第二十二話 屋根の上の二人
「おや、二杯も淹れて。誰の分だい」
厨房で器を布に包んでいると、背後からマーサの声がした。寝る前の見回りの途中らしく、手燭を持っている。
「……自分の分です。二杯飲むんです」
「夜中に二杯も飲んだら、眠れなくなるだろうに」
「我が君。嘘の精度が、また最低値を更新しています」
(お前は黙っててくれ)
マーサは布に包まれた二つの器と、アルトの顔を交互に見た。それから、にやりと口の端を上げた。
「まあいいさ。夜風は冷えるからね。相手の分、冷めないうちに届けておやり」
「だから、自分の分で」
「はいはい」
マーサは手燭を揺らしながら、鼻歌まじりに二階へ上がっていった。
「我が君。女将は、この器の行き先を推定しています」
(なんで分かるんだ)
「我が君が屋根の上の方角ばかり見ているからです」
その夜、アルトは黒茶を二杯淹れた。
一杯は自分の分。もう一杯はなんとなく。
「我が君。二杯目の用途を確認させてください」
(……気が向いたんだよ)
「了解しました。屋根の上への持参と推定します」
(推定するな)
陶器の器を二つ、布で包んで抱える。宿を出て、ギルドの裏手へ回った。
建物の脇の雨樋を伝って三階の窓枠に手をかけるのは、もう三度目になる。一度目は窓から入ったが二度目からはこっちのほうが早いと分かった。
「我が君の登攀技術は、初回と比較して四割向上しています」
(弓より上達が早いな)
「弓の上達率は、現在のところ測定不能です」
(ゼロってことだろ)
屋根の上に顔を出すと、リオラはいつもの場所で仰向けに寝転がっていた。
月の明るい夜だった。白金の髪が瓦の上に広がり、淡い光を受けて銀色に見える。目を閉じていたがアルトが屋根に足をかけた瞬間、口元だけが動いた。
「いらっしゃい、坊や。気が向いたの?」
「……向きました」
「そう。嬉しいわ」
リオラは目を開け、身を起こした。器を受け取ると、両手で包むように持って、湯気の匂いを深く吸いこむ。
「いい匂い。今日のは少し甘いわね」
「豆を変えました。ザイードさんの、南の別の山のやつです」
「ザイード?」
「市場の豆売りのお爺さんです」
「ああ、あの南から来た人。あなた、いつの間にか町じゅうに知り合いがいるのね」
言われてみれば、そうかもしれなかった。マーサ、カイ、ミレイユ、トマス、ザイード、バルド。里を出た時には誰一人知らなかったのに。
屋根に腰を下ろした瞬間、夜空を一筋の光が走った。
流れ星だった。東の荒野の上を、白い尾を引いて斜めに落ちていく。
「あ」
リオラが小さく声を上げた。
「見た? 流れ星」
「見ました」
「エルフィリアではね、流れ星を見たら、世界樹の葉が一枚落ちたって言うの。誰かが遠くで生まれたか、遠くで死んだかの印だって」
リオラは流れ星の消えた空をしばらく見つめていた。
「生まれたほうだといいわね」
アルトは何も言わなかった。ただ、星の消えたあたりの空を、同じように見上げている。
しばらく、二人で黙って黒茶をすすった。
眼下に、夜のベルズが広がっている。酒場の窓の灯り。夜回りの松明が通りをゆっくりと移動していく。
遠くの南の下町は暗く、ぽつりぽつりと小さな灯りが見えるだけだった。
その灯りのどれかがカイの家なのだろう。
「南の下町でね」
リオラがぽつりと言った。
「奇跡が起きたって噂になってるわ。生まれつき寝たきりだった鉱夫の娘が、ある朝いきなり走り出したって。町医者が腰を抜かして、ギルドまで報告に来たのよ。何か知らないかって」
器を持つ手が少しだけ揺れた。
「我が君。表情を固定します」
「……へえ。よかったですね」
「ええ、本当に」
リオラは眼下の町を見つめたまま、それ以上何も言わなかった。
何か聞かれると思っていた。坊やが関わってるんでしょ、と。けれどリオラは黒茶をもう一口すすって、小さく息を吐いただけだった。
「我が君。この個体は、我が君の関与を確信している可能性が高いです。ですが、追及しませんでした」
(なんでだろうな)
「判断材料が不足しています」
◇
「ねえ坊や。ガストンの髭、見た?」
唐突な質問だった。
「髭、ですか」
「白いのが混じってきてるでしょう。最近、急に増えたのよ」
「……言われてみれば」
「あの子が冒険者になった日のことを、私、昨日のことみたいに覚えてるの」
リオラは器を膝の上に置き、両手で包んだ。
「二十年前よ。ひょろひょろの、斧に振り回されてるみたいな男の子だった。最初の依頼でゴブリンに追いかけられて、泣きながらギルドに逃げこんできたの」
「ガストンさんが?」
「ええ。今じゃあんなに偉そうに私を屋根から引きずり下ろすけどね。あの子が私に初めて言った言葉は、助けてください、だったのよ」
くすくすと笑う。けれど、その笑いはすぐに引っこんだ。
「人間はね、二十年であんなに変わるの」
月明かりの下で、リオラの横顔は少しも変わらなかった。三百十二年。ガストンが生まれる何百年も前から、この顔のまま。
「二百年前に組んでたパーティの仲間は、みんな人間だった。槍使いと、双子の弓兵と、治癒師の女の子」
声が少しだけ低くなった。
「一人は戦争で死んだわ。他の三人は、それぞれ家庭を持って、子供を育てて、孫を抱いて、それからおじいちゃんとおばあちゃんになって、死んだ。全員、私より先に逝ったわ。最後の一人は治癒師の子で、九十二歳だった。最期に、リオラは変わらないねって笑ってくれた」
夜風が白金の髪を揺らした。
「それからも、何十人と組んだわ。みんな、いい子たちだった。そしてみんな、私より先に年を取って、私を置いていった」
リオラは器を傾け、残った黒茶を飲み干した。
「長く生きるって、置いていかれることなのよ」
淡々とした口調だった。三百年かけて磨かれた石のように、角がない。
それなのに、聞いているだけで胸の奥がきしんだ。
アルトは自分の手の中の器を見下ろした。
置いていかれる。
自分も、そうだった。前世では家族とも疎遠で、一人で死んだ。この世界では八十一人に置いていかれた。たった一晩で。
けれど、リオラの言う意味は少し違う。
自分はハイエルフだ。NOAの話では寿命は事実上ない。カイも、マーサも、ミナも、いつか自分を置いていく。
ガストンの髭が白くなるように、少しずつ、確実に。
それを、考えたことがなかった。
「……だから、ギルドマスターは」
「リオラでいいって言ったでしょ」
「リオラさんは、だから屋根の上にいるんですか。誰とも、近くならないように」
リオラが少し驚いたようにこちらを見た。
それから、ふっと笑った。
「坊や、時々鋭いこと言うわね」
「すみません」
「謝らなくていいわ。半分は当たってる」
リオラは膝を抱え、顎をのせた。そうしていると、ずいぶん幼く見えた。
「もう半分は、ただ空が好きなだけ。屋根の上はね、町のみんなが見えるのに、誰にも見られないの。ちょうどいい距離なのよ」
「……分かる気がします」
「あら、そう?」
「俺も、里では、少し離れたところからみんなを見てるのが好きでした。水車を直してる時とか。みんなが畑仕事してるのを、川べりから眺めてて」
口にしてから、しまったと思った。里の話はしないつもりだったのに。
リオラは何も聞き返さなかった。ただ、静かに頷いた。
「いい里だったのね」
「……はい」
「我が君。故郷に関する情報を開示しました」
(分かってる。でも、これくらいはいいだろ)
「判断を尊重します。記録しておきます」
◇
「坊やの名前、アルトって言ったわね」
ふいに、リオラが言った。
「……はい」
「どういう意味か、知ってる?」
「育ててくれた人は、古い言葉で高いところって意味だって」
リオラが少しだけ目を見開いた。
「古い言葉。そうね、古エルフ語。今のエルフィリアでは、もう誰も使ってないわ。宮廷の古い儀式の時に、少しだけ唱えるくらい」
リオラは夜空を見上げた。
「アルト。高み。古い歌の中では、世界樹の一番上の梢のことをそう呼ぶの。空にいちばん近い場所」
「我が君。名前から出自を推測される危険があります」
(もう遅いだろ)
「……そう思います」
「今どき、子供にそんな名前をつける里があるなんてね。よっぽど古いしきたりを守ってる里なんでしょう」
リオラはそれ以上は何も言わなかった。ただ、空になった器を指先でくるりと回して、小さく笑った。
「いい名前ね。高いところが苦手な子には、ちょっと似合わないけど」
「……苦手じゃないです」
「さっき雨樋を登ってくる時、三回足を滑らせてたわよ」
「見てたんですか」
「屋根の上からは、なんでも見えるのよ」
月が少し傾いた頃、階下から野太い声が響いた。
「ギルドマスター! また屋根の上ですか!」
窓から、髭面の大男が顔を突き出した。ガストンだ。月明かりの下でも、その髭に白いものが混じっているのがはっきりと分かった。
「あら、ガストン。夜中にご苦労さま」
「ご苦労さまじゃありませんよ。……ん? なんでエルフの新人がここにいるんです」
「お茶を届けてもらってたの。あなたが毎朝自慢してる、黒いお茶」
「はあ?」
ガストンはアルトとリオラを交互に見て、何か言いたげに口を開きかけた。それから首を振り、真面目な顔に戻った。
「それどころじゃないんです。東門から報告が。トマスの爺さんが、荒野の縁で魔物の群れを見たって」
リオラの表情が変わった。
さっきまでの柔らかさがすっと消える。灰青の瞳が細められ、眼下の東の方角へ向けられた。
「群れ?」
「角兎と森狼が混ざった群れだそうです。百匹近く。東の森から出てきて、荒野を南へ走っていったと。こっちには来なかったそうですが」
「角兎と森狼が、一緒に?」
「ええ。普通なら食う食われるの関係の奴らが、並んで走ってたそうです。まるで、何かから逃げてるみたいだったと」
アルトの背筋が冷えた。
西へ逃げる獣の足跡。草が丸く焼け焦げた空き地。魔力を根こそぎ吸い出された鹿。
「我が君。森の異変が、表面化しはじめた可能性があります」
(……ああ)
リオラが立ち上がった。瓦の上で、足音ひとつ立てずに。
「ガストン。明日の朝一番で調査隊を組むわ。Cランク以上を二組。それと、荷運びと野営の雑用ができる新人を何人か」
「了解しました」
ガストンが窓の奥に引っこむ。リオラは屋根の縁に立ち、東の空を見据えていた。
その背中に、さっきまで膝を抱えていた幼さはどこにもない。二百年前の戦場に立っていた、月影のリオラの背中だった。
ふいに、リオラが振り返った。
「坊や。明日、空いてる?」
「……え?」
「雑用係。カイ君と二人で、どう? 報酬は弾むわよ」
灰青の瞳が月明かりの中で笑っていた。けれどその奥に、何かを確かめようとするような光があった。
「我が君。この誘いには、我が君を監視する意図が含まれている可能性があります」
(分かってる)
「断ることを推奨しますか」
(いや)
アルトは空になった器を握りしめた。
森で何かが起きている。あの焼け跡の主がまだそこにいるかもしれない。
「行きます」




