第二十話 戸口の小瓶
翌朝、アルトは再び東の森へ向かった。
カイには薬草採取の依頼を一人で受けたとだけ伝える。カイは自分も行くと言い張ったが、今日は母親の洗濯屋の手伝いをする約束があるらしく、最後には渋々引き下がった。
「帰ったら、その杖でどんな魔法が使えるのか見せろよ!」
「気が向いたらな」
「絶対だからな!」
背中で叫ぶ声を聞きながら、東門をくぐる。トマスが湯気の立つ茶をすすりながら、片手を上げた。
「おう坊主。今日はえらく立派な杖持ってるじゃねえか」
「北の鍛冶屋さんに作ってもらったんです」
「北の……まさか、バルドの爺さんか?」
トマスが目を丸くした。
「あの偏屈が、新人に杖を打ったってのか。こりゃ珍しいもんを見た。長生きはするもんだな」
森の奥へ進むのは初めてだった。
前回、月光草を採った外縁部を過ぎると、木々の背丈が一気に高くなる。幹は大人が三人で抱えても届かないほど太く、見上げると枝葉が空を覆い隠していた。
地面に届く光はわずかで、空気がひんやりと湿っている。
バルドの描いた地図を頼りに、獣道を辿っていく。
「我が君。周辺の生体反応が、外縁部と比べて著しく少ないです」
(少ない?)
「鳥、小動物、昆虫。いずれも通常の森の三分の一以下です。前回確認した、西へ逃げる足跡と関連がある可能性があります」
耳を澄ます。
確かに、静かすぎた。森の奥なら、もっと鳥の声が聞こえていいはずだ。風が梢を揺らす音と、自分の足音だけが妙に大きく響いている。
(焼け跡の方角は)
「北東です。この経路からは離れています」
背負った杖を、無意識に握り直していた。
泉は地図に描かれたとおりの場所にあった。
苔むした岩に囲まれた、小さな池。底の砂から澄んだ水が湧き出し、水面に細かな波紋を広げている。
周りの岩には確かに銀色に光る苔がびっしりと貼りついていた。
木漏れ日が水面に落ち、銀の苔をきらきらと照らしている。
足が止まった。
きれいだ。里の外れにも、こんな泉があった。夏になるとティオと一緒に足を浸して、冷たいと二人で笑い転げた。
「我が君」
(……大丈夫だ)
バルドに言われたとおり、苔の生えた小石をいくつか選んで、布に包んでいく。苔を傷つけないよう、そっと。
「十分な量です。ミナ・ロウエルの治療に必要な量の、約三倍を確保しました」
(三倍もいらないだろ)
「失敗した場合の予備です」
(……失敗するつもりなのか)
「するつもりはありません。ですが、我が君は前世で、予備を用意しなかったために何度も深夜に作業をやり直していました」
(覚えてなくていいことばっかり覚えてるな、お前)
泉の水を少しだけ手ですくい、口に含んだ。冷たくて、わずかに甘い。
帰り道、一度だけ振り返った。泉の水面が木漏れ日の中でゆらゆらと揺れていた。
◇
泉からの帰り道、獣道の脇に何かが倒れているのが見えた。
鹿だった。大人の雄鹿で、立派な角を持っている。外傷はない。
それなのに、その体はひどく痩せ細り、毛並みは灰色にくすんでいた。まるで、中身を抜き取られた抜け殻のように。
「視界を切り替えます」
理の層で見た瞬間、息を呑んだ。
鹿の体に、文字列がほとんど残っていない。生き物ならあるはずの、魔力の流れの式がごっそりと抜け落ちていた。
そしてその喉元に、白く乾いた文字の痕が、焼き印のように残っていた。
星の光のような、硬い文字。
「月光草の時の焼け跡と同系統の術式です。生き物の魔力を、根こそぎ吸い出しています」
(何のために)
「不明です。ただ、吸い出された魔力は、どこかへ集められたと推定します。一体だけではないかもしれません」
森が静かな理由が分かった気がした。
アルトは鹿の傍らに膝をつき、開いたままの目をそっと閉じさせた。
「……誰かが、この森で何かをしてる」
「はい。そして、その誰かは、我が君を襲った者たちと同じ術を使っています」
立ち上がる。背中の杖がやけに重く感じられた。
(今は、ミナの薬が先だ)
「了解しました。この地点を記録しておきます」
森を出るまで、一度も振り返らない。振り返ったら、足が止まってしまいそうだった。
その夜、アルトは麦の穂亭の厨房を借りた。
マーサが寝室に引き上げた後、竈の火を小さく熾す。鍋に泉の水を張り、月光草の根を刻んで入れる。
「温度を一定に保ってください。沸騰させると、根の精髄が壊れます」
鍋の中で、刻んだ根がゆっくりと揺れている。湯が少しずつ、淡い銀色に染まっていく。前回、森で採って売らずに残しておいた、特級品の根だった。
「抽出、完了です。次に銀苔を」
小石から銀の苔を、慎重に削ぎ落とす。剥がした瞬間から、苔の銀色がみるみるうちにくすんでいく。
急いで鍋に落とすと、湯の表面にさざ波のような光が走った。
「月光草の精髄と銀苔が結合しました。配合比、最適値です」
鍋の中で、銀色の湯がゆっくりと揺れている。
薬草の匂いを嗅いでいると、リーネ婆さんのことを思い出した。
里の外れにある薬草の匂いが染みついた小さな家。乾いた草の束が天井からいくつも吊るされ、棚には色とりどりの小瓶が並んでいた。
子供の頃、熱を出すたびにそこへ連れていかれた。
――薬ってのはね、効き目より先に、作る人の気持ちが入るんだよ。
しわがれた声で、そう言っていた。
――だから、誰のために作るのか、ちゃんと思い浮かべながら煮るんだ。
あの頃は迷信だと思っていた。理の層を見られるようになった今なら分かる。気持ちで薬の式が変わることはない。
それでもアルトは鍋をかき混ぜながら、寝台の上で笑っていた小さな顔を思い浮かべていた。
(リーネ婆さん、見てるかな)
「データがありません」
(だよな)
「ですが」
NOAが少し間を置いた。
「リーネ様が教えた月光草の採り方で採った根を、今使っています。根が一本も切れていないのは、そのためです」
鍋の中の銀色が少しだけ滲んで見えた。
最後に、懐から小さな布の包みを取り出す。
開くと、指先ほどの魔銀の欠片が、ランプの光を受けて淡く光った。三百十二本の線が細い川のように表面を流れている。
「刻印具を薬に沈めます。ここから先は、私の作業です」
(頼む)
欠片を、鍋の中にそっと落とす。
銀色の液体の底で、欠片が青く光りはじめた。
視界が理の層に切り替わる。刻印具の線に沿って、細い光の糸が液体の中へ溶け出していく。NOAが書きこんだ式。
ミナの体の中の、逆さまになった弁の向きを、正しい向きへと少しずつ直していくための式だった。
「式の転写を開始します。一度に書き換えると、体が拒絶反応を起こします。七日間かけて、少しずつ定着させる設計です」
(七日か)
「はい。毎朝、匙一杯ずつ。七日目に、弁の向きが完全に入れ替わります」
鍋の中の光がゆっくりと薄れていった。
最後に、刻印具の欠片だけが鍋の底に残った。線の光は消え、ただの小さな金属片に戻っている。式は全部、薬のほうへ移ったのだ。
「転写、完了しました」
ランプの下で、アルトは鍋を覗きこんだ。
淡い銀色の液体が静かに揺れている。見た目はどこにでもある薬草の煎じ薬と変わらない。
(……通ったか)
「通りました」
NOAの声に、珍しくはっきりとした安堵の響きがあった。
液体を、小さな硝子の瓶に移していく。
七日分。七つの小瓶。マーサの厨房の棚から、余っていた空き瓶をこっそり借りた。明日、返しておこう。
それから、薄い紙を一枚取り出した。
何を書くか、少し迷った。名前は書けない。理由も書けない。
結局、こう書いた。
――毎朝、匙に一杯。七日で終わります。
字が震えていた。わざとではない。どう書けば自分の字だと分からないか考えすぎて、かえって妙な字になった。
「我が君の筆跡を、かなり上手く隠せています」
(褒めてるのか、それ)
「はい。我が君の本来の筆跡より、読みやすいです」
(やっぱり褒めてないな)
◇
厨房を片づけていると、背後で床板が軋んだ。
振り返ると、寝間着の上に肩掛けを羽織ったマーサが、ランプを手に立っていた。
「……こんな夜中に、何やってるんだい」
心臓が跳ねた。テーブルの上には銀色の液体が入った七つの小瓶が並んでいる。
「すみません、厨房を勝手に。あの、これは、腹痛の薬で」
「腹痛の薬を七本も作るのかい」
「……知り合いが、腹が弱くて」
自分でも呆れるほど下手な嘘だった。
「我が君。嘘の精度が過去最低を記録しています」
(言われなくても分かってる)
マーサはしばらく黙って、アルトと小瓶を見比べていた。それから、ふうっと大きく息を吐いた。
「まあいいさ。竈の火はちゃんと消しといておくれよ」
それだけ言って、背を向けた。
階段に足をかけたところで、一度だけ振り返る。
「それと、明日の朝飯はちゃんと食べるんだよ。夜中に誰かのために何かするのはいいけどね、自分の分の飯を抜く理由にはならないんだから」
「……はい」
マーサの足音が二階へ消えていった。
テーブルの端に、いつの間にか布の包みがひとつ置かれている。開くと、中に焼いたパンが二つ入っていた。まだほんのりと温かい。
夜更けの下町は昼間とは別の顔をしていた。
軒先の洗濯物は取りこまれ、家々の窓は暗い。どこかで犬が一度だけ吠え、すぐに静かになった。月明かりが土の道を白く照らし、自分の影が長く伸びている。
路地の突き当たり。カイの家の前に立つ。
戸口の脇の鉢植えの花が月の光の中で白くぼんやりと光っていた。
「家の中の生体反応、三つ。全員、睡眠状態です」
しゃがみこみ、七つの小瓶を入れた布の包みを、鉢植えの横にそっと置いた。紙切れを、包みの結び目に挟む。
鉢植えの花に、そっと指先で触れる。
柔らかい花びらが夜露で少し湿っていた。ハンナが毎朝、仕事に出る前に水をやっているのだろう。どんなに忙しくても、これだけは欠かさずに。
――お前は考える子だ。考えて、生き延びろ。
オルドレンの声がふと耳の奥で蘇った。
生き延びて、それからどうするのか。あの焼け跡を出た時には何も分からなかった。今も、全部が分かったわけではない。
けれど、少なくとも今夜は、自分の考えたことで誰かの明日が変わる。
(長。俺、ちょっとは考えられるようになったかな)
答えはない。夜風が鉢植えの花を揺らしただけだった。
立ち上がろうとした時、ふと、家の中のことを考えた。
薄暗い部屋。窓辺の寝台。毛布にくるまって咳をしていた、小さな背中。
――アルトさん、お医者さんみたいだった。
あの子は自分の体の中の弁が、たった一文字のせいで逆さまになっていることを知らない。十一年間、それだけのために寝台に縛りつけられてきたことも。
七日後にはその一文字が直る。
「我が君。長居は推奨しません」
(分かってる)
背を向けて、路地を戻りはじめた。
カイの家の奥の窓。
薄い布の帳が内側からほんの少しだけ持ち上がっていた。
月明かりの下を歩いていく人影を、小さな目がじっと見つめていた。眠れずに起きていたのだ。最近は咳が続いて、夜中に何度も目が覚める。
人影は振り返らなかった。けれど、月の光が、その横顔の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。
長い、尖った耳。
ミナは帳の端を握りしめたまま、息を殺していた。人影が路地の角を曲がって見えなくなるまで、ずっと。
「……エルフさん」
誰にも聞こえない声で、小さく呟く。
それから、お兄ちゃんには内緒にしよう、と思った。なぜだかは分からない。ただ、そうしたほうがいい気がしたのだ。
戸口の外で、鉢植えの白い花が、夜風にかすかに揺れていた。




