第二十四話 星痕の徒
同じ夜、同じ森のさらに奥。
巨木の根が絡み合ってできた窪地の底に、白い光が満ちていた。
地面に、直径二十歩ほどの円が描かれている。円の内側には八つの頂点を持つ星の図形が重ねられ、その線の一本一本が、月の光を集めたような白い輝きを放っていた。
図形の隙間を埋めるように、細かな文字がびっしりと刻まれている。
星の聖文。
神が世界に記した文字を、人の手で地に写したもの。そう教えられて育った。
ユーリは円の外縁に膝をつき、震える手で燭台の炎を守っていた。
十七歳。星読み院の見習い神官になって、まだ二年しか経っていない。白い法衣の裾は泥にまみれ、手はかじかんで感覚がなかった。
この森に入ってから、もう二十日になる。
「ユーリ。灯りが揺れている」
低い声が背後から降ってきた。
振り返らなくても分かる。カラム師だ。
「も、申し訳ありません」
「聖文の灯は、星の御心の写し。揺らぐことは、信仰が揺らぐことと同じだ。気を引き締めなさい」
「はい」
カラムは円の反対側へゆっくりと歩いていった。
背の高い、痩せた男だった。年は五十を過ぎている。灰色の髪を短く刈りこみ、頬はこけ、目だけが異様に澄んでいた。
法衣の胸には銀糸で八芒星が刺繍されている。星読み院の上級神官。この探索隊の長だった。
円の周りには他に五人の男たちがいた。法衣ではなく、目立たない旅装をしている。腰には短剣。
聖騎士団から選ばれた、隠密の任に就く者たちだった。
「師よ。陣の充填が、九割を超えました」
円の中心を見つめていた男が低く報告した。
「よろしい」
カラムは円の縁に立ち、星の図形を見下ろした。
白い光の中心に、黒い石がひとつ置かれている。拳ほどの大きさで、表面に細かな亀裂が無数に走っていた。
その亀裂の奥で、何かがかすかに脈打っている。
星図の核。星読み院が百年かけて育ててきた、遺物を探すための道具だった。
「この森の魔力で、ようやく核が目覚める。四十年前に東の果てで観測された遺物の残響を、もう一度追うことができる」
カラムの声には静かな熱があった。
ユーリは燭台を握りしめる。
この陣を満たすために、二十日間で森の獣を何千と殺した。鹿も、猪も、狐も、鳥も。陣の端に獣を追いこみ、聖文で魔力を吸い上げる。
吸われた獣は苦しむ間もなく痩せ細って倒れていく。
最初の三日は眠れなかった。
十日目には慣れた。
二十日目の今は何も感じない。そのことが少しだけ怖かった。
◇
ユーリは星読み院の孤児だった。
物心ついた時にはもう星都の大聖堂の奥で暮らしていた。親の顔は知らない。冬の朝、聖堂の石段に捨てられていたのだと、育ての神官から聞かされた。
星読み院はそういう子供を何十人も育てていた。読み書きを教え、星の聖文を教え、星の御心に仕える者として育てる。
ユーリはその中で、特別に優秀なわけでも、特別に劣っているわけでもなかった。
ただ一つ、他の子と違うことがあった。
翌年の冬に石段に捨てられていた少女と、一番の仲良しだったことだ。
エステル。
白い髪をした、無口な女の子だった。ユーリが話しかけても、たいていは黙って首を傾げるだけ。けれど夜に二人で聖堂の屋根に登って星を見上げる時だけは、ぽつりぽつりと言葉を口にした。
――星がうるさいの。
七歳のエステルはそう言った。
――みんな、星は黙ってるって言うけど。わたしにはずっと何か喋ってるように聞こえる。
その翌年、エステルは星読み院の聖女に選ばれた。理を星の文字として読むことのできる、百年に一人の才能。
それ以来、ユーリが彼女と言葉を交わしたことは一度もない。聖女は大聖堂の最奥で暮らし、見習いの神官が近づくことは許されないからだ。
四か月前、そのエステルが東の空に「王の産声」を聞いたのだという。
ユーリはそれを聞いた夜、久しぶりに聖堂の屋根に登った。
星は相変わらず黙っていた。ユーリには今も何も聞こえない。
「ベネディクトからの報告を、もう一度確認しておこう」
カラムが懐から、一枚の羊皮紙を取り出した。
隠密の一人がそれを受け取って燭台の光にかざす。
「辺境ベルズにて、東から来たと思われるエルフの新人冒険者を一名確認。砂竜の成体の背鱗を所持。魔力測定は三百十。凡庸。ただし、本人の申告する出身地に不自然な点あり。名はアルト」
「凡庸、か」
カラムが目を細めた。
「ベネディクトは優秀な商人だが、人の魔力を見る目は持っていない。三百十という数字も、ギルドの水晶が出した値にすぎない」
「では、師はそのエルフが」
「分からぬ。だが」
カラムは東の空を見上げた。木々の枝の隙間から、星がいくつか覗いている。
「四か月前、星読み院の聖女が東の果てに王の産声を聞いた。シルヴェールの里を焼いた、ちょうどその頃だ。そして同じ頃、その東の果てから、一人のエルフが砂海を越えてベルズに現れた」
カラムは羊皮紙を丁寧に畳み、懐に戻した。
「偶然を信じるのは、神を信じぬ者のすることだ」
ユーリは燭台の炎を見つめていた。
シルヴェールの里。
話だけは聞いていた。東の果ての森の奥に、古王朝の遺民が隠れ住む里があったこと。そこに、星読み院が探し求める遺物が眠っていたこと。
聖騎士団の一隊がそれを奪いに行き、遺物は見つからず、里だけが焼かれたこと。
エルフは神の文を盗んだ種族。生かしておけば、神の文がさらに汚される。だから、焼いてよいのだ。
ずっと、そう教えられてきた。
なのにユーリは時々、その里に子供はいたのだろうか、と考えてしまう。そう考えるたびに、胸の奥が冷たくなるのだった。
◇
カラムは陣の縁に膝をつき、両手を組んで星を仰いだ。
低い祈りの声が窪地に響く。ユーリも、隠密たちも、それに倣って膝をついた。
「星よ。御身の記した文を、我らは人の手に取り戻さん。亜人に盗まれし譜を、正しき信徒の手に」
祈りが終わると、カラムはしばらく黙って星を見上げていた。
「ユーリ。私の故郷の話をしたことがあったか」
「……いいえ」
「ロートリンゲンとの国境の村だ。二百年前の戦で、村は連合の軍に焼かれた。私の曾祖父の代のことだがな。曾祖父は、エルフの剣士が村の神殿を斬り捨てるのを見たと、死ぬまで語っていた」
カラムの横顔は静かだった。
「憎しみで信仰を語るつもりはない。だが、亜人と星の文は相容れぬ。それだけは、確かなことだ」
ユーリは何も言えなかった。
焼かれた村。焼いた村。その話をしている時のカラム師の目が、どこか自分と同じように迷っているように見えたのは、気のせいだろうか。
陣の充填が満ちる直前、見張りに立っていた隠密が駆け戻ってきた。
「師よ。西に人の気配があります。十数名。野営をしています」
カラムの眉がぴくりと動いた。
「ベルズの冒険者か」
「おそらく。赤い外套の一団と、青い長衣の魔法使いが三名。それから、灰色の革鎧のエルフの女が一人」
「エルフの、女」
「白金の髪を編んでいます。細身の剣と、短弓。魔力は、相当なものかと」
カラムは長いあいだ黙っていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「月影のリオラだ」
隠密たちがわずかに身を固くした。ユーリでさえ、その名前は知っていた。二百年前の星征戦争で、ロートリンゲンの森で聖騎士団の一隊を三日三晩足止めした、エルフの剣士。
星読み院の記録にも、その名は不吉な印とともに残されている。
「まだ生きていたか。エルフというのは、本当にしぶとい」
カラムは乾いた声で言った。
「辺境ベルズのギルドを預かっていると聞いてはいたが。あの女が自ら動くとなると、この陣に勘づいた可能性がある」
「始末しますか」
「愚かなことを言うな。我らは七人。向こうは月影を含めて十数名。それに、ここで騒ぎを起こせば、連合に我らの存在を知らせることになる」
カラムは円の中心の黒い石を見下ろした。
石の亀裂の奥の脈動が少しずつ速くなっている。もうすぐ、目覚める。
「核の目覚めを待ってから、退く」
「ですが、それでは追いつかれるのでは」
「追わせなければよい」
カラムは円の外縁に刻まれた文字の一列を指さした。
「陣の流れを逆にする。吸い上げた魔力の一部を、森に還す。ただし、獣たちの恐怖を煽る形でな」
ユーリの手から、燭台が落ちそうになった。
「し、師よ。それは」
「森に残った獣は、まだ数千はいるだろう。それが一斉に恐慌を起こし、西へ走る。野営している冒険者どもは、その波に呑まれる。我らを追うどころではなくなる」
淡々とした声だった。明日の天気を話すように。
「彼らは、死ぬのではありませんか」
口に出してから、ユーリは自分の声が震えていることに気づいた。
カラムが振り返った。
澄んだ目がまっすぐにユーリを見下ろしている。怒っているわけではなかった。ただ、静かに、悲しんでいるようにさえ見えた。
「ユーリ。お前は優しい子だ」
「……」
「だがな、星の御心は、我らの優しさよりもずっと大きい。月影のリオラは、二百年前に多くの信徒を殺した。あの女と共にいる者たちも、星の文を汚す亜人と、それに与する者たちだ」
カラムはユーリの肩に、そっと手を置いた。
「迷う時は、星を見なさい。星は、決して迷わない」
ユーリは何も言えなかった。
頭上を見上げる。枝の隙間に、冷たく光る星があった。いつもなら心を落ち着かせてくれるはずの光が、今夜はひどく遠く感じられた。
◇
核が目覚めたのは夜半を過ぎた頃だった。
黒い石の亀裂から、白い光が噴き出す。光は一本の細い糸となって空へ伸び、星々の間を探るように揺れたあと、ある一点を指し示して止まった。
西。いや、わずかに南西。
「方角、確定しました」
隠密の一人が星図と照らし合わせて報告する。
「ベルズの、南です。距離から見て、町の南の外れ。古い鉱山の、地下かと」
「鉱山の地下、か」
カラムが初めて薄く笑った。
「古王朝の遺構が、あの町の足元に眠っていたとはな。四十年探して、見つからなかったわけだ」
光の糸がふっと消えた。黒い石の亀裂が広がり、ぱきりと音を立てて二つに割れる。役目を終えたのだ。
「退くぞ。陣を反転させろ」
「はっ」
隠密たちが円の外縁に膝をつき、刻まれた文字の一列に手をかざした。低い詠唱が重なっていく。
白い光が色を変えた。
月の光のような冷たい白から、血のような赤へ。
円の中に満ちていた魔力が逆流を始める。地面を伝い、木々の根を伝い、森の奥へ奥へと染みこんでいく。
そこに潜んでいた獣たちの体へ。
遠くで、狼が一頭、悲鳴のような遠吠えを上げた。
続いて、もう一頭。さらにもう一頭。
森がざわめきはじめた。何千という生き物が一斉に目を覚まし、得体の知れない恐怖に駆られて、一つの方角へ走り出そうとしている。
西へ。
ユーリは燭台を抱えたまま、その場に立ち尽くしていた。
「ユーリ。行くぞ」
「……はい」
カラムの背中を追って走り出す。
振り返ると、赤く染まった陣の光が、木々の間でゆっくりと消えていくところだった。その向こうの闇の中を、地鳴りのような音が、西へと遠ざかっていく。
あの音の先に、人がいる。
ユーリは唇を噛み、星を見上げた。
星は何も答えなかった。




