第十八話 夜通しの炉
鋼が赤から橙へ、橙から黄色へと色を変えていく。
バルドの金槌は一度も止まらなかった。焼けた鋼を叩いては伸ばし、折り返してはまた叩く。そのたびに火花が散り、鉄の焼ける匂いが工房に満ちていく。
叩いているというより、鋼と話をしているようだった。
「ドワーフの鍛冶はな、鋼の声を聞くんだ」
金槌を振るいながら、バルドが言った。
「どこが硬くて、どこが脆いか。どこに歪みが溜まってるか。叩けば鋼が教えてくれる。それを聞きながら、少しずつ形を整えてやる。焦ると鋼は臍を曲げる」
(NOA。見えるか)
「見えています。鋼の理の中の、結晶の並びが整っていく様子が」
視界の中で、焼けた鋼に青い文字列が走っていた。金槌が振り下ろされるたびに、乱れていた文字列が少しずつ揃っていく。
歪んでいた式がまっすぐになっていく。
「この個体は、理を見ることができません。それなのに、私が演算で導き出す最適な打点と、ほぼ同じ場所を叩いています」
(三百年近く、鋼を叩いてきたんだろうな)
「百二十年前後です。手の使い方と道具の摩耗から推定しました」
(それでもすごいな)
「同意します。経験による最適化です。私にはできない種類の」
NOAの声に、珍しく感心したような響きが混じった。
夜が更けるにつれ、針の形が出来上がっていった。
長さは人差し指ほど。先端は髪の毛よりも細く、柄の部分はわずかに太く、指で握りやすい形に削られている。
「次は柄の刻印だ。お前の図面のとおりにな」
バルドが細い刻印針を手に取り、柄に当てた。
息を詰める。太い指が信じられないほど繊細に動きはじめた。
一本、また一本。柄の表面に細い線が刻まれていく。アルトが図面に描いた線を、少しも違えずになぞっていく。
「三十二本目の線、角度に〇・五度のずれがあります」
「バルドさん、今の線、ほんの少し右に傾いてます」
バルドの手が止まった。
「……あ?」
拡大鏡を額から下ろし、刻んだ線を覗きこむ。しばらく睨んでから、舌打ちした。
「確かに傾いてやがる。よく見えたな、小僧」
「エルフは目がいいので」
「便利だな、エルフ」
「その言い訳は、本日二回目の使用です」
(便利なんだからいいだろ)
バルドは傾いた線を丁寧に削り直し、また次の線に取りかかった。
◇
深夜を回った頃、二人は最初の言い争いをした。
「違う、そこはそうじゃねえ」
「でも、この順番で刻んだほうが、魔力の通り道が短くなります」
「通り道が短けりゃいいってもんじゃねえんだよ」
バルドが金槌の柄で作業台を叩いた。
「刻印ってのはな、魔力を流すための道だ。道が短けりゃ速く流れる。それは分かる。だが速すぎる流れは、器を削る。何年も使ううちに線がすり減って、いつか式が通らなくなるんだ」
「でも」
「ドワーフの刻印師はな、何百年も使える道具を作るために、わざと道を曲げるんだよ。流れを緩めて、器を長持ちさせる。それが鉱脈の律ってもんだ」
言葉に詰まった。
(NOA、本当か)
「……検証します」
視界の中で、図面の式が組み直されていく。魔力の流れの速さと、刻印の線が時間とともにすり減っていく様子。
NOAが数年分の変化を一気に演算していく。
「バルド・グランハンマーの指摘は正しいです。我が君の設計では、刻印具は約三年で劣化します。ドワーフの手法で流路を迂回させた場合、耐用年数は四十年以上に延びます」
(三年……)
「私の演算は、目の前の効率を最大化することに偏っていました。長期的な耐久性の評価が不足していました」
NOAの声がほんのわずかに沈んだように聞こえた。
(俺も同じだよ。前世でも、すぐ動くことばっかり考えて、後で全部書き直す羽目になってた)
「記録にあります。頻繁に」
(……そこは同意しなくていい)
「バルドさん。その順番で、お願いします」
バルドがにやりと笑った。
「分かりゃいいんだよ」
それからの作業はまるで違うものになった。
アルトとNOAが式の骨組みを組み、バルドがそれを長持ちさせるための曲がり方を加えていく。一人では辿り着けなかった形が二人の間で少しずつ出来上がっていく。
線を一本刻むたびに、バルドが何か言う。アルトがそれに答える。NOAが横から数字を足す。
時々言い争いになり、時々二人で同時に黙りこみ、時々同時に同じことに気づいて顔を見合わせた。
悪くない、とアルトは思う。
前世ではこういう相手がいなかった。一人で考えて、一人で書いて、一人で倒れた。
◇
夜半を過ぎた頃、バルドが金槌を置いた。
「腹が減った。休憩だ」
奥の棚から、干した肉の塊と、黒く固まったパンを出してくる。炉の端で鍋を温め、そこに干し肉を放りこんで煮はじめた。
塩と、何かの香草を少しだけ。
「食え」
欠けた木の椀に、湯気の立つ煮汁がよそわれた。
一口すする。しょっぱい。干し肉は固く、パンは石のようだった。
マーサのシチューとは比べものにならない。
それでも、体の芯まで冷えていた指先に、じんわりと熱が戻ってくる。
「まずいだろ」
「……正直に言っていいですか」
「言うな。分かってる」
バルドは自分の椀を一気に飲み干し、口元の髭を手の甲で拭った。
「一人だとな、飯なんざどうでもよくなるんだ。腹に入れば何でもいい」
炉の火を見つめる横顔が昼間よりずっと年老いて見えた。
「バルドさんは、ずっと一人なんですか」
「百年な」
「グラン・ドルムの出身……なんですよね」
「ああ」
バルドは少しのあいだ黙っていた。それから、鼻を鳴らした。
「堅苦しい家だったんだよ。生まれた時から、どこで何をするか全部決まってる。鍛冶だけは好きにやらせてもらえたが、それ以外は何ひとつ自分で選べねえ」
空の椀を指先で回す。
「だから出てきた。百年前にな。親父には二度と顔を見せるなと言われた。それっきりだ」
アルトは何も言えなかった。
帰る場所を、自分から捨てた人。
帰る場所を、奪われた自分。
形は違う。それでも、炉の火を見つめるバルドの目が焼け跡の里を見下ろしていた時の自分の目と、どこか似ている気がした。
「……後悔してますか」
「してねえよ」
即答だった。だがそのあとに小さく付け加えた。
「たまに、地下の街の匂いを思い出すくらいだ」
「我が君。グラン・ドルムはドワーフの地下都市です。この個体の出自について、記録しておきます」
(ああ。……でも、本人が話したくなるまでは、俺からは聞かない)
「了解しました」
バルドが椀を置き、膝を叩いて立ち上がった。
「しんみりしちまったな。続きだ、小僧。ふいごを踏め」
夜明け前、針が完成した。
バルドが柄を握り、魔銀の欠片に先端を当てる。
かすかな青い光が針先に灯った。金属が溶ける細い煙がすっと立ちのぼる。バルドが手を動かすと、針先は吸いつくように金属の上を滑り、髪の毛の半分ほどの細い線を引いた。
まっすぐだった。少しも揺れていない。
「……は」
バルドが声にならない声を漏らした。
「手が震えてるのに、線が震えねえ」
もう一本。さらにもう一本。
バルドは針を置き、自分の手のひらを見つめた。それから、ゆっくりとアルトのほうを向いた。
「小僧」
「はい」
「俺はな、百二十年鍛冶をやってきた。グラン・ドルムを出てから百年、この工房で鋼を叩いてきた。自分の腕にはそれなりに自信がある」
煤けた顔に、炉の火が揺れている。
「その俺が、一晩でこんなもんを作れるとは思ってなかった。お前の図面がなきゃ作れなかったし、俺の手がなきゃ作れなかった」
バルドは針を指先で摘まみ、炉の光にかざした。
「いい仕事だ」
短い言葉だった。けれど、それだけで十分だった。
「小僧、お前もやってみろ」
バルドが針をこちらに差し出した。
「え、俺がですか」
「お前の考えた針だろうが。自分で使い心地を確かめねえでどうする」
恐る恐る針を受け取る。柄が手のひらに吸いつくように馴染んだ。魔銀の切れ端に針先を当て、魔力を少しだけ流しこむ。青い光が灯った。
ゆっくりと手を動かす。
線が引けた。
まっすぐ……ではなかった。途中でぐにゃりと曲がり、蛇のようにのたくって、最後は斜めに逸れて切れている。
「……」
「……」
「手の震えの補正は正常に機能しています。ですが我が君の場合、震え以前に、手の動かす方向そのものが間違っています」
(針のせいじゃないってことか)
「はい。我が君のせいです」
バルドが腹を抱えて笑い転げた。
「ぶははは! 針がいくら優秀でも、使う奴がこれじゃあな! お前、本当に図面を描いた奴と同じ人間か!」
「……設計と実装は、別の才能なんです」
「何言ってるか分からねえが、言い訳だってことは分かるぞ」
ぐうの音も出なかった。
そこから先は早かった。
出来上がった針で、ミナの刻印具を刻んでいく。指先ほどの魔銀の欠片に、三百十二本の線を。
バルドが針を動かし、アルトが図面を読み上げる。NOAが線の位置を確かめる。三人の呼吸がいつの間にかぴたりと揃っていた。
最後の一本を刻み終えた時、工房の小さな窓から、薄青い朝の光が差しこんでいた。
作業台の上で、小さな魔銀の欠片が淡く光っている。三百十二本の線がまるで細い川のように、欠片の表面を流れていた。
「式の構造、確認しました。設計どおりです。耐用年数、推定四十二年」
(……通った)
アルトは作業台に突っ伏した。
バルドも丸椅子に座りこみ、背中を壁に預ける。二人とも、汗と煤で真っ黒だった。
「飲め」
目の前に、杯が差し出された。琥珀色の液体が揺れている。
「酒は、飲んだことないって」
「祝い酒だ。一口でいい」
断る気力も残っていなかった。杯を受け取り、恐る恐る口をつける。
喉が焼けた。
咳きこむ。涙が出る。喉から胃まで、火の玉が転がり落ちていったようだった。
「げほっ、げほっ……! な、なんですか、これ」
「グラン・ドルムの火酒だ。ドワーフの子供は、これで乳離れするんだよ」
「嘘だ……」
「半分嘘だ」
バルドが腹を抱えて笑った。
「我が君。血中の酒精濃度が急上昇しています。エルフの体は酒精の分解が遅い傾向があります。これ以上の摂取は推奨しません」
(言われなくても、もう飲まない)
しばらく、二人とも黙っていた。
炉の火が小さくなり、工房の中に朝の冷たい空気が流れこんでくる。
バルドが作業台の端に置かれたエルナの弓に目をやった。
「その弓の持ち主は、どんな奴だった」
少しだけ迷ってから、答えた。
「口が悪くて、手が早くて、弓が上手かった。俺の姉みたいな人でした」
「そうか」
「料理は下手でした。なんでも焦がすんです」
「そうか」
バルドはそれ以上何も聞かなかった。ただ、太い指で弓幹をそっと撫でた。
「いつか、直してやる」
「本当ですか」
「ああ。だが、今じゃねえ。お前が、もうちっとまともに弓を引けるようになってからだ。泣いてる弓を、下手くそに引かせるわけにはいかねえからな」
ぶっきらぼうな声だった。それなのに、胸の奥がじんと温かくなった。
「さて」
バルドが膝を叩いて立ち上がった。大きく伸びをして、首をばきばきと鳴らす。
「次はお前の番だ、小僧」
「俺の?」
「とぼけんな。あの針の図面を描ける奴が、なんで剣も杖も持たずに冒険者やってやがる。ろくな武器もなしに、そのうち死ぬぞ」
バルドは新しい炭を炉に放りこんだ。
「お前の杖を作る。図面を描け」
「今からですか? もう朝ですよ」
「朝だからどうした。ドワーフに朝も夜もあるか」
ふいごが踏まれ、炉の火がまた勢いよく燃え上がった。




