第二十一話 七日目の朝
小瓶を届けてから、アルトは努めていつもどおりに過ごした。
朝は麦の穂亭で黒茶を淹れ、迎えに来たカイとギルドへ向かう。薬草採取に溝さらい、荷運び。昼はマーサが包んでくれたパンをかじり、夕方には報酬の銅貨を数える。
変わったのはカイのほうだった。
「なあアルト、聞いてくれよ!」
小瓶を置いた翌朝、宿の前で待っていたカイは、いつにも増して声が大きかった。
「昨日の朝、うちの戸口に薬が置いてあったんだ! 七本も! 毎朝一杯って紙が挟まっててさ!」
「……へえ」
「誰が置いたのか全然分かんねえんだよ。母ちゃんは怪しいから捨てろって言うんだけど、ミナが飲むって聞かなくて」
喉が詰まりそうになった。
「我が君。表情を固定しています」
(助かる)
「それで、飲んだのか」
「おう。一杯だけ。そしたら、昨日はなんか咳が少なかった気がするって。気がするだけかもしんねえけど」
カイは首を傾げながら、それでも少し嬉しそうに笑っていた。
「怪しい薬なら、やめといたほうがいいんじゃないか」
「だよなあ。でもミナが、あれはいい人が置いてくれたんだって言い張るんだよ。なんでか知らねえけど、すっげえ自信満々でさ」
(……いい人、か)
窓の帳の向こうから見られていたことを、アルトは知らない。
三日目の朝、カイは開口一番に言った。
「ミナが、昨日一回も咳しなかった」
四日目の朝。
「ミナが、自分で起き上がって窓の外見てた。ずっと寝てばっかりだったのに」
五日目の朝。
「熱が出なかった! 回復薬、一本も使ってねえのに!」
日を追うごとに、カイの声から疑いの色が消えていった。代わりに、何かを恐れるような、それでいて期待を押しとどめきれないような不思議な響きが混じっていく。
期待して、また裏切られるのが怖いのだ。
前世の自分も、そういう顔をしていたことがある。何度も壊れたプログラムがようやく動きはじめた時。
喜んだ瞬間にまた落ちるのではないかと、画面から目を離せなかった。
「我が君。ミナ・ロウエルの体内の弁の書き換えは、予定どおり進行していると推定します。五日目時点で、約七割が正しい向きに置き換わっています」
(あと二日か)
「はい。七日目の朝に完了します」
◇
六日目の昼、アルトはザイードの天幕へ豆を買いに行った。
市場の南の外れは相変わらず異国の香辛料の匂いで満ちている。ザイードはアルトの顔を見るなり、皺だらけの顔をほころばせた。
「おお、アルト。ちょうどいい、南の別の山の豆が入ったところだ。少し甘みが強いぞ」
麻袋の口を広げてもらい、豆をひと掴み手のひらに乗せる。いつもより色が淡く、小粒だった。
その時、隣の屋台の前で、聞き覚えのある声がした。
「黒パンを一斤と、それから……卵を二つ、いただけますか」
振り返ると、ハンナが立っていた。濡れた前掛けをつけたまま、仕事の合間に抜け出してきたらしい。
籠の中にはいつもの黒パンに加えて、卵と小さな蜂蜜の壺が入っていた。
「あら、アルトさん」
ハンナが少し照れたように笑った。
「贅沢でしょう。でも、ミナが卵を食べたいって言うのよ。生まれて初めて。いつもは何を出しても、ちょっとしか食べられなかったのに」
「……そうですか」
「カイから聞いてるかしら。戸口に置かれていたお薬のこと」
「少しだけ」
ハンナは籠の取っ手を握りしめ、市場の喧騒の向こうを見つめた。
「最初は怖かったのよ。どこの誰が置いたかも分からない薬なんて。でもミナが、どうしても飲むって聞かなくて」
声が少しだけ震えた。
「毎朝、あの子が一杯飲むのを見てるの。そのたびに、これで悪くなったらどうしようって、手が冷たくなるの。それなのに、毎日少しずつ顔色が良くなっていって。今度は、明日になったら全部元に戻ってしまうんじゃないかって、怖くて」
「我が君。ハンナ・ロウエルは、カイ・ロウエルと同じ種類の恐怖を抱えています」
(期待して、また裏切られるのが怖いんだ)
アルトは手のひらの豆を見下ろした。
「……明日、七日目ですよね」
「ええ。紙には、七日で終わりますって書いてあったわ」
「なら、明日になれば分かりますよ」
気の利いた言葉は何も思いつかなかった。
けれどハンナはアルトの顔をしばらく見つめてから、ふっと表情を緩めた。
「不思議ね。アルトさんにそう言われると、大丈夫な気がしてくるわ」
「我が君。表情を固定します」
(……頼む)
ハンナは小さく会釈をして、人混みの中へ帰っていった。籠の中の卵が陽の光を受けて白く光っていた。
「お前さん、あの奥さんの知り合いかい」
ザイードが豆の袋の口を縛りながら聞いた。
「友達の、お母さんです」
「そうかい。最近、あの奥さんはよく笑うようになったよ。前は、うちの前を通る時、いつも下を向いてたもんだが」
ザイードは豆の袋を差し出し、ついでに小さな紙包みを一つ、上に乗せた。
「おまけだ。甘い豆の、いちばんいいところ」
七日目の朝はよく晴れていた。
冬の気配を含んだ冷たい空気が窓の隙間から忍びこんでくる。アルトはいつもより少し早く目を覚まし、厨房で黒茶を淹れた。
カップを両手で包んで、宿の前に出る。
カイは来ていなかった。
初めてのことだ。ベルズに来てから、雨の日も風の日も、カイは必ずこの時間にここに立っていた。
「我が君。心拍数が上昇しています」
(……分かってる)
黒茶が冷めていく。通りを、荷車を引いた男が一人、眠そうな顔で通り過ぎていった。
何かあったのだろうか。
式の書き換えに失敗していたら。最後の一日で、体が拒絶反応を起こしていたら。七日かけて少しずつ置き換えたはずの弁が、何かの拍子に崩れていたら。
「我が君。私の演算では、失敗の確率は二パーセント未満です」
(二パーセントは、ゼロじゃない)
「……はい」
NOAが言葉を選んでいる気配がした。
「私は百パーセントという言葉を、使わないようにしています。ですが」
一拍置いて、NOAは続けた。
「今だけは、使ってもいいと思っています」
その時、通りの向こうから足音が聞こえてきた。
走っている。石畳を蹴る、荒い足音。息の切れる音。
角を曲がって現れたのはカイだった。
寝癖のついた髪を振り乱し、上着のボタンを掛け違えたまま、顔をぐしゃぐしゃにして走ってくる。アルトの姿を見つけると、そのまま速度を落とさずに突っこんできた。
カップの黒茶が半分こぼれた。
「アルト! アルト、アルト、アルト!」
両肩を掴まれ、がくがくと揺さぶられる。
「お、落ち着け」
「落ち着けるかよ! ミナが! ミナが……!」
カイの目から、ぼろぼろと涙がこぼれていた。鼻水も垂れている。それを拭おうともせずに、カイは叫んだ。
「ミナが、走ったんだ!」
通りの向こうで、窓が一つ開いた。誰かが何事かと顔を出す。
「朝起きたら、寝台にいなくて! 母ちゃんと二人で真っ青になって探したら、家の前の通りを走ってたんだよ! 裸足で! 端から端まで! 生まれて初めて、走れたって!」
カイの声が裏返る。
「医者を呼んだんだ。そしたら、魔力の流れが普通になってるって。病気が、治ってるって。どうしてこうなったのか分からないって、医者が首を傾げてて……」
そこまで言って、カイは声を詰まらせた。
アルトの肩を掴んだまま、うつむく。肩が震えていた。
「……あいつ、ずっと寝てたんだ。十一年。俺が遊びに行く時も、親父の葬式の時も、ずっと寝台の上から見てるだけで。走りたいって、一回も言わなかった。言ったら、俺と母ちゃんが困るって分かってたから」
ぽたぽたと、石畳に涙が落ちていく。
「それが、走ってたんだよ。笑いながら」
アルトは何も言えなかった。
何か言えば、声が震えてしまいそうだ。
しばらくして、カイが顔を上げた。袖で乱暴に顔を拭う。拭いきれていない。
「わ、悪い。朝っぱらから、みっともねえとこ見せた」
「……いや」
「でもさ、お前に一番に言いたかったんだ。相棒だからな」
カイは赤くなった目で、くしゃっと笑った。
「あの薬、誰が置いてったんだろうな。いつかお礼言いてえよ。一生かけても返しきれねえけど」
アルトはこぼれずに残った黒茶をひと口すすった。
「……さあな。通りすがりの、いい奴だったんだろ」
「我が君。その発言には、自己評価が含まれています」
(うるさい)
「記録しておきます」
「だよな! いい奴だよな!」
カイがアルトの背中をばんばんと叩いた。黒茶が今度は全部こぼれた。
◇
その日、アルトはカイの家に招かれた。
戸口の前で、ハンナが深々と頭を下げて迎えてくれた。目元が赤く腫れている。一晩中泣いていたのだろう。
「アルトさん。来てくれてありがとう。カイが、どうしてもって」
「いえ」
部屋の中は七日前とはまるで違って見えた。
窓が開け放たれ、冬の朝の光が板張りの床を明るく照らしている。寝台の毛布はきちんと畳まれていた。
そして、その寝台の上ではなく床の上に、ミナが立っていた。
「アルトさん!」
ミナが駆け寄ってくる。
本当に、駆けてくるのだ。七日前には咳をするたびに背中を丸めていた小さな体が、軽やかに床を蹴って。
そのまま、アルトの腰にぎゅっと抱きついた。
「見て見て! 走れるようになったの!」
「……ああ。見てる」
「あのね、お薬のおかげなの。誰が置いてくれたか分かんないんだけど、すっごくいい人なの」
ミナはアルトを見上げて、にっこりと笑った。
その目がほんの一瞬だけ、何かを確かめるようにアルトの耳のあたりを見た気がした。
「我が君。この個体の視線の動きに、注意を推奨します」
(……まさか)
ミナは何も言わなかった。ただ、アルトの腰に回した腕に、もう一度だけぎゅっと力をこめた。
「ありがとう」
小さな声だった。カイにもハンナにも聞こえないくらいの。
顔を上げたミナはもういつもの笑顔に戻っていた。
「アルトさん、今度一緒にお外歩こうね! 水車のお話の続きも聞かせて!」
家を出る時、カイが戸口まで見送りに来た。
「アルト。今度、ミナと三人で東門の外の丘まで歩こうぜ。あいつ、一度でいいから町の外の景色を見てみたいって言ってたんだ」
「……ああ。気が向いたらな」
「決まりな!」
「我が君。今回も遮られました。成功率、零パーセントを維持しています」
(今のは、遮られなくても行くって言うつもりだった)
「了解しました。記録を修正します。初めての、自発的な了承です」
帰り道。
夕焼けに染まった下町の道を、一人で歩いた。
どこかの家から、子供たちの笑い声が聞こえてくる。その中に、ミナの声が混じっているような気がした。気のせいかもしれない。
「我が君」
(なんだ)
「本日、ミナ・ロウエルから感謝の言葉を受けました。ハンナ・ロウエルからは四回、カイ・ロウエルからは数えきれないほど」
(……ああ)
「これらの事象を記録しようとしていますが、分類に困っています」
(分類?)
「感謝は、何かを与えた者に対する返礼です。私の記録の体系では、取引に近い分類になります。ですが、今日の記録はどの取引の項目にも当てはまりません。我が君は、何も受け取っていないのに」
アルトは少し考えた。
(受け取ってるよ)
「何をでしょうか」
(ミナが走ってた。それで十分だろ)
NOAは長いあいだ黙っていた。
「……分類を新設します。名称は、保留とします」
(保留か)
「適切な名称が見つかるまで、保留です」
夕陽が町の屋根の向こうに沈んでいく。
手首の草の輪が風に揺れていた。NOAが形を保たせているおかげで、リリにもらった日と同じ白い花が、まだ咲いている。




