斜面を上がれる場所があります。約六百歩先です。ただし」
(ただし?)
「峡谷の上流から、一体、大型の生体反応が接近しています。これまでの獣とは、魔力の規模が違います。推定、通常の猪の三十倍以上」
背筋が凍った。
峡谷の上流の闇の中で、何かが動いた。
地面が揺れる。一歩、また一歩。重い足音が岩壁に反響しながら近づいてくる。
リオラが剣を構え直した。その背中がわずかに強張るのが分かった。
「……坊や。そこから動かないで」
声が低かった。
闇の中から、それが姿を現す。
猪だった。だが大きさが違う。肩の高さだけで、リオラの背丈の倍はある。
黒い剛毛に覆われた体は小屋ほどもあった。口の両端から突き出した牙は、大人の腕よりも太く、ねじれた二本の黒い角が額から伸びている。
その目が血のように赤く光っていた。
「黒角……!」
リオラが呟いた。
「この森の主よ。普段は森の一番奥から出てこないはずなのに」
「我が君。この個体の魔力の流れに、外部からの干渉の痕跡があります。先ほどの獣の群れと同じ種類の。そして、それが最も強くかかっています」
黒角が鼻を鳴らした。
吐き出された息が白い霧になって峡谷を満たす。赤い目がリオラを捉えた。それから、その背後の岩壁の窪みにいるアルトを。
黒角が前脚で地面を掻いた。
岩が砕ける音がした。




